野茂英雄とは20歳違いだが、3年間にわたって対戦。門田は野茂にもライバル心を燃やしていた。
とにかく上昇志向の強い野球人、という印象だ。

①1988年
40歳になる門田博光は、チームがどうしようもない状態になる中、一人光彩を放っていた。
私はこの年のホークスのホームゲームを大半観た。
門田は、他の選手とは違うアンダーシャツを着ていた。同じグリーンだが、伸縮性がある素材。それは腕の動きをスムースにするためかと思われた。
ゆっくりと左打席に立つと、軽く素振りをくれて、左耳の後ろにバットを構える。ぴたっと構えが決まると、あとは全く動かなかった。
バックネット裏で見ていて、バットが紙の棒か何かのように軽そうに見えた。軽く握った両手は重さを感じていないようだった。
しかし好球が来るや、門田は右足を高く上げ、思いきりバットを振りぬく。中途半端なスイングは殆どなかった。豪快なフォロースルーとともにボールは右翼スタンドまで飛んでいくのだった。
あまりにもシンプルなために、バッティングとはこんなに簡単なものか、と思ってしまう。
しかし、他の南海の選手が、いろいろなフォームで凡打を重ねているのを見ると、門田は別次元にいたのだ、とわかるのだった。
この年の秋に南海ホークスの身売りが発表された。それだけに、夢中になって門田を追いかけた日々が懐かしい。
職場からはタクシーで10分。御堂筋をさーっと走って大阪球場について、チケットを買ってスタンドに座ると1回表の攻撃が終わり、南海の攻撃。ビールを一口すすると門田が打席に立つ、これが習慣になっていた。これもバブルである。
②1972年
門田博光を意識したのはこの年。ABCのラジオで道上洋三が「かどた」と呼んでから「博」が読めずに「ひろむ」と呼んだのがひどく気に障った。阪神ファンか何か知らないが、前年のパリーグ打点王も知らないのか。
門田は右翼を守っていた。小さくて、足が短くて遅そうだったが、落下点に入るのは速かった。そして、びっくりするような球を投げた。「門田の鉄砲肩」は有名だった。
75年、西宮球場で右翼のバーニー・ウィリアムスが本塁へノーバウンドの返球をするのを何度か見たが、門田は大阪球場の右翼で同じような送球を何度かした。
3番門田、4番野村。野村とはあまり仲が良さそうには見えなかったが、この中軸は強力だった。
この頃までは、長打を飛ばすと言うより中距離打者で、ライナーで外野を抜ける当たりが多かった。三振は少なく、ミートがうまい。セリーグの若松勉とも通じる打者だと思った。
その後、門田は一発狙いに変身したために長く低迷することになる。


③1979年
門田はビッグマウスでも知られていた。この年のシーズン前、「200本安打を打ったる」と宣言。
しかしキャンプでアキレスけんを断裂、シーズンをほぼ棒に振った。
この年の8月、門田は二軍戦で復帰。私はバックネット裏でこの試合を見ている(何度も書いたが)。鋭くスイングした打球は、投手がジャンプしたグラブのすぐ上を通過し、どんどん高度を上げてバックスクリーンに突き刺さった。これが、「長距離打者門田博光」の誕生の瞬間だったのかもしれない。
9月には代打として復帰、翌年初の40本塁打。門田は生まれ変わったのだ。
1983年には門田は背番号を60に変更。「60本打ったる!」という宣言だった。この年40本で2度目の本塁打王。指名打者にも専念し、最強のDHになった。
79年はまさに門田博光の転機だった。
④2011年
門田は近鉄奈良線の学園前駅に家があった。
そこから近鉄特急に乗って難波まで通っていた。高校生だった私が500円余計に払って特急に乗ることはなかったが、難波の駅で降りて大阪球場へ向かう門田は何度も見かけた。
背丈は私と変わらなかったが、横幅は広かった。
濃紺の背広に身を包んでのっしのっしと歩く門田は、まるで重戦車のようだった。
サインを求める人は滅多にいなかったが、それは全身から発せられるオーラが人を寄せ付けなかったからかもしれない。
それから30数年後、門田は同じ緑色のユニフォームに身を包んで住之江球場に立っていた。
監督として関西独立リーグ大阪ホークスドリームを指揮していたのだ。
その体は驚くほど小さくなり、スポーツ選手とは思えなくなっていた。


しかし、闘志は衰えていなかった。
四球を連発し、試合をめちゃめちゃにした選手たちに、試合後、ダッグアウトから
「なんべんこんな試合やったら気が済むんじゃ!お前らプロでも何でもないわ!やめてまえ!」
と怒鳴る声が聞こえてきたのだった。

「門田博光」「他の選手」についてコメントを是非お寄せください!
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①1988年
40歳になる門田博光は、チームがどうしようもない状態になる中、一人光彩を放っていた。
私はこの年のホークスのホームゲームを大半観た。
門田は、他の選手とは違うアンダーシャツを着ていた。同じグリーンだが、伸縮性がある素材。それは腕の動きをスムースにするためかと思われた。
ゆっくりと左打席に立つと、軽く素振りをくれて、左耳の後ろにバットを構える。ぴたっと構えが決まると、あとは全く動かなかった。
バックネット裏で見ていて、バットが紙の棒か何かのように軽そうに見えた。軽く握った両手は重さを感じていないようだった。
しかし好球が来るや、門田は右足を高く上げ、思いきりバットを振りぬく。中途半端なスイングは殆どなかった。豪快なフォロースルーとともにボールは右翼スタンドまで飛んでいくのだった。
あまりにもシンプルなために、バッティングとはこんなに簡単なものか、と思ってしまう。
しかし、他の南海の選手が、いろいろなフォームで凡打を重ねているのを見ると、門田は別次元にいたのだ、とわかるのだった。
この年の秋に南海ホークスの身売りが発表された。それだけに、夢中になって門田を追いかけた日々が懐かしい。
職場からはタクシーで10分。御堂筋をさーっと走って大阪球場について、チケットを買ってスタンドに座ると1回表の攻撃が終わり、南海の攻撃。ビールを一口すすると門田が打席に立つ、これが習慣になっていた。これもバブルである。
②1972年
門田博光を意識したのはこの年。ABCのラジオで道上洋三が「かどた」と呼んでから「博」が読めずに「ひろむ」と呼んだのがひどく気に障った。阪神ファンか何か知らないが、前年のパリーグ打点王も知らないのか。
門田は右翼を守っていた。小さくて、足が短くて遅そうだったが、落下点に入るのは速かった。そして、びっくりするような球を投げた。「門田の鉄砲肩」は有名だった。
75年、西宮球場で右翼のバーニー・ウィリアムスが本塁へノーバウンドの返球をするのを何度か見たが、門田は大阪球場の右翼で同じような送球を何度かした。
3番門田、4番野村。野村とはあまり仲が良さそうには見えなかったが、この中軸は強力だった。
この頃までは、長打を飛ばすと言うより中距離打者で、ライナーで外野を抜ける当たりが多かった。三振は少なく、ミートがうまい。セリーグの若松勉とも通じる打者だと思った。
その後、門田は一発狙いに変身したために長く低迷することになる。
③1979年
門田はビッグマウスでも知られていた。この年のシーズン前、「200本安打を打ったる」と宣言。
しかしキャンプでアキレスけんを断裂、シーズンをほぼ棒に振った。
この年の8月、門田は二軍戦で復帰。私はバックネット裏でこの試合を見ている(何度も書いたが)。鋭くスイングした打球は、投手がジャンプしたグラブのすぐ上を通過し、どんどん高度を上げてバックスクリーンに突き刺さった。これが、「長距離打者門田博光」の誕生の瞬間だったのかもしれない。
9月には代打として復帰、翌年初の40本塁打。門田は生まれ変わったのだ。
1983年には門田は背番号を60に変更。「60本打ったる!」という宣言だった。この年40本で2度目の本塁打王。指名打者にも専念し、最強のDHになった。
79年はまさに門田博光の転機だった。
④2011年
門田は近鉄奈良線の学園前駅に家があった。
そこから近鉄特急に乗って難波まで通っていた。高校生だった私が500円余計に払って特急に乗ることはなかったが、難波の駅で降りて大阪球場へ向かう門田は何度も見かけた。
背丈は私と変わらなかったが、横幅は広かった。
濃紺の背広に身を包んでのっしのっしと歩く門田は、まるで重戦車のようだった。
サインを求める人は滅多にいなかったが、それは全身から発せられるオーラが人を寄せ付けなかったからかもしれない。
それから30数年後、門田は同じ緑色のユニフォームに身を包んで住之江球場に立っていた。
監督として関西独立リーグ大阪ホークスドリームを指揮していたのだ。
その体は驚くほど小さくなり、スポーツ選手とは思えなくなっていた。


しかし、闘志は衰えていなかった。
四球を連発し、試合をめちゃめちゃにした選手たちに、試合後、ダッグアウトから
「なんべんこんな試合やったら気が済むんじゃ!お前らプロでも何でもないわ!やめてまえ!」
と怒鳴る声が聞こえてきたのだった。

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コメント
コメント一覧
山崎武司までは「不惑の大砲」の肩書は門田だけが許された称号でした。
野茂英雄にプロ初被弾をかましたのは門田でした。それも宣言の上で。
そして引退試合も先発野茂と3打席でした。
友達からは門田って誰や?と言われて、ふん!門田博光も知らんど素人が!と生意気に言ってました。自分も門田以外のホークスの選手は大して知らんくせに。
それは88年4月年宮城球場でロッテ-南海戦が開催された試合で、前日に川勝オーナーが死去し、杉浦監督や選手が「勝つことが我々にとって最大の供養」と新聞に掲載された日曜日でした。
たまたま1塁側内野席で、門田のフォームを直に観ました。
>ゆっくりと左打席に立つと、軽く素振りをくれて、左耳の後ろにバットを構える。ぴたっと構えが決まると、あとは全く動かなかった。
まさにお言葉どおり。濃い緑のビジターユニフォームで子供心に「当たればスタンド」を感じさせた選手。
それが9月になって南海が身売り、と新聞で知った時両親に「身売りって何?」と聞いたのを思い出しました。
ああ、地方に生まれ育った自分は、何てちっぽけな存在だ…。
プロ野球が常にある東京や大阪に生まれ育ちたかった、と昔も今も嘆く自分がいる…。
門田は生で見たことがないのですよね…今思えばもったいない。
引退試合の豪快なスイングでの三振に感動しました。
こうして成績を見ると素晴らしい選球眼の持ち主だったことが分かりますね。
大阪球場でも見たことがあるのですが、はっきり記憶しているのは身売りした翌年、オリックスに移籍したときのオープン戦ですね。
この日は雨。そして憶えているのはアメリカから女性審判が研修のためにやってきたということで、ちょっとした注目を浴びていた日でした。私は中学一年生で、同級生が新年度から転校するということで、思い出づくりのために7、8人で西宮球場にやってきました。
試合は中止になってしまい、ヒマになってしまったクソガキどもは、競輪用のバンクに勝手に腰かけたり、球場の周りをぶらぶらしながら、選手と写真を撮ってもらったりしていました。私は特に必然性もなかったのですが、野中徹博(この年だけ登録名が違ったようですが)に声をかけて写真を撮ってもらいました。
通りがかった門田にも声をかけようとしたのですが、やはり大物のオーラを感じてしまい、結局声をかけられず、手元に残ったのはブレブレの半身の写真だけだったというオチでした。
ああ、それと大阪球場最後の試合も行ったんですよ。確か中間テストの日で部活がなかったので、土曜の午後がフリーだったんです。むろん、チケットは売り切れ。球場に入ることもかなわず、日本橋の電気街で空しくテレビを見ました。そういえば、当時、大阪球場はどこかに秘密の入り口があって、タダで入れるんだと誰かが言っていましたね。そんな都市伝説にさえすがりたくなったものでした。
大阪球場の内野席入り口には、招待券が山と積まれていました。近所の喫茶店の倅に頼むと、何枚でも持ってきてくれたんです。
私は社会人になってからはバックネット裏でしか見たことがありませんが、高校生、予備校生(大阪球場の横のエール予備校!)のときは、その子の世話になりました。
そういえば、予備校の最上階から普通に野球が見えましたよ。
その時に門田のホームランを見ました。
あっという間にライトスタンドに突き刺さる打球の速さとパワーに驚きを感じ興奮したのもつかの間、のんびりとベースをランニングしている姿が何か象徴的で貫禄みたいなものを感じたことを今でも覚えています。
確か1-0の試合だったと思います。
一発で試合を決めたホームランバッター、アスリートに見えない小さな体の門田はそのギャップから私にとって特別な選手になりました。
内野席では親父に連れられて何度か観戦したことがありました。当時は応援団が内野にもいましたが、今のような大規模なものではなく、太鼓や鐘を鳴らすくらいの、牧歌的な雰囲気でしたね。
そんな普段の閑散としたスタンドを知っていたので、最後の試合にあんなにお客さんが入るなんて思ってもみなかったのです。浅はかな子供でした。
阪急ではなくて南海ですよね?オリックスですか?
私は9月半ばころに、球団事務所へ直接チケットを買いに行きました。そのあと球場内にあったハードロック・カフェに行ったのをなぜかよく覚えています。
わたしは阪急ファンだったので、南海の選手は野村以外はあまり知りませんでした。スコアボードにあった「門田」の文字をなんと読むのかがわかりませんでした。門田の最初の記憶はその読み方がわからなかったということでした。
後にその門田がオリックス・ブレーブスに来ることになるとは。
ブーマーとのハイタッチでの脱臼は、球場で見ていました。ホームランの喜びが一瞬にして消されてしまいました。
その数少ない情報の中で見る門田は、スマートな秋山清原とは真逆のずんぐりむっくりした体型の一本足打法でした。王さんは見た事が無い上に、大洋ファンだった私は一本足打法といえば片平晋作でしたが、あの素人目にもぎこちないやつとは違い、悠然と右足を上げてからバットを「振る」というより「ボールにぶつける」という表現が適当な打撃には度肝を抜かれました。「これは凄い・・・」そんな中、門田は記録的なペースでHRを重ね、異例の優勝争いすらしてないチームからのMVPに。門田は嫌っていたようですが、この活躍でマスコミも増えて遠いこっちにも入る情報が増えたのは何よりでした。そんな昔気質の門田ですが、このシーズンから解禁された黒いバットを早速使用しているあたり、面白いオッサンだなあwと思ったものです。
「ヒットの延長がホームランではない」
「ホームランは狙わないで打てるものではない」
「ホームランを多く打てる選手は限られている。その選手が狙わないでどうする」
と対談でイマイチ煮え切らない岡田に熱い言葉をぶつけていましたが、これは体が小さく、しかも高校時代1本もHRを打てなかった自身がこれだけできたのに、ガタイがよく高校時代から大砲として鳴らし一時的にとはいえプロで開花した岡田がくすぶっていることに対しての不満、歯がゆさ、もどかしさがあったのでしょう。
今年、やや復活したTにはどう思っているのか、聞きたいところです。また長い駄文失礼致しました。
若い頃は投手優位、低いパークファクターの球場でプレーとなり、後年の打者優位への変換でやっと本来の実力を発揮しているという感じでしょうか。
傑出度からみてもほぼ一貫して優秀なスラッガーであり、若い頃から晩年の環境でプレーしていたらより素晴らしい成績になっていたでしょう。