投手の酷使についての問題は、日米両方に存在する。どちらがより酷使しているか、と言う問題もあるだろうが、それ以上に「文化」の差を感じる。
日本の野球史では、そもそも投手と言うのは「腕も折れよ」と投げるものだった。
明治期、無敵の存在だった第一高等学校には、連日の投げ込みで腕が曲がってしまい、木にぶら下がってそれを矯正した投手もいた。
今の投手コーチからすれば背筋が寒くなるような話だが、当時はそれが美談だったのだ。

甲子園の中等学校野球が全国的な人気を博すると、一人の大エースを中心とするチームを組んでトーナメントを勝ち抜いてくる学校が続々と現れた。
こうしたチームでは、勝ち進むと連投するのが当たり前だった。延長戦も一人で投げ抜き、翌日もマウンドに上がる。
リーグ戦ではなく、一戦必勝のトーナメント戦では、エースの力投が勝敗を決するのであって、それ以外のパターンはむしろ例外的だった。

甲子園と人気を二分した大学野球はリーグ戦だったが、週末ごとの試合開催だったから、エースが投げることが多かった。大学の場合は、さすがに一人ではなく数人の投手がいたが、それでも優勝が決まるような重要な試合では、エースが延長戦を投げ抜いたり、連投したりすることが多かった。
日本のアマチュア野球は「エース恃みの野球」だったと言って良いだろう。

1936年に始まったプロ野球でも、「エース」は野球の華だった。
先ほど兄弟サイトクラシックSTATS鑑賞で、澤村榮治の戦績を紹介したが、全盛期の澤村はチームの投球回数の半分近くを一人で投げていた。エースとはそういうものだったのだ。

そういう野球は1960年代半ばまで続いた。もちろん、川上哲治やONなど、野手のスターもたくさん出たが、日本野球のスーパースターの「王道」は、嶋清一、澤村榮治、稲尾和久、杉浦忠、そしてフィクションの星飛雄馬に至るまで、「大エース」だったと言って良い。

日本の「大エース」に求められるのは、単に球が速いとか、三振を取れるとかだけではなくて、「どれだけ長く投げられるか」「どれだけ多く投げられるか」だった。
「酷使に耐える」ことは、日本のエースの必須条件だったのだ。

ビクトル・スタルヒンや金田正一、米田哲也、小山正明、別所毅彦など酷使に耐えて巨大な成績を残した投手もいたが、稲尾和久、杉浦忠など壮年期で中折れする投手もいた。また1年~2年エースの働きをして消えていく投手もたくさんいた。

1970年頃からNPBの投手の投球回数は減っていく。NPBは常にMLBをお手本にしてきた。74年にMLBと1年遅れでセーブ制度が導入されてからは、投手の分業が進んだ。

また、打者の打撃技術が向上し、速球が打ちこまれるようになったことも大きい。投手は速球に加えて変化球を多用しなければならなくなった。これが肩、ひじへの負担を大きくし、昔のように多投、連投ができなくなっていった。

プロ野球はこういう形で分業が進んでいった。大学野球も複数の投手を併用する学校が増えて行った。
しかし高校野球は基本的にそのスタイルを変えていない。今も一人のエースを中心に勝ち上がっていくのが常道だ。
そして多くの野球人は、そうした「エース恃み」の野球を未だに肯定している。

2013年春、愛媛済美高の安楽智大は、選抜大会を一人で投げ抜いた。772球と言う球数を、ESPNなど米のメディアは「酷使だ」と大きく取り上げた。
このときに江本孟紀は「上から目線でものを言うな」と猛反発した。
「肩が壊れると言うが、一人で投げ切ったではないか。その事実をどう思うのか」
「アメリカのヤワな投手とは鍛え方が違う。下半身をしっかり鍛えたうえで、肩、ひじに負担の少ない投げ方をしているから大丈夫だ」
と咆哮した。

この江本の意見に代表される用に、日本球界では今も「若いうちはスタミナをつけ、技術を磨くためにも投げ込みをした方が良い」「良い投げ方をすれば壊れない」という意見が大勢を占める。

このためにプロ野球に進むような有望な投手は、安楽ほどではないにせよ、高校時代に延長戦を投げ抜いたり、連投したり、先発救援を掛け持ちしたり、「戦前のプロ野球」のような過酷な登板を経験した選手が多い。
田中将大もまさにその一人だった。
その酷使が今回のDLにつながったかどうかはわからないが、アメリカではそうした日本独自の「野球文化」を問題視する傾向があるのは確かである。

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