高校野球に代表される高校スポーツで、思い浮かべるのは「職業軍人」と言う言葉だ。
野球をはじめとする高校のメジャーなスポーツの世界では、スポーツをするということは「将来それで身を立てる」あるいは、そこまでいかなくとも「そのスポーツを将来設計に組み入れる」くらいの重さを持つ。
全国大会に出場すればその世界で名前が売れる。スポーツで進学、就職する道も開ける。
そういうスポーツ選手と、一般のスポーツ愛好家は同列で語れる存在ではなくなってくる。
有力スポーツ部に属する高校生は、一日の大半をそのスポーツのために費やす。それは「楽しみ」ではなく、「修練」になってくる。
もちろん選手たちはそのスポーツが好きだから打ちこんでいるのだろうが、もはや「遊び」ではない。指導者からは「遊び半分でやっているのならやめろ!」と叱責されたりする。
本来、スポーツと言うものは人々が身体を適度に動かすことによって新陳代謝がよくなったり、ストレス解消したり、身体バランスが向上したりして、健康な生活を送ることができるようにするためにある。
中にはアスリートなど、その道に特化する人も出てくるが、スポーツというものは「国民」全体の物であり、スポーツ予算は国民一人一人が享受すべきものである。
しかし日本では、高校、大学と学校の年次が進むとともに、スポーツは特定の選手の物になってくる。
日本には「体育の授業」がある。これは世界でも珍しい制度だそうだ。またすべての学校にグランドや体育館がある。これも稀である。
日本では、すべての生徒は、そういう施設を利用してスポーツの初歩を学ぶことになる。それは貴重な経験であり、スポーツ愛好者を広げる上では非常に重要だ。
しかし本格的にスポーツを始めようと思ったとたん「体育会系のクラブでスポーツを中心に学生生活を送る者」と「スポーツをしない者」に決定的に分断される。
スポーツ指導者からすると、クラブに入らない生徒は、すでに物の数には入っていない。すべては「スポーツクラブ」に入った生徒のために注がれる。
そしてスポーツクラブは、強豪であればあるほど軍隊的な「鉄の規律」で縛られる。学年が一つ違えば王様と乞食、上級生には絶対服従、またレギュラーと補欠も王様と乞食。試合に出られないものは、下積みの苦労を強いられる。
指導者はそういう組織の頂点に立つ。レギュラーを決めたり、試合に出場させたりする生殺与奪権を背景に、絶対的な権力を握る。外部からの批判は届かない。
それだけでなく、生徒を大学、社会人、プロに紹介するコネクションを持っている場合も多い。指導者は生徒の将来にも大きな影響力を持っている。
だれでも気が付くことだが、有力なスポーツ部に入っている生徒は、一般の生徒とは姿かたちも、立ち居振る舞いも違っている。
学校で談笑していても、遠くに先輩の姿を見かけたら大声で「おはようーっす」と挨拶をする。ジュースやパンを買いに行かされたりすることもある。
それはまさに一般人と職業軍人の差のようである。
有力スポーツ部に入るということは「学校の中にある別の軍隊的な組織に入る」ことでもあるのだ。


そもそも日本の体育行政は、他国と違って本来の「すべての国民が健康な生活を送るため」に推進されたのではない。
富国強兵策のもと、「屈強な兵隊」を作るために推進された。欧米の人間に比べて体格的に劣っている日本人を「鍛えられた剽悍さ」と「死を恐れぬ勇敢さ」を持った兵隊にするために導入されたのだ。
山縣有朋を頂点とする陸軍の組織をまねて、学校の体育会は作られたのだ(その組織論は、官僚組織にも導入された)。
「絶対的権力は、絶対的に腐敗する」とされる。
旧日本軍も腐敗の巣窟だったことはよく知られているが、日本の体育会系倶楽部もしばしば腐敗する。
有望な生徒を学校やプロに送り込めば、指導者には少なからぬキックバックが入ってくる。「ここまで育て上げたから当然だ」という声もあるが、そうした金は表に出ない。税務署が関知しない金である。
怪しげなブローカーも暗躍する。
また、子どもをレギュラーにしたいために父母が金品を出すことも多い。それを要求する指導者もいるという。
体罰や陰湿ないじめが横行するのも、体育会系倶楽部が絶対的な権力組織だからだ。
そうした体育会系倶楽部の中で頂点に立つ高校野球が、もっとも腐臭が強いのは当然のことだろう。
体育会系倶楽部が軍隊組織になぞらえられるなら、その活躍の舞台である全国大会は「戦場」だと言えよう。
まさに夏の甲子園は、高校球児の「戦場」だ。
ここでは殊勲を上げることが求められるが、それ以上に観衆は選手たちがここで燃え尽き、「戦死」することを求めている。
毎年8月15日の正午には、甲子園にサイレンが鳴って丸坊主の高校球児が帽子を取って黙とうするが、それは「平和の祈り」とはとても思えない。
気ちがいじみた暑さの中で、戦場に散った兵士たちの正しき後継者たる球児たちが、「自分たちも後を追う」ことを誓っているようにしか見えない。
負けた選手たちが甲子園の土を素手でかき集めているのを見ると、私は何かを「埋葬」しているように思える。
夏の甲子園は「死」のイメージに支配されていると思われて仕方がない。
この戦場で「肩の酷使を考えて」登板を回避するような行為は「敵前逃亡」とみなされる。表立っての非難は無いにせよ「死を恐れる行為」は賞賛されることは無い。
「高校野球」は、戦前から連綿と続く日本的組織の伝統によって生きながらえてきた。
もちろん、それに対する改革の声は上がっていて、部分的には開明的なスポーツクラブも生まれつつはある。
しかし全体としてその体質は変わっていない。
恐らくは、そうした「軍隊」のような出処進退を日本人が本質的に愛しているからだろう。若者に「自己犠牲」を強いることを好む国民性があると言っても良い。
「自爆テロ」による犬死に過ぎない「特攻」を賛美する小説や、映画がベストセラーになるのを見ていると、日本人の「国民性」は全く揺らいでいないことを痛感する。
極論すれば、野球選手の酷使の背景には「日本国の国民の総意」があると言っても良いと思う。
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全国大会に出場すればその世界で名前が売れる。スポーツで進学、就職する道も開ける。
そういうスポーツ選手と、一般のスポーツ愛好家は同列で語れる存在ではなくなってくる。
有力スポーツ部に属する高校生は、一日の大半をそのスポーツのために費やす。それは「楽しみ」ではなく、「修練」になってくる。
もちろん選手たちはそのスポーツが好きだから打ちこんでいるのだろうが、もはや「遊び」ではない。指導者からは「遊び半分でやっているのならやめろ!」と叱責されたりする。
本来、スポーツと言うものは人々が身体を適度に動かすことによって新陳代謝がよくなったり、ストレス解消したり、身体バランスが向上したりして、健康な生活を送ることができるようにするためにある。
中にはアスリートなど、その道に特化する人も出てくるが、スポーツというものは「国民」全体の物であり、スポーツ予算は国民一人一人が享受すべきものである。
しかし日本では、高校、大学と学校の年次が進むとともに、スポーツは特定の選手の物になってくる。
日本には「体育の授業」がある。これは世界でも珍しい制度だそうだ。またすべての学校にグランドや体育館がある。これも稀である。
日本では、すべての生徒は、そういう施設を利用してスポーツの初歩を学ぶことになる。それは貴重な経験であり、スポーツ愛好者を広げる上では非常に重要だ。
しかし本格的にスポーツを始めようと思ったとたん「体育会系のクラブでスポーツを中心に学生生活を送る者」と「スポーツをしない者」に決定的に分断される。
スポーツ指導者からすると、クラブに入らない生徒は、すでに物の数には入っていない。すべては「スポーツクラブ」に入った生徒のために注がれる。
そしてスポーツクラブは、強豪であればあるほど軍隊的な「鉄の規律」で縛られる。学年が一つ違えば王様と乞食、上級生には絶対服従、またレギュラーと補欠も王様と乞食。試合に出られないものは、下積みの苦労を強いられる。
指導者はそういう組織の頂点に立つ。レギュラーを決めたり、試合に出場させたりする生殺与奪権を背景に、絶対的な権力を握る。外部からの批判は届かない。
それだけでなく、生徒を大学、社会人、プロに紹介するコネクションを持っている場合も多い。指導者は生徒の将来にも大きな影響力を持っている。
だれでも気が付くことだが、有力なスポーツ部に入っている生徒は、一般の生徒とは姿かたちも、立ち居振る舞いも違っている。
学校で談笑していても、遠くに先輩の姿を見かけたら大声で「おはようーっす」と挨拶をする。ジュースやパンを買いに行かされたりすることもある。
それはまさに一般人と職業軍人の差のようである。
有力スポーツ部に入るということは「学校の中にある別の軍隊的な組織に入る」ことでもあるのだ。
そもそも日本の体育行政は、他国と違って本来の「すべての国民が健康な生活を送るため」に推進されたのではない。
富国強兵策のもと、「屈強な兵隊」を作るために推進された。欧米の人間に比べて体格的に劣っている日本人を「鍛えられた剽悍さ」と「死を恐れぬ勇敢さ」を持った兵隊にするために導入されたのだ。
山縣有朋を頂点とする陸軍の組織をまねて、学校の体育会は作られたのだ(その組織論は、官僚組織にも導入された)。
「絶対的権力は、絶対的に腐敗する」とされる。
旧日本軍も腐敗の巣窟だったことはよく知られているが、日本の体育会系倶楽部もしばしば腐敗する。
有望な生徒を学校やプロに送り込めば、指導者には少なからぬキックバックが入ってくる。「ここまで育て上げたから当然だ」という声もあるが、そうした金は表に出ない。税務署が関知しない金である。
怪しげなブローカーも暗躍する。
また、子どもをレギュラーにしたいために父母が金品を出すことも多い。それを要求する指導者もいるという。
体罰や陰湿ないじめが横行するのも、体育会系倶楽部が絶対的な権力組織だからだ。
そうした体育会系倶楽部の中で頂点に立つ高校野球が、もっとも腐臭が強いのは当然のことだろう。
体育会系倶楽部が軍隊組織になぞらえられるなら、その活躍の舞台である全国大会は「戦場」だと言えよう。
まさに夏の甲子園は、高校球児の「戦場」だ。
ここでは殊勲を上げることが求められるが、それ以上に観衆は選手たちがここで燃え尽き、「戦死」することを求めている。
毎年8月15日の正午には、甲子園にサイレンが鳴って丸坊主の高校球児が帽子を取って黙とうするが、それは「平和の祈り」とはとても思えない。
気ちがいじみた暑さの中で、戦場に散った兵士たちの正しき後継者たる球児たちが、「自分たちも後を追う」ことを誓っているようにしか見えない。
負けた選手たちが甲子園の土を素手でかき集めているのを見ると、私は何かを「埋葬」しているように思える。
夏の甲子園は「死」のイメージに支配されていると思われて仕方がない。
この戦場で「肩の酷使を考えて」登板を回避するような行為は「敵前逃亡」とみなされる。表立っての非難は無いにせよ「死を恐れる行為」は賞賛されることは無い。
「高校野球」は、戦前から連綿と続く日本的組織の伝統によって生きながらえてきた。
もちろん、それに対する改革の声は上がっていて、部分的には開明的なスポーツクラブも生まれつつはある。
しかし全体としてその体質は変わっていない。
恐らくは、そうした「軍隊」のような出処進退を日本人が本質的に愛しているからだろう。若者に「自己犠牲」を強いることを好む国民性があると言っても良い。
「自爆テロ」による犬死に過ぎない「特攻」を賛美する小説や、映画がベストセラーになるのを見ていると、日本人の「国民性」は全く揺らいでいないことを痛感する。
極論すれば、野球選手の酷使の背景には「日本国の国民の総意」があると言っても良いと思う。
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コメント
コメント一覧
いろいろな原因につながっている気がします。
つまり「高校野球=甲子園」。
これを壊さないと日程の問題や酷使の問題は解消されないと思います。
それともタイガースの「死のロード」を7月から8月いっぱいまでやってもらいますか?(無理です)
大会をリーグ戦にして、甲子園以外の球場も使っていけば
日程には相当な余裕ができるはず。
応援団や父兄の宿泊の問題も発生してしまいますが
選手の酷使に比べることではないでしょう。
「高校野球」の指導者曰く
「苦しい練習は人間性を育てる。将来つらいことがあった時に、これを思い出したら乗り切れるぞ」
曰く
「辛くても苦しくても部活をやめるな。石に噛り付いてでも続けることに意義があるんだ」
曰く
「野球はチームスポーツだ。仲間のミスはカバーしなければならないし、一人だけ目立とうとしてもいけない。連帯責任はそのためだ」
多くの高校野球部員は、卒業後就職することになるでしょう。そこで辛く苦しいことに出会う度に40歳になっても50歳になっても18歳のあの頃に比べればと我慢をし、会社を辞めることもなく定年までしがみつき、周りから目立とうともせず同僚の犯したミスを庇い隠蔽し、定年後はからっぽになるのでしょう。
高度経済成長時代の亡霊ですね。亡霊は祓わねばなりません。
阪神戦の試合開始を後ろにずらす必要もありそうですが。
広告がうんたらかんたらという反対意見もあるでしょうが・・・
この文章の最初の表現は、現在では不適切な言葉のような気がしますが…。
まぁでも確かに真夏の兵庫県西宮市は沖縄よりも暑いですし、そんな最悪の天候で野球をするのは、不適切な言葉で表現しないと「夏の高校野球がいかに危険か」が一般の人には伝わらないのが辛い。
ベンチ入り人数を増やす、ゆとりある日程にすればいいといつも思うのですが…。
ネックを挙げてみると…、
・阪神球団から借りている甲子園の使用料がかかる。(阪神がホームで試合できない、というのは嘘。大阪ドームがあるし、ほっともっと神戸が88年に完成してからはタイガース主催試合が開催された過去がある)
・夏休みが短い北海道・東北・長野の高校は学業時間に支障がでる。北海道や長野は夏休みが8/20まで、東北は8/25までなので8/31まである関東以西の高校とでは学業時間に差がでるのだろう。
・ベンチ入り人数を増やすと、人件費がかさむ。学校や現地の宿などか。これは高野連は直接関係ないか。
・お盆に近い時期にやることで故郷に帰省する人達の「おらが町」意識が高校野球を盛り上げるため。
夏休みに大会をしたいのなら、それこそ7/25以降開会して8/16か17に終わらせればいいと思うのですが…。選手の体調管理にもなるのに…。
朝日新聞についても広尾さんにバッサリ斬って頂きたい。
主催者が広尾さんが言うのと180度逆の主張がお好きな新聞社だと思うんですけど・・・
私がどっちがのサイドに拠って発言していると思っておられたのなら、味噌汁で顔でも洗って出直されるべきでしょう。
放送コードとは別の表現基準で書いていますので。
話はそれるかもしれませんが「甲子園の土」ってどこに由来があるんでしょうかね?
ちょっと調べてみたら、具体的な持ち帰りの最初の事例は
1937年熊本工業の川上哲治氏でした
(「甲子園の土」で検索すると頭にWikiがヒットいたします)。
もちろん当人はこのように持ち帰りが定着すると思ってやったわけではないでしょうけど、
野球の歴史への「絡み方」がえげつなくてちょっと笑ってしまいました。
偉人は思わぬところに顔を出しますね(笑)
いや、私が言いたかったのは広尾様個人の思想ではなく、書かれた内容のようなことを高校野球がやっているとしたら
それをとても許容するとは思えぬ新聞社が主催者なので・・・って意味です。
筆足らずでした。
次にそれについて書きます。
終戦のサイレンを鳴らすために、また日本の敗戦を印象づけるために炎天下のグランドの上で高校球児の体調などは考えずに野球やらせてんだから
もし朝日新聞が主催してなければ球児の体調を危惧して率先して反対してるはず
朝日新聞のイデオロギーと朝日新聞購読者の獲得のために高校球児を食い物にしているのが朝日新聞
甲子園優勝を最高の目標にして、それに至るまでの過酷な日程により球児の有望な将来の可能性をどれだけ奪ってきたことだろう
>「自爆テロ」による犬死に過ぎない「特攻」を賛美する小説や、映画がベストセラーになるのを見ていると、日本人の「国民性」は全く揺らいでいないことを痛感する。
特攻を賛美する小説や映画って記憶にない
朝日が大嫌いな映画がヒットしてるのは知ってる
じゃぁ、聞くが、オマエが先祖Disってる場所は、なんて言う場所なんだ?
確か『日本国』って場所じゃ無かったか、オレが間違ってなければナ。
でさぁ、日本が独立国で、オマエが好き勝手言える民主主義とかになっているのは・・・
オマエが『犬死』と断定する神風特別攻撃隊とか、『腐敗』したとかヌカす
帝国陸海軍とかが戦ったり、玉砕したお蔭じゃ無いのかよ?
オレは少なくとも上記の様な、そして、オマエが犬死、腐敗と罵る人達に感謝してるぜ、それが・・・
『人間として当たり前』だと思ってるからな。
で、結論だよ『人非人』さんよ。
化石脳は黙って引っ込んでろ!
「なんたらのゼロ」読んだのでしょうか?
それまでに読むべきものがたくさんあったと思いますよ。
あなたみたいな人が、日本の若い人をたくさん犬死させるのだと思います。
願わくば、偉くなったりしないで、社会の片隅でひっそり生きてください。
犬死した人に何の罪もないけど、今の日本を作ったのは昔の日本を焼け野原にした人ではないですよ。そういう愚かな人がいたにもかかわらず、他の日本人がちゃんと頑張ったので復興したわけです。
日本人なんでしょうけど、残念ながら日本のためにはならないでしょう。
よろしければ、戦争が始まる前に「私は自爆テロやります」手を上げてください。
みんな笑ってくれるでしょうし、少数ながら賛同してくれる人もいるでしょう。
よかったら、こういうのも書いていますので、ぜひお読みください。
http://59s-hibikor.doorblog.jp/archives/38041159.html
あなたもずいぶん暴走気味かと思うけど。でも、私はパラダイムシフトが起こらないと高校野球は変わらないと思っています。
化石脳はあなただと思うけどなあ、私はあなた以外から言われたことないけど。
特攻隊が日本のためになったなんておかしいでしょう。
戦略、戦術として有効だったのなら自衛隊や米軍などもそれを取り入れるかもしれないけど、あり得ない。気違い沙汰でしょう。
死にたかったわけでもないのに自分が死んで、米兵を殺しただけ。
家族が悲しんで、米兵の家族も悲しんで。
特攻をしたときにはすでに敗色濃厚だったのだから、ただの悪あがきに利用されただけ。
みんな当時の馬鹿な指導者が責任逃れするためにやった訳で、
「イスラムの大義」で人殺しをする自爆テロと99%同じでしょう。
「死人に口なし」一般的には、犬死していった人のことを言うと思うけど。
もっとも「わだつみのうた」では「生きたかった」想いがにじみ出ていますけどね。
いくつか知らないけど、上から目線になるのも仕方ないでしょう。お気の毒に思うだけです。
軽蔑はしませんが、今どき珍しいドストライクの意見で、びっくりした次第。
もう少し自分と違う意見の本も読まれたらどうでしょう。
特攻隊を賛美したい気持ちも少しわかるけど、こんな意見もあります。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/02/post-624.php
もういいんじゃないですか、頭に来たらそういう汚い言葉つかうんじゃ、このサイト無理ですわ。
筆者の「戦争」「軍隊」「職業軍人」などの屁理屈は放っておくとして、大きな大会において、短期間のトーナメントで、順位を決めるというのは、他競技においても普通のこと。世界大会でも、W杯しかり、オリンピックなど当たり前。
たまたま、野球の高校日本一を決める大会が「甲子園」であっただけのこと。夏休みの時期は、他競技も大会を開いている。
大学がリーグ戦なのは、参加校が少ないから。参加数が多くて、順位を決めようとすればトーナメント形式を取らざるを得ない。
結局、高校野球の投手の問題は、野球の性質から来ている。野球は、投手と野手の負担が違い過ぎるということ。野手は連戦をしても問題ないが、投手は、連戦になると、過剰な負担が生じてしまう。複数投手や球数制限、2、3日の休養でも、プロより条件は厳しい。
それが、「酷使」と言われ、非難に晒されるならば、地方大会も含めて、「甲子園」を廃止するしかない。野球では、トーナメント形式の大会は無理ということだ。高校スポーツにおける全国大会は不可能になる。
近隣地域において、適当なグループを作ってリーグ戦をやるよりほかあるまい。
それが、今後の日本の野球にどのような影響を及ぼすか想像できないが。
軍制史を研究している者です。
他国の軍隊組織との比較を交え、具体的に例示頂ければ幸いです。
また「よく知られている」の引用先の文献、資料等、
併せて「旧日本軍」の明確な定義もお教え頂ければ助かります。
よろしくお願いいたします。
野球も甲子園固定で実施するのは春のセンバツだけにして、夏の大会は高校総体の枠組みで行うのが自然で平等な気がします。
遠方地や北国の不公平感なんてたいした問題ではないと思う。
だって「たかが」部活動の延長線上なんだもの。
勝利至上主義が蔓延してるほうがおかしいのだから。
・・・さん
ワールドカップとかオリンピックとか、大人のプロ(違うのもあるけど)の大会であるそれらのものと同じことをなんで高校の部活動でやらなきゃいけないんだ?ってことだと思います。
少なくとも他競技はこんな極端な日程をとってませんし。
匿名でこういうこと言い出したら、ブロックすることになっているのであしからず。汚いので消しますね。
私と同様、実名で堂々と話すのならいつでも受けて立ちますが。メアドも公開しているのでどうぞ。
屁理屈だと名前さえ明かさない小心な方に言われるのはすごく悲しいですが、
それにリーグ戦云々の話は、チーム数が多いアメリカでもリーグ戦なので、違うと思うけど。
「投手と野手の負担」のご指摘ははっと気づかされました。
そういうことかもしれませんね。特に今の野球は昔とは比較にならないほど負担が大きい。
それは確かに言える。
その発想は素晴らしい。
共産主義とか非合理的な一面という意味では、通じるものがあるのかもしれないけど。
大昔は旭日旗振り上げて賛同していたわけだしw
日本のサヨクって物凄くブレブレだから仕方ないのかも。
すぐヒトラー呼ばわりしたりやれ軍靴の音だとか言うのにこういう違和感についてはたいして取り上げないのだよな。
まあなんにしても、高校野球だって強化の場としてそれなりに役立っている部分だってある筈なんだしさ、もっと合理的な視野で選手のその後を見据えて運営してほしいものだね。
そうすれば確実にNPBのレベルアップにつながると思うのだが。
セイバーメトクスの観点からいえば、「見逃し三振を恐れない&フルスイング」こそが最も打者のレベルアップにつながる筈なのだけど。
いろんな意味で弊害の発信源になってる気がしますね甲子園て。
勿論良い面もあるのは先に書いたつもりだけど。
いや全くその通り、日本人の本質は戦前から全く変わっていないのです
広尾さんの主張に全面的に同意です
W杯で散々垂れ流された、実際は1番弱いにもかかわらず日本代表に都合の悪い部分をカットして、あたかも日本代表が有利なように錯覚させた報道は
戦時中に散々繰り返された大本営報道そのものですし
甲子園の登板強要に始まって、「空気を読む」ことを強要して全体圧力で少数に拒否をさせない日本人の精神は
戦時中にも若者を特攻隊により死地へと追いやりました
ナベツネ氏が当時の事を「若者が国の事を思って特攻隊に志願したなんて嘘だ、
皆周りの圧力でイヤイヤ特攻隊に志願せざるを得なかったんだ」
と述べてるくらいですからね、安倍とその取り巻きによって国がどんどん右傾化して行きますが
日本人は戦争で何を学んだんでしょうかと思わされますね
>アスノ様
戦前の状況と似ていると何かとメディアで騒がれる昨今ですが、当時と根本的に違うのは、そういう違和感をこうやって各々口にする場が確保されているということではないでしょうか。
そしてその気になれば、おかしいと思ったことに対して、その疑問を突き詰める場があるということではないでしょうか。
W杯報道でも、テレビしか見ないような人たちにはまことにお気の毒でしたが、専門紙レベルではもうちょっと冷静な議論はなされていましたし、全てのメディアが情報を隠蔽していたわけではありません。そしてそれは野球報道においても言えることでしょう。
おそらくは、元々、国土の広さもあって、そういう発想がなかったのかもしれない。
投手の肩に対する問題意識は最近のことですから関係ないでしょうね。
バスケットボールは、人気があるからだろう。個人競技もトーナメント制大会で全米一をきめているのでは?
ハッキリ言って、甲子園大会は特別ではないです。野球という性質上、一部の投手に過度の負担が掛かっていることが問題視されているだけだす。野手の運動量など大したことありませんし、炎天下でも、イニング間の休憩が取れ、給水もできます。
日本全体の歴史や思想も関係ないと思いますよ。強引なこじつけに感じます。
結局のところ、甲子園の問題は、米から来た最近の球数制限の考え方があり、一部の投手が、どうしても投げ過ぎてしまうところにあるのです。そこのところを工夫できれば、大した問題ではないはずです。
上達しようと思えば、結構な鍛錬や練習は不可欠です。それを、日米は、学校スポーツで、欧州は、スポーツクラブでやっているだけです。
今、PAPというデータを調べていますが、100球を超えて球を投げる負担は相当大きいです。
また連投の負担も大きい。
甲子園の、インターバルの期間をおかないトーナメントというタイムテーブル、そして試合を一人で投げると言う伝統的な選手起用のスタイルが、投手に負担を強いているのは間違いないでしょう。
甲子園の大会が始まるまで、日本の野球もずっとリーグ戦でした。
野球は職業人が始めたスポーツですから、休みの日に集まってリーグ戦をしていくスタイルだったのではないでしょうか。
アメリカ全土にMLBが広がったのはわずか57年前ですから、全国大会と言う発想もなかったのでしょう。
他の競技のことは知りませんが、甲子園はあなたがおっしゃる「投手という一ポジションに極端な負担をかける」競技には全く向いていないのは間違いないところでしょう。
何が言いたいのかわかりませんが、日本の軍隊に腐敗に起因する事件はたくさん起こっています。それは事実でしょう。他国と比べて多いか少ないかみたいな議論をする気は毛頭ありません。揚げ足取りは結構ですし、トリビアな議論に参加する気はありません。
そこまで調べ尽くさないと、意見の一つも言えないなんて馬鹿なことはないでしょう。
真夏、炎天下、連日というキーワードで甲子園の特殊性を語るのは、正直言って得策ではないと思います。・・・さんの指摘通り、あくまでも投手の投球数が多くなった時の負担の重さに話を絞った方が現実的だと思います
他の競技はどうだからは一切関係ないでしょう。中身も違うし。
むしろ発想としては逆で、インターハイの他の競技に関しても、日程の問題等に批判が出ていないというのなら、それはそれでおかしいのではないでしょうか。
インターハイのサッカー競技については、負担軽減のために「高体連ルール」の40分ハーフよりもさらに短い35分ハーフで行われていますが、それでも過密日程の問題には批判が出ていますし、そもそも国際ルールですらない35分ハーフや40分ハーフという高体連ルールで競技力の向上になるのかという問題も生じています。
日本の野球関連は確かに筋金入りの軍隊ですがプロスポーツを目指すような人たちはメジャーリーガーだろうがサッカー選手だろうが少なからずその素質ありますよ。(アメリカのメジャーリーガーやアメフト選手なんかも愛国心強めの保守的なイメージですし、ブラジルのサッカー選手たちの国歌斉唱なんてビックリしますよね)
ちょっとラジカルで鋭い視点を持ってる人(短絡的にいえば左翼っぽいって事ですが)が音楽や映画で語り合うようなことを野球やサッカーで同じことはできないんですよ。
ジョン・レノンを愛しながら高校野球を愛す事はできないんです。
私はご指摘の通り文化系です、だから軍隊みたいなの大嫌いです。組織で生きるのも嫌い。「人情、人間のぬくもり」と臆面もなく言う人も嫌いです。一人で生きていきたい人間です。
でも野球は好きです。ジョン・レノンは率直に言って理解できない。
人間は複雑なものです。申し訳ないけど、あなたの見方は浅いんじゃないでしょうか。
思い出したので書きますが 野球関係のライター、編集者は圧倒的に文科系。野球の本のフェアをやっても元選手や体育会系の人はほとんど来ません。そういうものかもしれません。
ちょっとした皮肉をもってどっちも愛す事はできないって言ったんです。(ジョン・レノンはラジカルの象徴として言っただけです)
思慮が浅いと思われると思いますがスポーツってのは結局『力』を見せつけるものなのでいわゆる体育会系の独壇場になるのが当然です。それは変えていけると思いますかね?
でもそういう人たちはホームランを一本たりとも打っていないし一つもシュートを決めていないんです。
いつだってスポーツにとって頭でっかちは脇役なんです。(ただし本当のインテリは全部の金を持っていきますがね)
スポーツについて語る言葉を持っているのは、実際には非体育会系ではないですかね。
主役は体育会系ではないと思います。
体育会系の人で、ちゃんとした評論を書いている人は少ないでしょう。
「野球文化」系に限って言うなら、体育会系の人はほとんどいません。
江本孟紀は「文章を読んだら野球をやったかどうかすぐにわかる」と言っていますが、解説はともかく、この人の書いていることは並み以下でしょう。私は元選手と聞くだけで、自分の体験にとらわれてしまって大したことないんじゃないかと思ってしまいます。
動物と、動物学者は別の生き物だと思います。
シマウマの肉を食べたことが無くても、ライオンの生態はライオンよりうまく書けるんじゃないでしょうか。
そうでしょうか。夏の甲子園の改善策として休養日をたっぷりとった飛び石開催を検討するのに、朝日新聞や甲子園球場はそれほど反対する理由はないように思います。毎週末とかにすれば集客も視聴率も見込めますし、平日夜はタイガースで使えて、死のロード問題も解決です。
反対なのは、学校と生徒側でしょう。遠征や宿泊費がかさむため。それに対して1.のくろさんは、「選手の酷使に比べることではない」とおっしゃっていますが、その時にネックなのが「他の運動部と比べて、なぜ野球部だけそんな費用と手間をかけなくてはいけないのか」という理屈でしょう。そこを突破するなら、「他の運動部と比べて、野球だけは体の過酷度が段違い」と言わざるを得ないのでは。それなら炎天下とか連日といった、他の運動部も条件が一緒のことを挙げても得策ではなく、投手の連投による過酷性に絞ったほうがいいのでは、という話です。
>bunchousann様
おっしゃるとおり、他の学生スポーツの夏の日程は批判の余地はあると思います。ただ、上述のとおり投手の肩肘の話に絞らないと、「暑い中で連戦」という漠然とした話のままでは、サッカーやテニスの処置のほうが先で、日陰のベンチで一イニングごとに休める野球は「後回し」になってしまうのでは、と思いました
何でも経験者でなければならないとは少しも思わないんですが、どうしてもうらなりの意見だと思われてしまう事ぐらいは承知してほしい。
最近あまり聞かなくなった佐村河内さんを『現代のベートーベン』だと言ってた評論家がピアノもろくに弾いたことがなかったら
何なんだと思いませんか?
音楽も野球も評論なんて曖昧なものに美経験者が絶対的な自信があってはいけないと思うんです。(少なくても畏怖があってほしい)
他の競技との比較と、甲子園をめぐるアマ野球の問題は関係がないと言うのが私の論旨です。こまごました日程の調整で解決できる問題ではないと思っているからです。
巨大な国民的行事になってしまったために、他競技との比較に意味が無くなったのが重要です。
そう書くと「高校サッカーだって大きいぞ」と言われそうですが、そっち方面に話を膨らませる気はありません。
言われるまでもなく競技者に対する尊敬の念、畏怖の念は持っています。ジャンルこそ違え、20代の頃から30年も外部から中を見る仕事をしてきましたので。そうでなければこんな仕事できません。
ピアノも弾けない評論家がいても全く問題ないと思うけど。その評論が素晴らしければ私は指一本ピアノに触れたことが無くても評価します。そういう評論たくさんあると思いますが。
乙武さんというスポーツライターは、どう思われますか?
身体能力に対する信仰は、危険だと思います。
くだらない仕事と思われるかもしれませんが、評論みたいなあいまいなものに一生懸命になってきましたもので、スポーツ系の人の見下した視線はうっとおしいなあと思うばかりです。
あなたがどのように思われるのはご自由ですが、「はい、わかりました」とは言いません。うらなりで結構です。
あと、そもそも良い評論てのがよくわからない。読み物として面白いから良い評論っていうのならわかるけどそれも違うだろうし。
元アスリートの上から目線に辟易してるのは容易に想像できますが、スポーツ未経験者の評論なんて結局、感想か不満か理想かこじつけかおべっかのどれかでしょう。
技術論はどこにあるの?
乙武さんだけでなく、多くのスポーツライターに失礼だと思います(彼はむしろアスリートだと思いますが、自らの肉体に根差して書いています)。
スポーツライターで、自分のスポーツ経験に頼って書いている人なんて皆無でしょう。
スポーツ評論がおわかりにならないのは、やはり脳みそまで筋肉だからではないでしょうか(これは悪口、失礼)。
読み物として良いのではなく、その競技なり、アスリートなりについて、アスリート以外の人にもしっかり分かるように書ける人は、たくさんいます。
その人たちがアスリートである必要は全くない。丁寧に取材をして、取材対象が表現できないようなレベルまで言葉を磨いている人はたくさんいます。海老沢泰久さんは、ご存知ですか。
文章は人だということはお考えになるべき。
無神経な方だと思います。不愉快なので、これ以上議論はしません。
頭がいい方だと勝手ながら個人的に思っているので。
>広尾さん
元巨人の桑田投手はどうでしょうか?
文章の専門家の目から見ても良いスポーツ評論家になる可能性はありますでしょうか?
話が主題とずれていますが、少し気になりましたので。
経験者だからわからないこと
未経験者だからわかること
未経験者だからわからないこと
どれもありますからねぇ
またどちらにしても表現力・文章力が必要なのは当然ですよね
文章が書けることとスポーツライターになれることは別ですね。
自分の経験を書くだけならライターとは言えないでしょう。
取材や調査ができて、新しい見方が打ち出せないと。
桑田の文章は普通だと思います。
いくらライター本人が丁寧に取材をして、
取材対象が表現できないようなレベルまで言葉を磨いても、
それが読者(世の中)が面白いと思わなければ売れない。
逆に言えば、文章は普通でも「桑田が書いた」ことで売れてしまう(かもしれない)。
特にスポーツ評論の分野はそれが顕著ですから。
評論家に経験者が殆どいないのなんて競馬くらいでしょう。
個人的な意見ですがトーナメントだけで全てが決まるのが良くないんだと思います。
リーグにすれば酷使は減るはずです。公式戦の前日に猛練習させる人はそこまで多くないでしょうから
コンディショニングやオーバーワークについて考える事も出来るでしょうし。
しかし、最近はスポーツ系のブログにまでネット右翼っぽい人が顔を出して嫌になる。
私は高校野球と職業軍人は結びつく気はしませんね。「酷使について〜」のくだりでどなたか述べておられましたが、「武道」と結びついてるのではないでしょうか。「野球道」ということですね。もともと「武道」とかが上下関係の厳しいものですからその延長線上にあるものでしょう。その「武道」をさらにさかのぼると戦国時代あたりの「戦場」に行き当たるかもしれませんがそこまで考えると飛躍し過ぎだと思います。
科学的側面に反する一方で、この手の「道」もいいところはあると思います。つまり純然に野球を追求する意志を持てるところです。さて現在の甲子園はどのような場所でしょうか?
武道を教育に組み込んだのは、山形有朋系の官僚であり、その思想は「富国強兵」でした。
「野球道」は早稲田大学の飛田穂州が提唱したものです。
学生スポーツの源流は「早慶戦」です。
「武道」と「野球道」は直接の関係はありませんが、「甲子園」で融合されたとみることは可能です。
歴史書がたくさん出ていますので、読まれるとよいでしょう。
基本書:「野球百年」大和球士、「熱球三十年」飛田穂州
記憶にありませんが。
でもベストセラーって事はもしかして永遠のゼロのこと言ってるんですか?
広瀬さん、まさか読んでないってことはないですよね?
おーい、広瀬さーん!ゼロさんって方が何かお聞きだよー!
広尾さんです。
読んだうえで滅茶苦茶残念な気がした。で、その気持ちにどういう風に折り合いを付けるか迷ったけど、この人の言うことに同意したわけです。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/02/post-624.php
百田さんはずっと昔から共通の知人がいて、どんな人か知っていますが、作家として成功されてからの言動には失望しています。
「ゼロ」は別の読み方ができるかもしれないけれど、その後の百田さんの言論を見ればやはり「特攻賛美」だと思った私の感覚は間違っていなかったと思います。
名前間違いのツッコミは早かったけど。
どうしたんですか?
もちろん読んだんですよね?
お若いの、自信満々だね!
>>評論家に経験者が殆どいないのなんて競馬くらいでしょう。
野球よりも元騎手、元調教師の経験者による評論家は、マスコミ関係の評論家の割合よりは少ないでしょうか。
JRAでは馬事文化に貢献した個人や団体を表彰する制度がありますが、日本の野球殿堂ではそのような文化面から表彰された方は少ないですね。
それとも私生活の言動で特攻を賛美してるんですか?
小説では主人公は生徒を無駄な特攻に行かせたくないため上官に殴られても抵抗していますし、
同僚のパイロットにこれが特攻だと特攻の虚しさを説いています。
とても賛美しているようには見えません。
広尾さんは小説のどこら辺が特攻賛美と感じたんですか?
冷泉さんの文章を読みましたか?
「自爆テロ」の解釈は私と違うけど、それ以外はこの人の言うことに賛同しています。
個別に見れば「特攻」を否定していますが、この作家の肚に何があるかが次第に見えてくるように思えます。
「特攻」を犬死だと言えないような雰囲気を、特に若い人に植え付けていこうとしているように感じます。
今の彼の言動も、「特攻賛美」など突っ込まれそうなことは慎重に避けていますが、ようするに戦前の軍国賛美だと私には思えます。
百田さんは「探偵ナイトスクープ」という名物番組を作った人で、腹の座った大きな人です。私の相棒だった男もこの番組に長くかかわっていたので、少しかかわりがあり、謦咳に接していました。
流行作家になってから大きく変わったのでショックを受けています。
もう寝ますので、今日はこれくらいにします。何かあるなら明日に。
細かい話だけど、議論を吹っかけておいて「後学のため」はおかしいね。
自分の言葉では語らず他人の見解を読めと強要するってことは、
自分では読んでいずにこの人の文章を読んで判断しているようですね。
自分で読んで自分の頭で判断する習慣を持たないと恥を書きますよ。
ではまた。
良かったね、論破できて。
見ず知らずのあなたに読書感想文を書いて見せるほど暇ではないし、読解力や識字力からしてもそのレベルの人でもないと思ったので。悪しからず。
投手の負担を減らす対策としては、投手については、学校の枠を超えて、同一都道府県の高校から選抜した何人かの選手を甲子園出場選手として登録できるという制度を作ったらいいんじゃないでしょうか。思いつきですが、社会人の都市対抗の補強選手のイメージですね。
あと、甲子園が投手と言う資産の償却を行うべきステージとしてふさわしいかということについては、投手個人の資産価値の観点からはふさわしくないですが、日本における野球そのものの資産価値の観点からは、ふさわしいステージと言えるでしょうね。
以前も投稿しましたが、例えば、甲子園での酷使によって安楽個人の資産価値がなくなったとしても、甲子園の資産価値が向上するのであれば、それはそれで自分にとっては評価できることですからね。
軍隊うんぬんの話に敢えて乗っかりますが、例えば、世の中には自衛官という職業がありますが、自分自身は自衛官になりたくありませんし、近しい人にもなってもらいたくありませんが、世の中全体で見れば必要な職業だと思いますから、誰かがなってくれないと困ります。それと同じ話ですね。自分にとっては。
コメント欄をそのために利用するのはよくないよ。
吐き捨てのようで申し訳ありませんが。
いやあなたの感じた違和感は正しいですよ。
プロでもないのに高校生にタダでやらせておいて資産価値もなにもあったものじゃない。
プロでない学生の部活の延長上で自衛隊とか云々とかナンセンスですよ。
今の方式の甲子園大会は別に自衛隊と違って、球界に必要不可欠なものではないでしょそもそも。
どれだけ一部の人が嫌おうが無くなれば国が滅ぶのと同じである軍隊となんで同列の話になるの。
広尾さんが言ってたのは軍隊の精神的なものがスポーツや教育に取り入れられてることへの反発とかでしょ。
存在そのものの必要性や価値を、甲子園大会とイコールにして語られたことなんて一度もありませんよ。
甲子園は必要悪(という表現は嫌いですが)ではけっしてありません。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303844704580001373311080954?google_editors_picks=true
日本にもこういう高校生投手がいるのですね。
長めですが、興味深い記事でした。
違和感などというようなものではありません。ばっちいものを触った後は手を洗うでしょう?それと同じことです。
犬のフンくらいレベルの低い人に絡まれたうっとうしさを感じる、という意味です。
吐き捨てのようで申し訳ありませんが。
以前の記事でリンクを張ったのですが、立田君、NumberWebでも取り上げられていたので、知っていました。昨春の選抜に出ていますから、結構有名なようですね。仰るように、こういう選手もいるのだと知りました。
大和広陵は初戦を突破したようです。12-4、7回コールド勝ち。
しかし、トーナメント表を見ると、日程的に非常に厳しいですね。次戦から中2日、中1日、中1日で準決勝と決勝は連戦になります。事実上、彼のワンマンチームのようなので、気になりますね。
あえて資産価値、という言い方をしています。我々同様、彼らの将来、人生設計も「お金」に置き換えるべきだと思います。
「教育」の美名のもとに多くの欺瞞や不正が隠ぺいされている中、そういう形で「見える化」しないと球児を守ることはできないと確信しています。
無責任が許されるファンはともかく、高校野球の運営やマネジメントに携わる人が、実体のない「青春」「栄冠」「感動」などの言葉を軽々しく吐くべきではないと思います。
昔の大人が「殉国」「忠義」などの無内容な言葉で若者を犬死させたのと同じ欺瞞を感じます。
トップクラスの高校球児はプロ予備軍であり、小さいころからプロを目指して自己投資をしています。それをたかだかアマチュア野球で毀損させることがあってはならないと思います。
教えていただいたURL先の冷泉さんの文章を読みました。特攻に関しての部分をまとめると以下のようになるかと思います。
特攻は自爆テロではない戦闘行為ですから個々の犠牲に対する畏敬は失ってはならない。
しかし、その思いが大きくなり過ぎると先の戦争や(特攻という)作戦を肯定する事になる。
そこにジレンマがあり、敗戦国民である日本人はそれを背負わなくてはならない。
さて広尾さんはこう書いていらっしゃいます。
「自爆テロ」の解釈は私と違うけど、それ以外はこの人の言うことに賛同しています。
この解釈とは本文中やコメント欄に書いてらっしゃる
「自爆テロ」による犬死に過ぎない「特攻」~
「イスラムの大義」で人殺しをする自爆テロと99%同じでしょう。
でよろしいのかと思いますが、そうなると「冷泉さんの文章に賛同しています」と矛盾が生じてきます。「自爆テロ」は戦闘員以外を殺害するため戦闘行為ではないただの殺人行為だからです。
そのため冷泉さんのおっしゃる「個々の犠牲に対する畏敬は失ってはならない」の前提条件がありませんのでジレンマそのものが発生しません。
つまりテロと戦闘行為を区別できない方が「冷泉さんの文章に賛同」するとおっしゃるのは冷泉さんの文章の本質を全く理解されていないと思わざるを得ません。
そもそも「個々の犠牲に対する畏敬の念」など微塵も感じていらっしゃらない書きようですのでジレンマなど全く無いのでしょう。
特攻で亡くなられた方の戦友、ご遺族、及びその子孫の方がご覧になるかもしれないネットの記事で「特攻はただの人殺しで犬死だった」というような事をお書きになるのはいささか礼を失するとは思われないのでしょうか?
ご丁寧なコメント、ありがとうございます。
私が特攻を自爆テロ同然と言っているのは、生存の可能性が100%ない「自殺行為」を名誉ある「戦闘」であるかのように言いくるめて、若者を死地に追いやったという経緯が、自爆テロと何ら変わりがないと思うからです。
特攻が大日本帝国に殉じた名誉ある「戦死」だったとすれば、自爆テロもイスラムの大義を守る「ジハード」に殉じた名誉ある「死」だということになるでしょう。
自爆テロが犬死にであったとすれば、特攻も犬死にであった、と思います。
二つの国の若者は身勝手で頑迷な為政者、愚かな政治の犠牲になったという点で、全く同じではないでしょうか。
本来ならば生きて家庭を築き、社会に貢献したはずの若者を無駄死にさせたという点では何の違いもないと思います。
その区別が何ほどの意味があるのかと思います。
私は犬死だった、無駄死にだったと断じることが、死者に対する尊敬の念が欠けているとは思いません。
白虎隊の少年が、会津若松城が落城したと勘違いして腹を切ったのは、犬死でしかありません。討幕派、佐幕派は数年で和解し、明治政府を作ったのですから、彼らの死は全くの無駄でした。
しかし彼らは犬死にしたからこそ多くの人から同情され、悲劇として語り継がれたのだと思います。
特攻で亡くなった若者や遺族に対して私は深い同情の念を抱きます。しかしだからと言ってその死を「尊厳ある死」「聖なる死」に祀り上げることには絶対反対です。
未来のことを考えるならば、誤解を受けたとしても「犬死に」「無駄死に」と言い続けたい。
続き
「永遠のゼロ」が公開された後、私は「お前らもいざとなったら、ああいうことができるのか」と若者に言う大人を何人か見かけました。そういう思いを愚かな大人に抱かせたとすれば「永遠のゼロ」は良くない作品だと思います。
冷泉氏は特攻は「戦死」だから「自爆テロ」とは異なるとただし書きしたうえで、
いかに戦闘行為の一環であったとしても、20世紀という時代に公式の軍事作戦として、国軍の正規の作戦命令として「自爆攻撃」を強いたというのは、第二次大戦末期の大日本帝国だけであった、これは大変に重たい事実です。
と述べておられます。これは「自爆テロ同然の戦闘行為を強いた」日本の指導者に対する強い批判だと思います。
だから
そのような作戦を採用したという事実は、公的にも私的にも強く否定されなくてはなりません。
と言っておられます。この点は全く同意です。
「永遠のゼロ」は、特攻を「強く否定している」とは言い切れない、読みようによっては「賛美」と読めるという点で、問題があると思います。
1.自爆テロと特攻
本ページの「自爆テロ」に関する記述を見ると明らかに否定的な意味(愚かな行為)として使用しています。そしてそれを読者も同様に思っている事を前提として「特攻」を同じ事だとすることにより同様に愚かな行為であるとの印象を与えようとしています。言い訳のように若者が悪政の犠牲になったと書いてありますがそこには畏敬の念などありません。ですからいくら論理的に「自爆テロ」と「特攻は」本質的に異なると説いても受け入れられないでしょう。「特攻」を貶めるためには「自爆テロ」と同じでなければ自説を押し通せないからです。
2.白虎隊と特攻
犬死と断じることがイコール死者に対する尊敬の念が欠けているわけではない事の例として「白虎隊は犬死でありだからこそ同情され悲劇として語り継がれた」としています。これは言い換えると「その死を『尊厳ある死』」として認め「『聖なる死』に祀り上げる」事とほとんど同義だと思うのですが、同じ犬死である「特攻」では絶対反対であるとあります。つまり理屈ではなく「特攻」には尊敬の念は抱かないと言っているわけです。
長いと起こられたので分けます。
3.ジレンマ
冷泉さんの文章での本質は敗戦国である日本が持つジレンマです。しかし、前回も書きましたが上記の通り広尾さんにはジレンマはなく(ですからジレンマに関しては触れていませんよね?)昔の(ひょっとしたら今も(笑))日本は何が何でも悪かったと言いたいだけです。
4.前回言いたかった事
どうも伝わっていないようですので、再度。「冷泉さんの文章に(『自爆テロ』の解釈以外)賛同しています」とありますが、問題の本質を理解していないため賛同とは程遠い事をおっしゃってますよ。という事と、「特攻」を「自爆テロ」と同一だとする事は失礼な行為ですよ。という事です。
5.蛇足
一応言わせていただきますと、私は冷泉さんの文章に賛同してはいません。念のため。
一度昔日本が戦った相手国及び占領していた国の軍人が「特攻」をどう捉えているのか、「自爆テロ」と同列に考えているのか、お調べになると面白いと思います。不思議なものでほとんどの国の政府及び軍人は当時の日本の戦没者に対して最大の敬意をもって接しておりますが、戦っていない南北朝鮮と中共はそうではないんですよね。不思議な話しです。
ご教示ありがとうございました。
全く同意できませんし、あなたのお考えは大したことないと思いますが。
この話は、例えば安楽君の未来を慮り、投手生命を絶たれることがないようにするにはどうするか?、の議論の場所ではないんですか?
いずれにせよ、球数制限を効率よく利用するやり方しかないと思います。