高校野球に代表される高校スポーツで、思い浮かべるのは「職業軍人」と言う言葉だ。
野球をはじめとする高校のメジャーなスポーツの世界では、スポーツをするということは「将来それで身を立てる」あるいは、そこまでいかなくとも「そのスポーツを将来設計に組み入れる」くらいの重さを持つ。
全国大会に出場すればその世界で名前が売れる。スポーツで進学、就職する道も開ける。

そういうスポーツ選手と、一般のスポーツ愛好家は同列で語れる存在ではなくなってくる。
有力スポーツ部に属する高校生は、一日の大半をそのスポーツのために費やす。それは「楽しみ」ではなく、「修練」になってくる。
もちろん選手たちはそのスポーツが好きだから打ちこんでいるのだろうが、もはや「遊び」ではない。指導者からは「遊び半分でやっているのならやめろ!」と叱責されたりする。

本来、スポーツと言うものは人々が身体を適度に動かすことによって新陳代謝がよくなったり、ストレス解消したり、身体バランスが向上したりして、健康な生活を送ることができるようにするためにある。
中にはアスリートなど、その道に特化する人も出てくるが、スポーツというものは「国民」全体の物であり、スポーツ予算は国民一人一人が享受すべきものである。

しかし日本では、高校、大学と学校の年次が進むとともに、スポーツは特定の選手の物になってくる。
日本には「体育の授業」がある。これは世界でも珍しい制度だそうだ。またすべての学校にグランドや体育館がある。これも稀である。
日本では、すべての生徒は、そういう施設を利用してスポーツの初歩を学ぶことになる。それは貴重な経験であり、スポーツ愛好者を広げる上では非常に重要だ。
しかし本格的にスポーツを始めようと思ったとたん「体育会系のクラブでスポーツを中心に学生生活を送る者」と「スポーツをしない者」に決定的に分断される。

スポーツ指導者からすると、クラブに入らない生徒は、すでに物の数には入っていない。すべては「スポーツクラブ」に入った生徒のために注がれる。

そしてスポーツクラブは、強豪であればあるほど軍隊的な「鉄の規律」で縛られる。学年が一つ違えば王様と乞食、上級生には絶対服従、またレギュラーと補欠も王様と乞食。試合に出られないものは、下積みの苦労を強いられる。
指導者はそういう組織の頂点に立つ。レギュラーを決めたり、試合に出場させたりする生殺与奪権を背景に、絶対的な権力を握る。外部からの批判は届かない。
それだけでなく、生徒を大学、社会人、プロに紹介するコネクションを持っている場合も多い。指導者は生徒の将来にも大きな影響力を持っている。

だれでも気が付くことだが、有力なスポーツ部に入っている生徒は、一般の生徒とは姿かたちも、立ち居振る舞いも違っている。
学校で談笑していても、遠くに先輩の姿を見かけたら大声で「おはようーっす」と挨拶をする。ジュースやパンを買いに行かされたりすることもある。
それはまさに一般人と職業軍人の差のようである。

有力スポーツ部に入るということは「学校の中にある別の軍隊的な組織に入る」ことでもあるのだ。



そもそも日本の体育行政は、他国と違って本来の「すべての国民が健康な生活を送るため」に推進されたのではない。
富国強兵策のもと、「屈強な兵隊」を作るために推進された。欧米の人間に比べて体格的に劣っている日本人を「鍛えられた剽悍さ」と「死を恐れぬ勇敢さ」を持った兵隊にするために導入されたのだ。
山縣有朋を頂点とする陸軍の組織をまねて、学校の体育会は作られたのだ(その組織論は、官僚組織にも導入された)。

「絶対的権力は、絶対的に腐敗する」とされる。
旧日本軍も腐敗の巣窟だったことはよく知られているが、日本の体育会系倶楽部もしばしば腐敗する。
有望な生徒を学校やプロに送り込めば、指導者には少なからぬキックバックが入ってくる。「ここまで育て上げたから当然だ」という声もあるが、そうした金は表に出ない。税務署が関知しない金である。
怪しげなブローカーも暗躍する。
また、子どもをレギュラーにしたいために父母が金品を出すことも多い。それを要求する指導者もいるという。
体罰や陰湿ないじめが横行するのも、体育会系倶楽部が絶対的な権力組織だからだ。
そうした体育会系倶楽部の中で頂点に立つ高校野球が、もっとも腐臭が強いのは当然のことだろう。

体育会系倶楽部が軍隊組織になぞらえられるなら、その活躍の舞台である全国大会は「戦場」だと言えよう。

まさに夏の甲子園は、高校球児の「戦場」だ。
ここでは殊勲を上げることが求められるが、それ以上に観衆は選手たちがここで燃え尽き、「戦死」することを求めている。
毎年8月15日の正午には、甲子園にサイレンが鳴って丸坊主の高校球児が帽子を取って黙とうするが、それは「平和の祈り」とはとても思えない。
気ちがいじみた暑さの中で、戦場に散った兵士たちの正しき後継者たる球児たちが、「自分たちも後を追う」ことを誓っているようにしか見えない。
負けた選手たちが甲子園の土を素手でかき集めているのを見ると、私は何かを「埋葬」しているように思える。
夏の甲子園は「死」のイメージに支配されていると思われて仕方がない。

この戦場で「肩の酷使を考えて」登板を回避するような行為は「敵前逃亡」とみなされる。表立っての非難は無いにせよ「死を恐れる行為」は賞賛されることは無い。

「高校野球」は、戦前から連綿と続く日本的組織の伝統によって生きながらえてきた。
もちろん、それに対する改革の声は上がっていて、部分的には開明的なスポーツクラブも生まれつつはある。

しかし全体としてその体質は変わっていない。
恐らくは、そうした「軍隊」のような出処進退を日本人が本質的に愛しているからだろう。若者に「自己犠牲」を強いることを好む国民性があると言っても良い。

「自爆テロ」による犬死に過ぎない「特攻」を賛美する小説や、映画がベストセラーになるのを見ていると、日本人の「国民性」は全く揺らいでいないことを痛感する。

極論すれば、野球選手の酷使の背景には「日本国の国民の総意」があると言っても良いと思う。


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