伊藤滋之『あの実況がすごかった』


この新書は、古舘プロジェクト出身、第一線で活躍する放送作家の手になるものだ。江尻良文さんの本のように、私怨をかきちらしたものではなく、しっかりと考えて書かれている。読み物としては、素晴らしく面白いのだが、スポーツ中継を享受する者としては、異議申し立てをしたくなる。
記憶に新しい「なでしこJAPAN」の活躍から斎藤佑樹や松坂大輔のデビュー、ワールドカップ、オリンピックのメダル獲得。我々はそうしたドラマチックなシーンを、アナウンサーの実況や解説者のコメントとともに記憶にとどめている。この本は、そうした〝すごい実況〟を再録している。歴史的なシーンに直面して、アナウンサーは己が能力と気力を尽くしてスタジアムの緊張感や、選手の恐ろしいまでの集中力、そして栄冠を勝ち得た感動を伝えてきた。作り手の裏話なども盛り込まれていて、興味深い。サッカー解説者の、競技者出身ならではのハイレベルな解説の話もすごい。
しかし、である。そうしたスポーツシーンの全てに、アナウンサーの熱を帯びた実況が、絶対に必要だったのか、と言われれば、少なくとも私は「そうでもない」と言いたくなるのだ。事実関係を的確に伝えてくれたり、見どころを解説してくれるのはありがたいが、感動的なシーンに被せるように「感動」を伝える実況、いるか?目の前に、驚くべき状況が起こっているときに、すごい事がなされようとしているときに、何ほどの言葉が必要なのだろうと思う。
伊藤さんは古舘プロジェクトの出身だそうだが、バブル花やかなりし頃、古館伊知郎さんはF1中継で新境地を切り拓いていた。ナイジェル・マンセルのフェラーリが火を噴いたときに「おーっと、横浜中華街状態だ!」と喩えるなど、実に秀逸だったが、今にして思うと、そうした百万の言葉よりも、例えば、90年の鈴鹿で不倶戴天の敵となったアラン・プロストに1コーナーで幅寄せしてぶつけて共にリタイアしたアイルトン・セナが、マイクを向けられて十数秒間絶句した、あの沈黙のほうがはるかに胸に沁みている。
映画を勉強する人は「コントラプンクト」という演出法を学ぶはずだ。日本語では「対位法」という。もとはクラシック音楽用語だが、緊迫したシーン、クライマックスに、あえて日常的な、平凡な音楽を流したりする演出だ。黒澤明の「酔いどれ天使」で組織に捨てられた主人公のやくざ松永(三船敏郎)が、絶望と殺意を抱いてさまよう闇市に、のどかな「カッコーワルツ」が流れるシーンなどがその代表だ。感動的なシーンを最大限に盛り上げるためには、夾雑物はできるだけ排除して、あえて控え目な演出をする。あるいは、目の前で起きていることをありのままに伝えることに徹する、そういう手法だ。


伊藤さんの本には、イナバウアーで金メダルをとった荒川静香の演技中に、最低限の言葉しか発しなかったNHKの刈谷アナの例など、抑制の聞いた中継の例も紹介されてはいるが、感動的なシーンをさらに盛り上げようと言葉を重ねる中継も多い。特に民放系のアナは、まるで選手本人のように力みかえり、感動を伝えようとする。伊藤さんは、そうした過剰な実況も「名シーン」に加えているが、率直に言って、なくても良いと思う。
戦前、多くの日本人はベルリン五輪の「前畑頑張れ」を連呼するラジオ中継に熱狂した。高度経済成長期の東京五輪では「金メダルポイント!」というアナの声にも盛り上がった。たしかに、そうした過剰な演出が必要だった時期もあるにはあったのだ。
しかし、日本人のメディアリテラシーが向上し、受信する映像も飛躍的に鮮明になる中で、言葉の役割は限定的なものになってきている。過剰な言葉は、視聴者のイマジネーションの邪魔になる。今の視聴者は実況者や解説者などのフィルターを通さなくても、十分にゲームを理解できるようなレベルに達している。
今、実況中継に必要なのは、的確な情報提供と、プロフェッショナルならではの分析、そして視聴者の邪魔にならない心配りだと思う。残念ながら地上波民放には、その意識はなく、現在も過剰な演出に血道をあげているようだが、視聴者のレベルはすでに作り手を追い抜いている。
「自分たちが感動を伝えるのだ」という気負いは捨てて、目の前に起きていることの鮮度を落とさないことに徹する、そんな大人のスタンスが欲しいと思う。
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記憶に新しい「なでしこJAPAN」の活躍から斎藤佑樹や松坂大輔のデビュー、ワールドカップ、オリンピックのメダル獲得。我々はそうしたドラマチックなシーンを、アナウンサーの実況や解説者のコメントとともに記憶にとどめている。この本は、そうした〝すごい実況〟を再録している。歴史的なシーンに直面して、アナウンサーは己が能力と気力を尽くしてスタジアムの緊張感や、選手の恐ろしいまでの集中力、そして栄冠を勝ち得た感動を伝えてきた。作り手の裏話なども盛り込まれていて、興味深い。サッカー解説者の、競技者出身ならではのハイレベルな解説の話もすごい。
しかし、である。そうしたスポーツシーンの全てに、アナウンサーの熱を帯びた実況が、絶対に必要だったのか、と言われれば、少なくとも私は「そうでもない」と言いたくなるのだ。事実関係を的確に伝えてくれたり、見どころを解説してくれるのはありがたいが、感動的なシーンに被せるように「感動」を伝える実況、いるか?目の前に、驚くべき状況が起こっているときに、すごい事がなされようとしているときに、何ほどの言葉が必要なのだろうと思う。
伊藤さんは古舘プロジェクトの出身だそうだが、バブル花やかなりし頃、古館伊知郎さんはF1中継で新境地を切り拓いていた。ナイジェル・マンセルのフェラーリが火を噴いたときに「おーっと、横浜中華街状態だ!」と喩えるなど、実に秀逸だったが、今にして思うと、そうした百万の言葉よりも、例えば、90年の鈴鹿で不倶戴天の敵となったアラン・プロストに1コーナーで幅寄せしてぶつけて共にリタイアしたアイルトン・セナが、マイクを向けられて十数秒間絶句した、あの沈黙のほうがはるかに胸に沁みている。
映画を勉強する人は「コントラプンクト」という演出法を学ぶはずだ。日本語では「対位法」という。もとはクラシック音楽用語だが、緊迫したシーン、クライマックスに、あえて日常的な、平凡な音楽を流したりする演出だ。黒澤明の「酔いどれ天使」で組織に捨てられた主人公のやくざ松永(三船敏郎)が、絶望と殺意を抱いてさまよう闇市に、のどかな「カッコーワルツ」が流れるシーンなどがその代表だ。感動的なシーンを最大限に盛り上げるためには、夾雑物はできるだけ排除して、あえて控え目な演出をする。あるいは、目の前で起きていることをありのままに伝えることに徹する、そういう手法だ。
伊藤さんの本には、イナバウアーで金メダルをとった荒川静香の演技中に、最低限の言葉しか発しなかったNHKの刈谷アナの例など、抑制の聞いた中継の例も紹介されてはいるが、感動的なシーンをさらに盛り上げようと言葉を重ねる中継も多い。特に民放系のアナは、まるで選手本人のように力みかえり、感動を伝えようとする。伊藤さんは、そうした過剰な実況も「名シーン」に加えているが、率直に言って、なくても良いと思う。
戦前、多くの日本人はベルリン五輪の「前畑頑張れ」を連呼するラジオ中継に熱狂した。高度経済成長期の東京五輪では「金メダルポイント!」というアナの声にも盛り上がった。たしかに、そうした過剰な演出が必要だった時期もあるにはあったのだ。
しかし、日本人のメディアリテラシーが向上し、受信する映像も飛躍的に鮮明になる中で、言葉の役割は限定的なものになってきている。過剰な言葉は、視聴者のイマジネーションの邪魔になる。今の視聴者は実況者や解説者などのフィルターを通さなくても、十分にゲームを理解できるようなレベルに達している。
今、実況中継に必要なのは、的確な情報提供と、プロフェッショナルならではの分析、そして視聴者の邪魔にならない心配りだと思う。残念ながら地上波民放には、その意識はなく、現在も過剰な演出に血道をあげているようだが、視聴者のレベルはすでに作り手を追い抜いている。
「自分たちが感動を伝えるのだ」という気負いは捨てて、目の前に起きていることの鮮度を落とさないことに徹する、そんな大人のスタンスが欲しいと思う。
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