昨年の春以来、「球数制限」「投手の酷使」をめぐる国際的な議論が起こっているが、愛媛済美高校の安楽智大は、常にその渦中にあった。
安楽をめぐる昨年以来の動きをまとめた。

昨秋の故障は、肘をよく使う野球選手、テニス選手が良くやる故障だ。酷使が原因の場合が多い。骨に異常はなかったようだが、神経に関わる故障は外見からわかりにくいだけに長引く可能性がある。
一説にはワールドカップで滑りやすい使用球を投げて肘への負担が増したことが大きいとされる。
医師の指示で年内はノースロー調整。これは正しい措置だっただろう。
しかし年明けになっても安楽は投げることができない。
愛媛済美高校は安楽不在のまま春の県大会で敗退、春のセンバツには出場できなかった。
4月5日に故障以来、初めて登板した安楽は以後、ハイスピードで調整する。
最後の夏に向けて、安楽の気持ちは逸ったのだろうが、この期間の調整は大きな問題をはらんでいるように思える。
一つは、ほぼすべての練習試合で投げた事。練習ではなく、実戦で感覚を磨こうとしたのだろうが、これは肩、ひじの酷使に他ならない。
最高球速がばらつき、投球も出来不出来があったことは、安楽が本当の意味で回復していなかったことを意味しているのではないか。
もう一つは、スプリッターを投げ始めた事。意見が分かれるところではあるが、スプリッターは他の球種よりも肘に負担をかけるとされる。
安楽は10km/hも落ちた球速を補うためにこの球種を投げ始めたのだと思うが、将来のことを考えれば無謀だと思う。
この間のリハビリは、安楽自身が考えてやっていたのではないか。性急で、勝ちにこだわる子どもっぽいプランだ。
大人は何をしていたのか、が気になる。
愛媛済美の上甲正典監督は、球数制限には批判的である。
「日本野球の伝統を守る」「肉体の酷使を精神力で乗り越える」が身上だ。要するに「根性だ」「頑張れ」という以外何もしない角兵衛獅子の親方のような指導者だと言うことだ。
安楽が自己流で何とかがんばろうとしているときに、この監督は科学的な根拠に基づいたしっかりしたアドバイスをしたのだろうか?スプリッターを投げることに異論はなかったのか。
「肘が痛いのによく投げてくれた」は、指導者の言葉ではない。
夏の予選、3戦目で安楽の愛媛済美はシード校の東温に負けて甲子園出場はならなかった。
188cmの長身から投げ下ろす速球は玄人には未だに魅力的なようで、スカウトたちは二重丸を付けている。
甲子園での酷使がなくなったことで、彼らは胸をなでおろしているかもしれない。
私は高校野球、甲子園は「教育」でも「青春」でもないと思っている。学校や指導者の栄達の具に成り下がっていると思う。そんなくだらないものや、郷土の期待などという無責任なもので、若者を消費し尽くしてはならないと思う。
指導者の使命は、「野球で生きていきたい」という夢を抱く若者たちの「資産」を毀損することなく次のステップに送り届けることに尽きるのではないか。
高校野球に「教育」の名が許されるとすれば、そのことだけではないか。
教育は将来投資であり、子どもの持つ可能性を引き出して能力を開発することである。その可能性を「私的に流用して」くじくことは許されない。
アメリカでは10代の酷使がその後の野球人生に深刻な影響を与えるとしている。日本でも高校野球での酷使によってマウンドに上がれなくなった選手は多い。
安楽の軌跡を見ると、まさにその道をたどっているように思える。
安楽は本当に再び157km/hを投げることができるのか。
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昨秋の故障は、肘をよく使う野球選手、テニス選手が良くやる故障だ。酷使が原因の場合が多い。骨に異常はなかったようだが、神経に関わる故障は外見からわかりにくいだけに長引く可能性がある。
一説にはワールドカップで滑りやすい使用球を投げて肘への負担が増したことが大きいとされる。
医師の指示で年内はノースロー調整。これは正しい措置だっただろう。
しかし年明けになっても安楽は投げることができない。
愛媛済美高校は安楽不在のまま春の県大会で敗退、春のセンバツには出場できなかった。
4月5日に故障以来、初めて登板した安楽は以後、ハイスピードで調整する。
最後の夏に向けて、安楽の気持ちは逸ったのだろうが、この期間の調整は大きな問題をはらんでいるように思える。
一つは、ほぼすべての練習試合で投げた事。練習ではなく、実戦で感覚を磨こうとしたのだろうが、これは肩、ひじの酷使に他ならない。
最高球速がばらつき、投球も出来不出来があったことは、安楽が本当の意味で回復していなかったことを意味しているのではないか。
もう一つは、スプリッターを投げ始めた事。意見が分かれるところではあるが、スプリッターは他の球種よりも肘に負担をかけるとされる。
安楽は10km/hも落ちた球速を補うためにこの球種を投げ始めたのだと思うが、将来のことを考えれば無謀だと思う。
この間のリハビリは、安楽自身が考えてやっていたのではないか。性急で、勝ちにこだわる子どもっぽいプランだ。
大人は何をしていたのか、が気になる。
愛媛済美の上甲正典監督は、球数制限には批判的である。
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安楽が自己流で何とかがんばろうとしているときに、この監督は科学的な根拠に基づいたしっかりしたアドバイスをしたのだろうか?スプリッターを投げることに異論はなかったのか。
「肘が痛いのによく投げてくれた」は、指導者の言葉ではない。
夏の予選、3戦目で安楽の愛媛済美はシード校の東温に負けて甲子園出場はならなかった。
188cmの長身から投げ下ろす速球は玄人には未だに魅力的なようで、スカウトたちは二重丸を付けている。
甲子園での酷使がなくなったことで、彼らは胸をなでおろしているかもしれない。
私は高校野球、甲子園は「教育」でも「青春」でもないと思っている。学校や指導者の栄達の具に成り下がっていると思う。そんなくだらないものや、郷土の期待などという無責任なもので、若者を消費し尽くしてはならないと思う。
指導者の使命は、「野球で生きていきたい」という夢を抱く若者たちの「資産」を毀損することなく次のステップに送り届けることに尽きるのではないか。
高校野球に「教育」の名が許されるとすれば、そのことだけではないか。
教育は将来投資であり、子どもの持つ可能性を引き出して能力を開発することである。その可能性を「私的に流用して」くじくことは許されない。
アメリカでは10代の酷使がその後の野球人生に深刻な影響を与えるとしている。日本でも高校野球での酷使によってマウンドに上がれなくなった選手は多い。
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コメント
コメント一覧
上甲監督ってなんか絵に描いたような老害感がすごい
それよりも私がびっくりしたのがテレ朝が甲子園に出る前から美談を始めていたことです
済美が敗退する前に甲子園への道という番組を見ていたのですが
安楽は昨年の夏から故障していたがきついリハビリと不屈の闘志で復活したみたいな感じで美談にしててびっくりしました
甲子園行ってたらどう美談にするつもりだったのやら...
高校生が自分の将来のために自ら自愛することはかなり難しいのでしょう。自分の勝利と名声とお金しか頭に無さそうな監督がほとんどの日本高校野球界では野球をやらせてもらえなくなりそうですね。
大人ではなくて高校生ですよ。ほっておいたら燃え尽きてしまうでしょう。
あの取り組みを見て、「感動した!」と賛美する人と、「とても正視できない。あれはスポーツではない」と顔をしかめる人とがいるのです。そして両者の間に議論はとても通じにくい、と言うのが私の印象です。
私個人は年々後者の立場に傾いてきています。恥ずかしながら、若かりし頃には「多少痛かろうが根性で頑張れよ横綱だろう」くらいのことは思う人間でありましたので、前者の気持ちも分からないではありません。 ただ、今の私はそういう感動や美談の背後にある犠牲や機会損失のかけがえのなさに打ちのめされてしまいます。
酷使を容認、擁護する指導者を見ると、「古い偏見や間違いは、新しく正しい学説や考え方によって変わることはなく、その人たちが退場することでしか変わらない」という言葉を思い出しました。
>kabu様
貴乃花はプロ。どういう選択をしようが、自分で責任を負える立場です。高校生の安楽君のケースとは本質が異なるように思います。
上甲監督については、以前は宇和島東高の監督だったことでも知られています。オリックスの平井、ヤクルトの岩村などを輩出した高校です。選抜で優勝の経験もあります。
宇和島東に限らず、愛媛の高校野球は長年、県立校がリードしてきました。松山商、今治西、西条、川之江、そして宇和島東、みな県立校です。私立の強豪はせいぜい新田くらいでした。
そこに、私立の金持ち女子高が共学化によって野球部を設立し、急速な強化を図っていつのまにか甲子園の常連になった、それが済美です。私は愛媛で中学、高校時代を過ごしましたが、当時の済美は女子高でしたから、「突然」甲子園に出てきたときには本当に驚いたものです。
上甲監督は宇和島東での実績を買われて監督になった事実上の「プロ監督」です。県立高時代よりも充実した設備、莫大な予算など、恵まれた環境を与えられ、よりプレッシャーを感じながらの指導になったのでしょう。実績を残さなければならないという強い思いが、よりドラスティックな形で好投手への依存を生み、残念な結果をもたらしたのだと思います。
指導者は生徒の選択肢を潰してはいけません。
もちろん、10年後の安楽は過去の自分の選択を悔やむかも知れませんが、高校球児当時の安楽が、燃え尽きてもいいと思ったのであれば、それは厳然たる事実と言うしかありません。未来の視点から過去を修正するのは、歴史の改竄というものです。
大人はそんな風に熱くなる高校生に適切なアドバイスをすべきでしょう。
「人生は長い」ということを諭さないと。
「あいつが投げたいと言うから投げさせた」では大人失格です。
それにしても岩瀬は何でこんなに頑丈なんだろ? 次は岩瀬について語ってもらいたいです。
仮に自分が安楽の親であれば、「人生は長い」とアドバイスします。
ただし、それは自分個人の人生観であって、仮に安楽が自分の息子や教え子であれば、その人生観を推奨し、場合によっては強制しますが、っ現実には、自分は安楽個人と関係のない、一野球ファンですので、「高校野球レベルで燃え尽きるのも個人の選択の自由」と言うしかありません。
自分は、広尾さんの立ち位置がよく分かりません。
わたしはあなたの立ち位置が分かりません。
自分の子どもだろうと、赤の他人だろうと、親だろうと、野球ファンだろうと、大人は若者に対して最善のアドバイスをすべきでしょう。
おせっかいを焼いてまでも彼らに最善の道を歩んでほしいと思うのが、野球ファンだと思うのですが。
いかに面白い野球でも、前途ある若者の未来を潰しているのなら、それは良くないことでしょう。
燃え尽きる自由、後悔する自由なんてのはあり得ないでしょう。彼らは未成年です。
すべての選手がプロに行くわけでもないので、高校で燃え尽きてもいいという考えもあるかとは思います
しかし、とりわけ安楽くんのように、プロ入りを期待されている選手を潰してしまうのは勿体無い
プロ野球選手は人々に夢を与えられる憧れの職種のひとつなんです
そういう期待のかかった選手が、たった3年の高校時代にすべてを捨ててしまうのは、本当に惜しい
ルールを成文化してしまえば、ルールはルールとして納得できるのではないでしょうか?
だって、負ければ終わりというルールも、受け入れているんですから
「最善のアドバイス」とは大人の視点で捉えたアドバイスですよね。
どうして、それが「最善」だと言えるのですか。
大人だからです。
未来は誰にもわかりませんが、体を壊して高校生で燃え尽きることが、その後の人生にとってプラスになるとはふつうは考えられません。
そこで「君の自由にしなさい」とは言えないでしょう。まともな大人なら。
たとえ高校で野球を辞める選手であっても、無理させて怪我をさせる監督は論外でしょう。
まさにそういうことですね。
彼はビッグビジネスに挑んでいる。リスクもリターンも承知で。私たちの経験の及ぶ範囲ではないし、いい大人が人生を賭けることに口出しはできません。懸念は抱いたとしても。
それは本人の能力に関係ないという意味ですか。つまり、ドラフトで指名されるレベルであろうがなかろうが、体を壊すべきではないということですか。
また、仮に高卒レベルでドラフトにかからなかった選手が、独立リーグで体を壊す勢いでプレーすることにについては、どう評価するのですか。
体を壊してまで打ち込むようなものが、学校教育に存在してはいけないと思います。なぜならその時点では一銭のお金も入ってこないし、栄誉もないからです。何よりそこで潰れれば、未来が閉ざされる。彼らは自分の責任を負える経験も資格もないですから。
独立リーグに入った時点で彼らはプロです。プロとして自らの資産を活かそうが殺そうが、それは彼の責任です。
もちろん個人レベルで指導はあってしかるべきと思いますが、プロになった瞬間に責任論は変わる。当たり前のことだと思うのですが。
G3さんは学生さんですか?
自分は、肘のテーピングを外してマウンドに向かう松坂の姿に感動しましたが(もっとも、本人は分かってやっていたようですが)、貴方はどう思いましたか。
ただそれは当然怪我をしない範囲でのことです
投球数・イニング・登板間隔
何を制限すべきかは一概にいえないですがルールを決めた上でその中で全力を尽くして欲しいです
自分は社会人です。
だからこそ、広尾さんとは逆に、学校教育である以上、富や栄誉と関係なく、体を壊してもよいと思っています。彼らはどんなにプロで稼げる潜在能力があろうと、顕在の事実として、野球でメシを喰っているわけではありませんからね。あくまで社会人ではなく、学生なのです。
ですので、プロは責任論として、酷使を拒否すべきだと思います。そして、アマチュアは、酷使を受け入れるのも個人の自由と言うべきだと思います。
ただし、田中が日本酷使を受け入れたのは、自分の人生観からは反対しますが、田中個人がプロとして選択した生き方だと思いますし、また、安楽の親が酷使を拒否するのは、親自身の人生観としてあり得る選択だとは思いますが、安楽自身がそうした人生観を受け入れないのであれば、それはそれまでの話ではないですか。
高校時代の松坂ですよね。すいません、その場面はよく覚えていません。準決勝の明徳戦でしょうか。
感動はしなかったと思います。まず、前日に250球投げていたこともありますから、大丈夫なのか、という思いが先に立ちましたが。
覚えていませんか。残念です。
自分としては、あのシーンを見た瞬間は鳥肌が立ちましたし、後で松坂本人が、テーピングを外した仕草は「盛り上がるだろうと思ってやった」という趣旨のコメントをしたのを知って、自分は、「高校生も自分が思うほど子供じゃないな」と思ったのですが。
まあ、それはそれとして、bunchousannさんは、一甲子園ファンとして、松坂の快投を楽しみましたか。それとも、将来が心配で見ていられなかったですか?それとも、楽しみながらも将来が心配だったですか?
わたしは酷使反対派です。
才能ある若者が、指導者の無理解や指導力不足で潰されていくのは見たくありません。
少なくとも安楽投手のような才能ある投手が、たとえ本人が望んだとしても、この酷使によって二度と投手ができなくなる(たとえ草野球であっても)ことがマトモだとはとても思えません。現にそういう元高校球児はたくさんいます。
私の同級生も中学生の頃に肘を壊して、彼はドッジボールでさえ下手からしか投げれませんでした。教育云々の金科玉条を外したとしてもこれがマトモなことですか?
高校を卒業してからの人生の方が長いんです。プロに入る入らないを言われるような選手であれば尚更です。たとえ本人がそれを望んだとしても、未来ある若者のためにそれを抑えるように指導するのが大人の役割じゃないんですか?
先ほども言いましたが、私は高校野球の熱心なファンというほどではないので、きちんと見ていたわけではありません。
たぶん、「あんたも見世物を楽しんでいたクセに」とあなたが言いたかったのだろうな、ということだけは理解できました。
貴方(他の方もですが)にとって、野球とは見世物ではないですか。
いや、自分がもの凄く単純化した物言いをしていることは自覚していますが、それでも、観る側からして見れば、見世物ではないですか?違いますか?
プロは体大事にしようと酷使しようと、自分の判断です。「自己責任(嫌な言葉ですが)」だと思います。大人とは出処進退の判断ができる人のことを言うわけですから。
しかし未成年は、その判断はできないと思います。「若気の至り」で自分の勝手に体を壊すのは、プロになろうとなかろうと自分の「未来」を閉ざすと言う意味であってはならないと思います。
それにアマチュアだから体を壊してもいいと言うのは、間違いでしょう。スポーツの本来の考えにもとると思います。
野球は見世物と言うのはショッキングな言葉ですね。アナキズムだ。
学校教育は「見世物」の芸人を育てているわけではないでしょう。
プロの野球は見世物でもいいですが、学校野球はそうであってはいけないでしょう。
広尾様もおっしゃっていますが、プロの興行と高校生の部活の大会を混同してはいけないでしょう。
それが見世物のように思えるのは、メディアの宣伝による錯覚に過ぎません。
私は少数派かもしれませんが、高校生が「腕も折れよ」と投げるのは、正視できません。そういうの大嫌いです。
仮にエンターテイメントでないとすれば、甲子園など直視するに耐えない代物だったのではないですか。
もう一歩考えて図式化してみました。
<スポーツ全般>
ファン: 怪我を押してのプレー(または怪我をするリスクが非常に高い危険なプレー)に対して英雄視し、「感動」する層がいる。
↓
マスコミ: 視聴率や部数のため、ファンに受けるストーリーでスポーツを報じたい。「感動」に水を差すような事実は報じたくない。
↓
選手: 勝利が第一目標であるが、社会やファンに認められることも目標の1つである。
<高校野球の場合>
高校野球ファン: 「清く正しくけがれなく」の全力プレー礼賛の傾向が強い。怪我を押してのプレー(または怪我をするリスクが非常に高い危険なプレー)までも全力プレーの範疇と肯定する層がいる。
↓
マスコミ(スポンサー): 視聴率や部数のため、ファンの期待する「感動」に沿ったストーリーで高校野球を報じたい。選手の健康も大事だが、「感動」に水を差さない程度に収めたい。
↓
選手/指導者: 教育が第一目標で第二が勝利であるというのが建前としてある。しかし、本音としては、甲子園での勝利が第一目標であり、地元やOBの期待に応え、マスコミやファンに認められることを目指している。
雑で恐縮ですが、こういう図式と言うか力関係のようなものが存在していると考えます。
故に、選手や指導者に「CHANGE!」を要求しても、マスコミやファンが変わっていかないならば、動機付けが弱いです。そして、ファンのレベルでの意見は分かれたままであるのが現状です。
甲子園優勝校が母校ですが、甲子園をエンタテイメントだと思ったことは一度もありません。
プロ野球と学生野球を同じものだと考えたこともありません。
どういう意味で「見世物」を連呼しておられるのか理解に苦しみますが、「見世物」とは差別用語であり、見る見られる関係論を伴います。私も売り言葉に買い言葉で「見世物」と言いましたが、不適切だと思います。
高校野球についての理解がある程度進めば、目の前で起こっていることに対して素直に感動をすることは難しいと思いますよ。
>kabu様
意見が分かれているものの、ファンの中には一定層、現状を変えるべしという層がいることと思いますが、果たしてメディアはどうなんでしょう。
朝日、毎日は高校野球を主催し、現状を変える気はない。読売、産経もプロ野球を通じて野球界とのかかわりを持っていますから、うかつなことは言えない。そして、日本のメディアには悪しきクロスオーナーシップ制度が存在し、事実上、テレビもダンマリを決め込むしかない状況です。必然、現状を変えるべきとの意見は、大衆には届かない状況になっています。
私個人的には、野球に限らず、大抵のスポーツにおいて、ファンのレベルはマスコミのレベルよりも高いと思っています。
自分も33のbunchousannさんのコメントに対する買い言葉で見世物と言う言葉を使いました。まあ、、言い訳がましくて心苦しいのですが、しかし、自分自身、言葉として突き詰めれば、見世物という言葉に行きつくと思ったのは事実ですので、それは自分自身の言葉として引き受けますが。
まあ、いずれにしても、自分が言いたいのことは、高校生であっても自分の人生決定権は尊重すべきであるということですから、燃え尽きたいのであれば、燃え尽きればいいじゃないか、ということです。
もちろん、繰り返しになりますが、親であれば、そこに反対の立場で干渉すべきと思いますが。
プロになって大金を稼ぐことと、大金は得られなくとも甲子園で青春を燃やし尽くすことのどちらが幸福かなんて一概に結論づけられないでしょう。
チームメイト! チーム競技ですしその視点も重要ですよね。成程・・・。
マラソンで棄権するより、駅伝で棄権することの方が、「悲劇」としての扱われ方が大きいことを連想しました。
>44. bunchousannさん
確かに・・・。
ファン(固定層)/※ファン(流動層)/※非ファン(潜在層)
↓ ↓ ↓
マスコミ・メディア
※を加えて考えるべきなのかもしれませんね。
右に行くほどそのスポーツへの知見はなく、出来合いのストーリーでそのスポーツをとらえがち。
ーと少なくとも、マスコミ側はそう捉えている。そして、部数や視聴率のため、少しでも多くの層にうける、わかりやすいストーリーにスポーツを落とし込みたい。
これはやり方を変えるといっても、ただ保護に舵をきればいいってもんじゃなく、難しい問題を孕んでますよね、という話のつもりです。
昨年は楽天の試合をニコニコ動画の中継で見ていましたが、田中将大の酷使に関しては、批判的な意見のコメントが勝っていたように思えました。個人的には昨年の田中の酷使は「論外」であり、擁護する人が存在すること自体が信じられないのですが、それでも野球ファンの中にはまだまだ浪花節が好きな人がいるのだなあ、と嘆息した次第です。
ともあれ、世論は大きく変わってきています。野球ファンが過去の記録に触れる機会も増え、「投手を使い潰してまで優勝を得る監督は、有能ではなく無能である」というコンセンサスが、少しずつではありますが広がってきているように感じます。
僕はプロ/アマ、成年/未成年の別を問わず、酷使は嫌いですね。酷使とは無策の象徴であると思います。管理者である監督・コーチの責務の第一は、球団から預かった資産である選手を壊さずにシーズンを戦いきること。つまり酷使前提の投手起用は、そもそも監督・コーチとしての職責を放棄している事に他なりません。これを無能と言わずして何と言うのでしょうか。
監督が仕事だから、教員しながら監督してる人とは、生徒に対する感情とかが違うのかも知れませんね。
仕事ですから、、!
まあしかし何と言うか、「自分に関係ない人間の未来がどうなろうと知ったことではない」などということを、何度も何度も声高に言いつのれる神経の図太さは大したものです。唾棄すべきですが。
高校野球は本来いち部活動に過ぎないアマチュアスポーツです。
日本はスポーツが誰のものであるかなどまったく意識されることなくアマチュアスポーツまでもプロスポーツ感覚で見られてしまっていますが
例えば「球児のために球数制限を導入すべき」「いやそんなことしたら高校野球がつまらなくなる」という論争が生まれた場合、高校野球のあるべき形を目指していく過程で興業としての面白さと衝突してしまうのです。
まさしくアマチュアスポーツをプロスポーツ感覚で見る弊害と言えるでしょう。
本人に、自分の力量や現状、そしてリスクや将来の進む道などを考えさせ、その上で自分自身が選んだ道に対して自己責任を負わせる。
そろそろ『過』度な『保護』はいけません、『自立』させるべきだと考えます。
これは大人になるまでにしなくてはならない勉強であり、そして大事な教育であろうと考えます。
なので
『腕も折れよと…』
も、本人の意志ならば有りだと私は考えます
(小中学生だったら止めますヨ)。
その結果が吉とでるか凶と出るかはわかりません。
しかし、例え結果が凶と出たとしても、なにも失うものばかりではないでしょう。
もっと視野を広くもって、失うもの以上に得るものの方が多いと考えるべきでは、と私は思います。
高校生の団体競技などについても、ホントはもう少し語りたいのですが…
文才が無いのでやめておきますねf^_^;
広尾様がご紹介していた立田投手のような例もありますが、現にスカウトからプロに入りたいなら試合で投げろと言われており、プロに行く可能性が球数制限により下がっているように伺えます。(スカウトによっては球数制限がプラスの評価になっている可能性もありますが)
この現状で自己責任論を押し付けて、投げられなくなっても自分が悪いという考えを私は理解できません。ある程度自由の利くプロと高校野球を同列に扱うべきではないと考えます。
怪我してるのに無茶させるとか論外です
http://matome.naver.jp/m/odai/2136525500846676601
先に言っておきますが、私はこう思っています。
が、しかし
プロ入りのために投球制限をしたい高校生の投手がいて、
自分の投球制限のために地方予選に負ける。
「おまえのおかげで俺たちは甲子園に行けなかったんだ」
(今の高校生が実際こんなことを言うとは思いませんが)
といわれるような状況を素直に受け入れられるか
……やっぱり今少し無理しても、みんなとがんばる!
というふうになってしまうと思いますが
これは悪なんでしょうかねえ。
とっても悩みます。
同調圧力が強く、優しい日本人です。
酷使はいけないことと頭ではわかっていても、なかなか実践するのは難しいでしょうね。
日本で一番暑い時期に、日本で一番暑い場所で、日本で一番暑い時間に、屋外土のグラウンドで、トーナメントさせて何とも思わないどころか、汗と涙が美しいと思う、優しいマスコミと優しい日本人たち
彼らがいる限り、酷使はなくなりません。
「今」
「こいつらと一緒に」
「壊れてでも」
という心情はわかる。
大人が止めなければ、という人たちは帰宅部だったのでは?と思ってしまう。
と
高校野球という二度とない舞台で本人の意思で燃え尽きるまでやりたい
の意見対立になるから噛み合わない
プロとしての未来どうこうではなく、大人が止めなかったことにより、プロになれない、大成しないなどという次元ではなく、一生障害者になる危険がある、ということで、それは高校生の自己責任にすべきではないと思います
そら、本人はどうなるかもわからん実感のわかない将来より甲子園で輝けるかもしれない今を選ぶ高校生の方が多数でしょうし、投げられるか?と聞かれれば、無理です、交代させてください、なんて言えるヤツは極々少数でしょう。
そんなやつは下手したら仲間内から信頼を失うかもしれない。だからこそ大人が止めるべき
問題はプロ野球選手としての将来ではなく、一人の未成年が指導者の傲慢により一生まともに生活できない障害を持つかもしれないということです
それはただの感傷に過ぎないでしょう。説得力はない。
プロになる選手だけでなく、すべての学校スポーツの選手にとって、部活で体を悪くすることがあってはならないのは言うまでもないことです。
自己責任のお話が出ていますが、根本的な問題が置き去りにされていませんか?
「無理するも拒否するも自己責任であるが、では無理だと拒否した場合、指導者はそれを許すのか」
根性論で語る方は「これ以上は無理です、壊れるのでダメです!」と言ったら「やる気があるのか!根性が足りない!」と返すのではないでしょうか。
であれば、そこに自己責任は成り立たないと思うのです。
わたしは高校スポーツ未経験ですが、強豪校と言われる部活で「無理です」「休みます」が容易に許されないだろうと想像します。
そうなるとレギュラーから降ろされたく一心で「大丈夫です、やれます!」と言うしかなくなるでしょう。
それを自己責任というにはあまりに無責任、かつ指導者の責任転嫁だと思うのです。
それをコントロールするのが指導者の役目だと思うのですが…
自己責任という方々の、この辺りのご意見を伺ってみたいです。
逆に無理して投げさせてもらえずに甲子園に行けなかった場合(無理して投げたからといって甲子園に行けるかどうかはわかりませんが)の激しい後悔がその先の人生に悪い影響を与えかねないかとも思います(監督を逆恨みしたり)。
では、どうすればいいのか?球数制限とか一律的な規制をするのも必要でしょう。
それより一番手っ取り早い(けどおそらく無理)のは「甲子園」の価値を下げることでしょう。
決勝以外は球場を分散して開催するだけでも効果があると思います。
球児たちは高校野球の全国大会ではなく「甲子園」を目指しているんでそこを崩すことこそが必要なのではないかと思います。
ただ限度というものがあるでしょう。
どこが限度であるかはおいといても安楽は明らかにやりすぎです。
別に安楽に限らず今の高校野球は一部のスターにやり過ぎを求める時があります。高校野球の本来の姿は教育の一環ですし、古典的思考法だろうと近代的だろうと、どんなチームでも全員野球で頑張って欲しい。一部にある層の薄いチームは「エースに頼らなければ勝てない」みたいな論調はやめてほしい。
酷使による身体の弊害を訴えれば、当然こういう意見が出るでしょうね
確かに投球制限、連投制限で自分が投げないことで負けたら後悔するかもしれません
(まあ、ダルビッシュはルールなら納得すると言っていますが)
弱小公立高校が一人のエースに引っ張られて快進撃、という高校野球ファンが大好きなシチュエーションも、連投制限によりほぼなくなり、私立の他県民寄せ集めのプロ野球予備校のような強豪校だけが勝ち抜くでしょう
なので本気で改革をするなら
1、試合間隔を強制的に開ける(毎週末のみ)
予選含めて大会の長期化の懸念がありますが、試合は週一回なので
春と夏を一元化し秋に開催
複数球場での同時開催
甲子園使用はベスト4から
2、そもそもノックアウト形式のトーナメント大会そのものをやめてしまう
どうしても全国大会がやりたいなら、地方予選をリーグ戦で実施して、全国大会をトーナメントで秋に実施する。冬にドームでやってもいい
3、地方大会は5イニング、全国大会は7イニング制を採用する(連投すれば一緒なので、1or2と組み合わせる)
ざっと考えたところこんなところでしょうか
ロマンチストの高校野球ファンはともかく、
朝日、毎日、高野連、高校野球がプロ野球予備軍ではなく、教育の一貫だと言い張るならこれくらい考えてほしいものです
日本人投手はMLBでも、降板を嫌がってグズる例が多いのですが、あれは子供じみていて見苦しい。日本において選手(実働部隊)と監督・コーチ(管理職)との職責が、きちんと切り分けられていないという、恥ずかしい実態を示しています。
監督・コーチの仕事は本質的にマネージメントです。選手を管理・運用するのが彼らの職分になります。勝利を目指すのは勿論ですが、所属する球団の資産であるところの、選手たちを壊さず潰さず、所属期間を満了させるのがその仕事の第一です。もちろん万全の対策をとっても故障は起こるものですが、それが対策を怠っていい理由にはなりません。
なのでプロの酷使(ex,田中将大)もアマの酷使(ex.安楽智大)も同様に、管理職の無能・無策を示しています。「選手の心意気に応えるのがいい指導者だ」などという、認識が50年は遅れた浪花節指導者たちは、即刻野球界から立ち去って欲しいですね。
どんなに選手から尊敬され慕われても、ファンから支持されても、選手を使い潰すのであればそれは無能な指導者です。なぜなら才能ある選手の実働期間を縮める行為は、長期的に見て野球界全体にとってのマイナスだからです。
もはやそういう価値観自体が否定される話なので球児が望みさえすればいいなんてことにはなりません。
こんにちの球児および高校野球ファンがその価値観を持ってしまったのは(新聞社の狙い通りかは定かではありませんが)、やはり興業化され肥大化しすぎてしまった甲子園ブランドに他ならないでしょう。
根底にそれがあるから高校も宣伝のため特待生集め、結果を残せる監督の招聘をする経済的インセンティブが生まれる。これは見えない部分だが結果を残すため酷使もいとわない采配をする上甲にも学校からのプレッシャーがかけられているかもしれません。
一見単なる采配に過ぎない話も現在の高校野球を取り巻く環境まで掘り下げて考え直さなければならない問題なんです。
子供を止めると言っている方の大半は、「それじゃあどこまでやらせるのか」という答えを持っていないように思います。
止めない方は「本人の意思」と割り切ってますから、それでいいのでしょうけど…。
練習でも本番でも明確な基準を決めて、初めてその議論に意味が生じる気がしますね。
具体的基準値を設けるのもありだと思いますけどね。
具体的基準値を提出して反証するか、思想でもって反証するかの違いだと。
ただ「本人の意志で」という人達には
数学的な何かがあるとは思えないのですが
だからこそ高野連が何らかの指針を出すのが良いというのは誰もが思っていることなのでしょうが‥
以下堂々巡り。
http://baseballstats2011.jp/archives/39960789.html
1)1試合の投球数は100球まで
2)60球以上投げた投手は連投できない
個人的にはもっと厳しくてもいいと思っています。
近年の投げすぎ球児一覧
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35552?page=2
これを見ると、1大会での総投球数が500を超えたあたりで、危険水域に入っていることが分かる。大野倫(773球)や一二三慎太(665球)は早々と投手生命を絶たれましたし、川口知哉(820球)や辻内崇伸(696球)は一軍でまともに投げられませんでした。
斎藤佑樹(948球)は大学時代から故障続きで、松坂大輔(767球)、田中将大(658球)はご存じのとおり。島袋洋奨(783球)は中央大で投げていますが、年々成績は低落しています。772球を投げた安楽智大の将来は、あまり楽観視できないと思います。
「甲子園優勝投手はプロで活躍しない」というのは、プロ野球ファンにはよく知られたジンクスだと思いますが、それには投球数問題が絡んでいるわけです。
アメリカでは「25歳以下の投手の過登板は、故障リスクが跳ね上がる」というデータがよく知られています。18歳以下の少年ともなると、そのリスクがどれだけのものになるのか、想像すらしたくないレベルです。極論かも知れませんが、僕は「1球も投げない」というのがベストだと考えます。肉体的に未完成な18歳以下の少年に、酷暑の中でトーナメント制の野球大会をやらせる事自体が、どうかしていると思います。
もちろんそれで十分なわけではなく、今後も議論を続けていくことが前提ですが。
というのもやはり(酷使)は判断が難しい。
トップカテゴリーであるMLB・NPBでも明確な判断基準が示されておらず経験則によるファジーな基準を運用しているに過ぎず怪我防止に効果的だとは誰にも分からない。
ダルが提案した「先発6人制」も投手酷使の改善に向けて試行錯誤して欲しい提言。
その中、部活動である高校野球にはプロの基準を参考にした上でより身体に配慮した(安全)基準を設ける事を望みたい。
理想は今や駆逐されてしまったうさぎ跳びと同様に過投球が白眼視され消滅していく事なんですが…。
Namber Webでも氏原英明氏が書いてます。
名文なので、皆様ご一読を。
この原点から大幅にずれてきているから問題が大きくなっているのでしょう。
そして、私は日本の自虐史観には全く反対で日本は憲法を改正し軍を持つべきだと考えていますが、この高校野球の旧帝国陸軍のような雰囲気が大嫌いです。
話はそれるようでそれていません。あの大戦で祖国を守る為に皆必死で戦い、多くの若者が死んでいった。しかし、時の大本営、執行部の体たらくは何だったのでしょう。
その、体制、、あの敗戦の原因となった、忌まわしき現象が未だに時が70年も過ぎたこの高校野球でさえ、今も残っている。私は本当ににそう考えます。
2013年、夏の甲子園、千葉県代表木更津総合、投手千葉君が故障をしているにも関わらず、登板した件をご存知でしょうか。
登板前の直前練習ですら、1球もストレートを投げれず、様子がおかしいと第三者、アナウンサーや解説者が気づくレベルであるにも関わらず、周りの大人は何も言わずそのまま投げさせた。最終的には、学生である捕手がこれ以上はダメだという判断をして監督が交代に至る。
これを見て、なぜ多くの視聴者は怒りを覚えないのか。
厳密に法律を読むと監督責任がある監督には傷害罪さえ適用できるのではないかとも考えています。この件を傷害罪も含め、高野連に話をしたら、笑って対応するのですよ?
他、木更津総合をはじめ、千葉県高野連、高野連会長の高校、文科省、千葉県庁等、いろんなとこに電話して話をしました。
全て共通して言えるのは、私達には責任はないという責任回避の話しかしない。これが、まともな国家と言えるのでしょうか。
高校球児にアンケートをとると大半が球数制限に反対したという結果がでたらしい。大人は勝手な事を言っているとそう発言もしたらしい。
しかしね、そう言われても、大人がしっかり決めなくてはいけない。それが私達の責任なのではないでしょうか。