多くの生徒は入学直後に、自分たちの境遇に気が付く。
特待生たちのずば抜けた才能を目の当たりにして「これはかなわない」と諦める。それからは「修行の一環」とひたすら忍従の時を過ごすか、惰性で過ごすか、よからぬことをするか。多くはそれらがないまぜになった時間を過ごす。いじめや暴力沙汰はそうした中から生まれる。
※読者、kabuさんより紹介いただいたセルジオ越後さんの記事 サッカーよ、お前もか・・・
【セルジオ越後コラム】部活から補欠をなくす方法
そういう高校生活を過ごした人を何人か知っているが、異口同音に言うのは「試合には出られなかったけれど、辛抱することを学んだ有意義な3年間だった」ということだ。
彼らの健気さは麗しいと思うし、ポジティブに受け止めることができるのは尊敬に値する。
しかし、私が球児の親なら、事態を知ればすぐに子供を辞めさせる。十代の頃から「負け犬根性」が付くのが怖いからだ。しかも金まで払って。
こうした状況は、ずっと続いているから関係者は何とも思わないだろうが、異常である。
「教育」の美名のもと、野球カースト制を敷くのは、人権的に問題がある可能性さえある。
もちろん、高校野球の旧弊なシステムは近年、改革されつつある。開明的、民主的な指導者も増えたと言う。
しかし、スタンドにいる汚れ一つないユニフォームを着た野球部員を見る限りは、高校野球の本質は何も変わっていないと思う。

何でもアメリカが良いとは言わないが、アメリカでは子どもを少年野球チームに入れた親は、倅がレギュラーになれないと知るや、即座に子どもを辞めさせると言う。
レベルが高すぎたのなら、より弱いチームに入れる。そうしてでも試合に出場する機会を確保し、活躍するチャンスを与えようとする。
親たちが一番気にするのは「自己肯定感」が損なわれることだ。子どもの頃から「俺はあいつにかなわない」「劣った人間だ」と思うことがあってはならない。
人生は長い。何度も挫折があるだろうし、数えきれないほど「競争」や「挑戦」をしなければならない。最初から「負け犬根性」がついていては、絶対に乗りきることはできない。
だから、レベルがどうであれ、「自分が主役」「自分がヒーロー」になれるステージを親子で必死に探すのだ。
日本では最初から競争を降りた「負け犬」は、それなりに住む場所と餌を与えられ、安穏と暮らすことができる。プライドの角を折って丸めてしまえば、あとは楽に生きることができる。「自己肯定感」が強すぎる人間は、むしろ生き難い。
NPB出身の野手がMLBでなかなか活躍できない一因は、エリートであっても日本の選手は、どこかでプライドの角を折って、負け犬根性が沁みているからだと思う。

良いことか悪いことかわからないが、日本社会はアメリカ式に変わろうとしている。
「負け犬根性」のついた平和な日本人は、どんどん片隅へ追いやられようとしている。
そして日本的に言えば「厚かましい」、自己肯定感の強い人間が、のし上がろうとしている。
アルプススタンドで声を嗄らして赤の他人を応援している「無印」たちは、「我慢していればいいことがある」と思っているかもしれないが、50代半ばのおじさんから言わせれば、「君ら、こんなことしててええんか」と言いたい。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
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クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。 横山光次、全本塁打一覧|本塁打大全
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>島村俊治アナの「解説者論」
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『「記憶」より「記録」に残る男 長嶋茂雄 』上梓しました。


広尾晃 野球記録の本、アマゾンでも販売しています。


彼らの健気さは麗しいと思うし、ポジティブに受け止めることができるのは尊敬に値する。
しかし、私が球児の親なら、事態を知ればすぐに子供を辞めさせる。十代の頃から「負け犬根性」が付くのが怖いからだ。しかも金まで払って。
こうした状況は、ずっと続いているから関係者は何とも思わないだろうが、異常である。
「教育」の美名のもと、野球カースト制を敷くのは、人権的に問題がある可能性さえある。
もちろん、高校野球の旧弊なシステムは近年、改革されつつある。開明的、民主的な指導者も増えたと言う。
しかし、スタンドにいる汚れ一つないユニフォームを着た野球部員を見る限りは、高校野球の本質は何も変わっていないと思う。

何でもアメリカが良いとは言わないが、アメリカでは子どもを少年野球チームに入れた親は、倅がレギュラーになれないと知るや、即座に子どもを辞めさせると言う。
レベルが高すぎたのなら、より弱いチームに入れる。そうしてでも試合に出場する機会を確保し、活躍するチャンスを与えようとする。
親たちが一番気にするのは「自己肯定感」が損なわれることだ。子どもの頃から「俺はあいつにかなわない」「劣った人間だ」と思うことがあってはならない。
人生は長い。何度も挫折があるだろうし、数えきれないほど「競争」や「挑戦」をしなければならない。最初から「負け犬根性」がついていては、絶対に乗りきることはできない。
だから、レベルがどうであれ、「自分が主役」「自分がヒーロー」になれるステージを親子で必死に探すのだ。
日本では最初から競争を降りた「負け犬」は、それなりに住む場所と餌を与えられ、安穏と暮らすことができる。プライドの角を折って丸めてしまえば、あとは楽に生きることができる。「自己肯定感」が強すぎる人間は、むしろ生き難い。
NPB出身の野手がMLBでなかなか活躍できない一因は、エリートであっても日本の選手は、どこかでプライドの角を折って、負け犬根性が沁みているからだと思う。

良いことか悪いことかわからないが、日本社会はアメリカ式に変わろうとしている。
「負け犬根性」のついた平和な日本人は、どんどん片隅へ追いやられようとしている。
そして日本的に言えば「厚かましい」、自己肯定感の強い人間が、のし上がろうとしている。
アルプススタンドで声を嗄らして赤の他人を応援している「無印」たちは、「我慢していればいいことがある」と思っているかもしれないが、50代半ばのおじさんから言わせれば、「君ら、こんなことしててええんか」と言いたい。
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コメント
コメント一覧
最後まで控えで自己否定感のある人間よりも、生き抜ける場を見つけてイキイキした自己肯定感ある人間の方がいいに決まってます。
しかしながら、自分より劣る人ばかりの世界に行き王様になりたがる、下積みを否定してすぐ結果を求める、挫折しそうな事は全て避ける、とします。こうしたことばかりになると、新しいカーストを生み、頭で考えて工夫してやっと会得する尊さを軽んじ、好きな仕事ややりたい仕事ではないからすぐ辞めるを繰り返す、そんな社会にならないか心配でもあります。
それは極論でしょう。アメリカ流のやり方が押し寄せたって、日本人はなかなか変わるものではありません。
でも正直これまでの社会ではこういうことは本音ではあっても言いにくかった(それこそ、負け犬の遠吠え、と言われるのがオチでもあるし)。
10代の頃、自分の周辺では野球よりもどちらかというと男子バスケがそこそこ競合でメジャーな面があった。
そういう中で同じような状況や境遇があったので、素直すぎる感じがしてちょっと嫌だが最後の部分には共感してしまった。
もう約20年も前のことになるが、当時は今よりも我慢するしかなくそれが美徳のような環境だった。
念のため。
スポーツの本番はゲームだと思うのですが、部活の本分は練習なのかもしれません。
本連載を読んで、他競技ですがセルジオさんのコラムを思い出しました。
【セルジオ越後コラム】部活から補欠をなくす方法
http://news.livedoor.com/article/detail/8759010/
そういう次元の話は、このブログではしていないんですけどね。
読みました。まさにそういうことですね。サッカーも同じなんですね。サイトでも紹介させてください。
転校出来ない、行き詰まったら野球辞めるしかない、こういう競技環境が問題なのに、誰も踏み入らない、情けないです。
日常のコーチングはともかく、
試合のマネージメントは高校生にやらせる
ということはだめなんですかねえ。
管理者としての部長先生以外の大人はベンチ入りできない
というのは無理なんでしょうか。
「キャプテン」「プレーボール」の世界ですね。
ただ一つ、タイトルがどうかな、と思いました。
やはり野球は天然芝でやるべきものですから、真っ白なユニフォームが似合います。
MLBと甲子園を並行してテレビでつけていると、親戚の子はMLBに食らいつきます。泥だらけのユニフォームは子供心心にいただけないようです。
なるほど、今のPLは「監督」不在なのですね。
それで予選決勝までいったにもかかわらず、
(軽くググったレベルの記事だと)
OBや家族が不満だとか……
外部の私なんかからすれば、決勝に残れば十分な気がしますが
そういうわけにはいかないんでしょうねえ。
(だいたいシングルノックアウトのトーナメント方式の予選がどうかとおもってますが)
公式戦には出られないにしても、普段の練習とか、練習試合とかで、本人たちが野球というスポーツをプレイすることを楽しめているのなら、それで良いのではないですか? 公式戦をやっている時期なんて、1年の中でごく一時期なわけですし。
競技に日常的に親しむという意味で、教育的な意義もあると思います。
野球に限りませんが、プレイする中で学ぶことも多いでしょうし、プレイを楽しんでリフレッシュして、それで本分である勉学などにより励めるようになれば、それはクラブ活動としての役割は十分に果たしているのではないかと思います。
チーム内の競争にせよ、甲子園のような公式戦の結果にせよ、勝負だけがスポーツとかクラブ活動のもつ価値ではないと、僕は思います。
よく運動部の活動を通じて「理不尽への耐性がついた」「あの頃よりましだと思えば何でも頑張れるようになった」なんて就活生から聞きますが…
これって要するに「何一つ良い収穫はなかった」って言ってるも同然じゃないですか。そりゃひどい経験ばかりだったら誰でもこれだけは得られますよ。
そんなひどい経験ばかりだったら、根性なしと後ろ指さされようが逃げて別の場所で輝いた人の方が私は尊敬できますが。
それでもこんな語りが古い体質の日本企業には歓迎される。忍耐が美徳とされるっていうのは、つくづく日本社会はつらい世界なんだなあと思います。
今回の話題はいろいろ考えさせられると同時に、胸が痛みながら拝読しました。
「たとえ甲子園出場は叶わなくても、たとえレギュラーになれなくても
そこそこの強豪高校でレベルの高い環境に身を置いて野球がやりたい」のか
「甲子園など縁がないような高校でいいから、とにかくレギュラーで野球をやりたい」のか・・・
「高校の部活で野球をする」と一言で言っても、こういう考え方の違いはあると思います。
本人のモチベーションの問題は、いくら大人から見て「空しい戦い」に見えても、
否定しきれない部分でもあるのではないでしょうか。
甲子園でスタンドから応援している選手を見ていていつも複雑な気持ちになります
力が劣る選手も試合の経験を積めば大学以降で芽が出る可能性はあると思うのでもったいないとしか思えません
しかし毎度ながら100人以上抱えてる野球部には違和感しかありません
100人以上いてまともに練習もできてないだろうし、文字通り空気な子もいるのでは?
監督も名前どころかこんなやついたっけ?ってなる子もいるという話はよく聞きます
仕方ないですよね私もそんな数の選手覚えられる自信がありません
私はもちろんベンチは必要だしある程度なら多くとっても仕方ないかなと思いますが100人以上はやりすぎです
野球の才能のある人間は、例え部員が何百人いようが、レギュラーを獲り、やがて上のステージに進みます。一方、才能のない人間は、例え部員が20人しかいなくてもレギュラーは獲れません。
そこで、野球の才能のない人間が、野球部内における競争に勝つことで自己肯定感を得ようという発想に無理があると思います。
野球部でレギュラーになれなければ、他のスポーツをやってもいいし、文化系の部活に打ち込んでもいいし、勉強に打ち込んでもいいし、はたまた、野球部の中でレギュラーを支える立場に打ち込んでもいいわけです。発想を変えれば、それぞれの立場で自己肯定感を得られるはずなんです。それを何が何でも野球で試合に出られなければ負け犬になってしまうと考えるとおかしなことになってしまうと思います。
そういう意味では、子どもも親も、もう少し視野を広げて、子どもの人生を捉えることが必要なんじゃないでしょうか。
高校生になったばかりで、「諦める力」ですか。
「レギュラーを支える立場」を何の葛藤もなく受け入れることができる10代って、悲しくないですか。
万年県予選敗退の弱小チームの補欠選手を身内にもつ者としては、johnnyさんの意見に同意します。
そういう次元の話しはしていないと言われれば尻込みしますが、本人が「やりたい。」というものに「そんなことしてていいんか?」とは言えないので、一緒になって応援していますし、その彼を誇りに思っています。
個別の話としては、さまざまな人生があるのはもちろんOKです。
でもそういう「良い人」が出すお金と労力で、学校が潤い、指導者が潤い、エリート選手が心置きなく野球をする、そんな関係、いいですか?
そういう純良な「普通の人たち」の善意を食い物にしている人がいると思うのですが。
甲子園は絶対無理な弱小校で4番エースになるのと、甲子園で優勝狙えるチームで背番号なしの控えで裏方に徹する、私みたいな超個人主義には前者でいたいですが、後者の道を自分で決めている人間だっています。
控えになること、全部が全部悪ではありません。
そこで、事務処理能力を見いだして、チームに不可欠な裏方になれば、それは立派な成果で、存在価値十分です。
何でもかんでも、主役たるプレーヤーでいられることだけが幸せ、というのは、多数派かもしれないけれど、それが絶対に正しいと断定するのはいかがなものでしょう。
控えになることは、ゼロではありませんが、ベンチ入りできないのは、野球選手としては「ゼロ」だと思います。それを納得するのは、その人間が傷つきたくないからだと思います。
それもその人の勝手ですから、好きにすればいいですが、自分で自分の機会を損失させているわけですから、単なる自己満足だと思います。
事務処理やマネジメントやレギュラー選手のお世話は「野球」ではありません。
それがしたいのなら、女子に交じってマネージャーを志願すればいいわけです。
そういう人生を歩むのは勝手ですが、人に奨めるべきではないでしょう。
そういう環境は、無くしていくべきだと思います。そうしないと野球のすそ野は広がらないし、世界に通用する野球選手も生まれない。
むしろ、自分らの身内から「エリート選手が出てくれれば・・・」みたいな応援です。そんな関係を望んでるとこはありますね。
そんな関係がいいのか?と問われれば、「地元からプロ野球選手が」と自慢したい流れはあるとおもいます。
私が言いたいのは、個別の案件の事ではありません。そこをはき違えていただきたくない。あなたご自身の感傷は大切にしていただきたいですが、それは普遍ではない。
私は個々の事情ではなく野球界のことについて考察しているわけです。
結果として現実を受け止められたことは尊いと思いますが、野球界の未来にとって、この状況は良いのかどうかです。
これから野球をする子供に「お前が才能がないなら、補欠になってエリート選手を盛り立ててやるのだぞ」と言うのか、「才能がないと言われても諦めずに、他のチャンスをさがして動くのだぞ」というのか、どちらがより十代の子どもにはふさわしいでしょう。
人間の可能性なんて十代では何もわかりません。よりトライアルの機会がある環境の方が良いと思うのですが。
すっかり乗り遅れてしまったようですが、前段の「第三野球部」の話もそうですし、やはりセルジオ越後氏の話も出てくるなと予想していたので、まあまあ予想していた通りの議論になっているようです。
セルジオ氏に関しては、もう20年近く前から部活における「補欠」の弊害について語っているので、正直私にとってはいまさらの感はありますが、これこそ学校スポーツにおける最大の弊害の一つではないでしょうか。
クラブスポーツであれば、出場機会がなければ他チームへの移籍によって活躍の機会を得られますが、学校スポーツの場合は3年間束縛されてしまうわけです。大人でも肌に合わない職場を移ることができることを思えば、かなり理不尽だとも言えますね。また、試合に出ることで伸びる選手は必ずいると思うのですが、試合に出られないことで、そういう選手の才能がスポイルされてしまう可能性があるという点で、野球界全体にとって、大きな損失になっていると思われます。
ただ、それは強制されたものではないという反論は、必ずあると思います。本人がそれで幸せなのかは我々にはわかりかねますが、そういう環境を好む人間もいるのだということは理解しておくべきでしょう。
智弁和歌山の高嶋監督のように、自らが管理責任を負えないという理由で、最初の段階で人数を制限してしまっている例もありますが、むしろこのほうが生徒にとっては幸せなのかもしれません。
まだまだ日本は、「スポーツをする」という権利に無頓着ですよね。
調べてみた所、日本でスポーツ基本法が改正されたのは3年前とのことです。(なんと50年振り!)
現時点では、高校野球だけでなく、日本の主要スポーツの部活は
学校や企業にとっての、教育や宣伝のための道具にしか成り得ていないのだと思います。
入部間もなくサンクコストと化す数多のプレイヤーを、これでもかと見せつけられるのは
オリンピックを控える国の国民として、辛い事です。
ただ、スポーツは、道具ではなく権利であるという概念が日本で広がるには
何が必要なのか。まったく見えません。
今回のエントリーを拝見して、上記のような事を考えました。ただそれよりも
このトピックには、うまく表現できないのですが、日本特有の薄気味悪さが横たわっている。
そんな気がしています。それは、こちらや日々是口実で度々触れられるテーマだとは思うのですが。
頭を抱えてしまいました。
わざわざ尻に敷かれにいくようなメンタリティでしょうか。
それが根本的な原因なのか、それとも帰結なのか。
よく分からないところが、不可解でもあります。
世界に通用する野球選手云々は、そんな高レベルならどのチームでも控えになりゃしない。
野球の裾野が広がらない?
いやいや、裾野が広がったから部員数オーバーという状況が蔓延しているんでしょう。
野球選手は、レギュラーになるしか勝利ではない?
それでは、勉強や音楽や他のスポーツに転向したり、裏方で存在価値を出した若者を評価出来ない、まさに多様性がない社会の象徴ではないですか。
確か、北海道日本ハムのピッチャー矢貫は、仙台育英でベンチ入り出来ず、甲子園で準優勝した時はアルプススタンドで大太鼓係だったと聞きました。
だから、野球で成功するには、この王道しかない、みたいな考えには賛同出来ませんね。
個人的にはそれは無理なんじゃないかなと思ってます。
他時総論さんのおっしゃるように世の中には多様な価値観があるし、それは認められるべきである。
でも各人にステータスがあるように、その時代その場所で重視される価値は実際には限られてます。
仕事ができる、勉強ができる、顔がいい。こんなのは割と広い世界で共有されてる価値ですが、歌手だったら歌が上手ければ尊敬されるし、モデルだったら見た目さえ良ければいいでしょう。
じゃあ野球部ではどうか?言うまでもなく野球がうまい奴が正義です。気配りができても努力してても関係ない。部活内カーストの上位にくるのは必ずエリート選手です。
世間の目線がどうあろうと自分は立派だ!…と思うのは結構難しいことです、高校生くらいの年では特に。
だったら下手にコンプレックスと折り合う術を体得するより、自分の良さが公然と認められる世界に移った方がよほど教育的でしょう。裏方である自分を受け入れる…なんて、自分自身を認めてあげられる年になってからでも遅くないのでは。
同様に、野球選手として出番ないならば、出番のあるチームに移るべし、ということでしょう。
その上で言うと、強豪チームの背番号なし選手が弱小チームに移ったらどうなるか。
当然、出番もあるだろうし、エースで4番にもなれるかもしれない。
でも、チームとして試合に勝つ可能性も、甲子園に行ける可能性も低くなる。
そのトレードオフで、強豪チームで全国を勝ち抜くなかにいたいから裏方や応援の立場を受け入れる、というのも認められる話ではないですか?
どんな分野でも、自分の好きなことや得意なことで輝くに越したことはありません。
でもそれ以上に大事なのは、自分自身をその場所で最適化させることです。
といっても、裏方という立場を見下すメンタリティが強い類いの人間には、釈迦に説法ですけどね。
アメリカでは学校、クラブを問わず、控え選手は最低限に絞りこまれます。野球で言えば15人程度。それを越す場合はBチームを作ります。
またチームは毎年一旦解体し、トライアウトで選手を募集して再結成することが多いようです。
論点が全くずれています。
高校生の内から裏方になってしまうのはどうか、という問題であり、裏方を見下す云々の話ではありません。
そもそも、高校野球を含めた日本のアマチュア野球の現状の異常さについて述べた記事であり、個別の話ではありません。
システムを変えようと言う話です。
昔から元木や谷のように他球団のレギュラーと巨人の補欠だと躊躇なく後者を選ぶ選手がいたのが不思議だったのですが、プロ野球選手といえどもの子供のころからそうした事に慣らされていたのだと思えば、そういうものなのかなと納得しますね。
地区予選一回選コールド負けするようなチームのエースと、優勝校の球ひろいの、どちらがスポーツ選手として良いのかという哲学の問題ですね。「鶏頭となれども牛後となるなかれ」という諺がありますが、これは日本の学生スポーツではあまり推奨されない姿勢のようですね。むしろ弱小チームのエースが「井の中の蛙大海を知らず」と腐されたり、「長い物には巻かれよ」とばかりに名門校の端くれであることが名誉出会ったりという価値観の問題なのかもしれません。
しかし健大高崎のはユニフォームと言っていいんですかね?「ユニ」とは単一のという意味の接頭語なわけで、単一デザインでない時点ですでにユニフォームではないと思うのですが・・・。クラスフォームとかランクフォームというんでしょうかね、こういうのは?
健大高崎に限らず、大所帯の名門野球部の万年補欠部員たちは、中学まではきっとバリバリのレギュラーだったはずです。さすがにそうじゃないと補欠扱いとはいえ名門校には入れませんから。
中学時代までの栄光の?野球人生が彼らの根底にあり、そのおかげで高校の3年間は補欠でも「上には上がいるんだ、しょうがない」と思って耐え、不満や不安を消化できる(している)んだと思いたいです。
私の大学時代の知人にそういう境遇(中学バリバリ・名門高校補欠)の方が何人かおりました。彼らは大学ではサークルや草野球を楽しみ、その後は就職し仕事に打ち込んでいます。
繰り返しになりますが、補欠を決定づけられた境遇のせいにして、その後の人生を投げ出すようなことだけはして欲しくありません。
全体で見たら損失は大きいでしょうね。きっと。
なるほど、人数が多い場合はチームを別に作っているのですか。
それなら卒業まで公式戦を経験出来ないケースはかなり減るでしょうね。
ありがとうございます、勉強になりました。
Varsity (学校代表)
Junior Varsity A (準レギュラークラス)
Junior Varsity B (1年生)
ジュニアチームの呼び名は学校それぞれも大体このような感じで、各チームがトライアウトで選別した15~25名の選手を抱えます。
遅咲きの選手に与えられるチャンスは、日本よりも格段に多い印象です。
天野氏は将棋の羽生名人を見て、彼は40代で自分の50代の境地に達していたと感じたそうです。そうなった理由を、羽生名人の若い頃の試合数の滅茶苦茶多いこと、特に負け数の絶対数の多い事が早い進歩につながったのだろうと分析しています。
これはどんな物事にも通じる真理ではないでしょうか。
そう考えると、野球が好きで上達しようとする若い人が、試合にほとんど出られないという事は何ともったいない事かと思います。いろんな事を吸収できる年代なのに。
忍耐や挫折を知る事も大事ですが、それは他のところでいくらでも学べます。人生、そういうことの方が圧倒的に多いのですから。
一方で才能ある投手を酷使で潰してしまう問題があり、裏腹に、このシステムのせいで、開花したかもしれないのに消えていった数多の才能があると考えると腹立たしさすら感じます。
未来ある若者に、安全に、いろんな可能性を試せるようなシステム作りを大人が主導して作らねばなりませんね。
この議論が各所でもっと活発になることを願います。
実地にまさる経験はありませんね。スポーツや芸術は特に、若年の頃の経験の差が、成人した時のスタートラインの差となって出てきます。それを巻き返すことは不可能ではありませんが、多くの人にとっては絶望的な差と見えるでしょう。
ベンチやスタンドからでも、それなりの経験はできます。
ただ、グラウンドで戦っている選手は、その数倍も濃密な時間を生きていることを知るべきでしょうね。そしてその事実は、何度もグラウンドに立ってみないと分からないことです。
もちろんブローカー達は親に「あんたら一家は食い物なんだよ」とは言いません。お客さんですから。贔屓目なしに我が子の才能をよく見れば、一目瞭然に分かるはずのことが、おだてられて理解できていない。その無知とお人好しに付け込まれて、いい食い物にされている親がいかに多いことか。
残念ながらこういった事例はアメリカにも沢山あります。
特に男子はアメフト、女子はチアリーダーに人気が集中しており、家計が傾くほどの金額をつぎ込む親が少なくありません。
世界一のスポーツビジネス大国のアメリカでも、トップリーグのプロ選手は4大スポーツを合計して8000人程度と言われています。一方で、日本には1万人以上の雇用を抱える会社がゆうに50以上はある。
プロスポーツ選手を目指すのがいかに馬鹿げたことか、データから明確に分かるのです。それを可能にするような才能は、それこそ小学生の頃から次元の違う能力を発揮した子でないと、とてもとても手が届かない。
このエントリと、上のエントリについて
ブログで僕の考えを書かせて頂きました。
長いので恐縮ですが、お時間ある時お読み頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
↓
http://www.blueorange.co.jp/blog/archives/2151
ありがとうございます。拝読します。
拝読しました。一つ一つに丁寧に反論くださって、感謝いたします。
ライターとしての私は、求められた文章のために取材をしますが、ブロガーの私は基本的に、パソコンの前に座ってそこから流れてくる情報をもとに文章を書いています。そういうものだと割り切っています。
おっしゃるように、私はすでに昔の、旧弊な高校野球について書いているのかもしれません。
私の従兄に手束仁と言うアマチュア野球のライターがいますが、彼の本を読むと、最近の高校野球の指導者が何を考えているかもよくわかります。
私の体験からしても、現場で話を聞けば、こういう突き放した文章は書けないのだろうとも思います。
ただ、アマチュア野球からNPBに至るまで、日本の野球の持つ体質の重たさ、古さは本質的には変わっていないのではないかと思います(この部分、多少とも知っていることもありますので)。
その点では書いた意義はあったと思います。
いろいろ高校野球も進歩しているかもしれませんが、それでも変わらないといけないと思います。
このサイトには、幸いにも素晴らしい読者がいます。彼らにも読んでもらいたいので、案内をさせていただきます。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
そこでみすみす補欠や裏方になるくらいなら、
(県大会の初戦も突破できないとは言わないまでも)甲子園出場の可能性は高いとは言えないチームでも、
レギュラーで野球ができ、自分の可能性を生かせる高校を選べばどうか?」
こう野球少年に問いかけると・・・
「たとえ強豪チームがそういう状況でも、レギュラーになるように努力したいし、挑戦できる場所にいたいと思うのはダメなの?
はじめから挑戦もせずに、そこよりレベルが落ちるチームでレギュラーとして野球ができても
きっと強豪チームで自分が挑戦しなかったこと、できなかったことがずっと心残りになると思う。
強豪チームで頑張っても結果的にレギュラーになれず、補欠のまま終わっても、そのほうが後悔がない。」
こういう考えの野球少年たちも少なくないんです。
(つづく)
こういう考えの少年たちに、我々大人たちはどう対処すべきなのでしょうか。
「特待生に食い物にされるチームで無駄な挑戦や努力をするくらいなら、
本意のチームではなくても、自分自身を輝かせてくれる可能性ある場所を選びなさい。」
「プロになるなんて無理だから、ほかのことを目指しなさい。」
こうアドバイスして、少しでも可能性の高いステージに導くのがいいのでしょうか・・・。
これは彼らの可能性を生かそうとしているようで、同時に可能性を狭めているとも言えないでしょうか。
(石黒さんのご意見を拝読しました。同感です。)
たとえ強豪チームの補欠で3年間終わったとしても(3年間を裏方で過ごしてしまうとさすがに難しいでしょうが)
それを「挫折」というなら、将来に生かせるより強いエネルギーにもすることが可能でしょう。
本人の強い意思があれば、その後も野球を続けることもできるでしょうし
事実、プロに進んでいる選手でも、高校時代は補欠だったという例もあります。
高校で野球はやめても、残るのが「挫折」だけではないでしょう。
こういうことは「個人案件」だから勝手にしろで終了なのかもしれませんが、
本当に野球少年たちのことを考えた議論であるならば、野球少年たち自身の気持ちも無視して進められないと思います。
広尾さんのブログにたどり着いて、やっと「私の中の正解」を見つけた気がしました。広尾さんの意見、心から賛同します。また、多くの皆様のコメントを読んで、自分だけが考えているわけではないんだと知り心強く思いました。今日、はじめてブログを読んだので、一年も経過した頃にコメントを投稿してすみません。
そしてとりとめなく長文になり、ごめんなさい。分割して投稿します。
息子が野球をやっています。高校三年生です。この夏の県大会でベンチ入り出来ませんでした。進学校なので、広尾さんがテーマにされているような強豪校ではなく、県大会で一回戦に勝てば大騒ぎになるような、そんな学校です。部員数は各学年に20数名。ですからかなり高い確率にも関わらず息子はベンチ入りの選に漏れました。
実力なので仕方がないと分かっていますが、ピッチャーで、春の大会では二桁で背番号をいただきましたから今回も大丈夫と思っておりました。息子の落ち込みは激しく、どう言葉をかけていいのかわかりませんでした。
ベンチ入り選手発表の日から県大会の初戦を迎えるまでの間、私(母親)と息子、一対一の静かな心の整理が始まりました。
「この試練を感謝して受け止めることはきっと素晴らしい人生勉強になる」「この経験は糧になる」と最初は思うようにしてましたが、どんどん考え進むうち、変だと思うようになりました。
失敗や挫折とは違う種類の感覚のような気がしてくる。
そして私がたどり着いた結論、「必要とされないなら、あっさりと辞めてはどうか、母さんはそういう選択もアリだと思う」と息子に伝えました。
そして息子が考えた末に出した結論は意外で、バッティングピッチャーを買って出たのです。毎日200球を投げて帰ってくるようになりました。
高校大学と野球をやっていた私の職場の同僚男性にこの話をすると「素晴らしい成長ですね(バッティングピッチャーを買ってでたこと)」とか「ベンチ入り出来なかったからと辞めるのは今後の彼のためにもよくないですよ、学歴にも傷がつく」「試合に勝ったとき、お前がバッティングピッチャーをしてくれたから勝てたんだ、とチームが一つになるんです」と言う。
「そうかなあ」と、そこまでして野球にしがみつく理由がよくわからなくなり疑問を感じ始めました。
そのうち県大会の決起集会があり、母親としては、ソコに参加する息子が不憫でならない。決起集会の日は勿論保護者も全員参加します。私は仕事で行けなかった、というより行かずに済んだので、息子がどういう位置付けでその場に存在したのか確認出来ませんでしたが、想像しただけでも苦しくなりました。
そして、ここまでの体験で私は、じわじわと違和感を感じはじめていました。
野球の美学、というんでしょうか。
根強い美学の考えに騙されているか、洗脳されているような気持ちになりはじめました。
ベンチ入り出来なくても、開会式にグランドで行進出来なくても、「控えの選手の姿は美しいモノである」という考えが広く浸透していて「高校野球の景色の一部」になっている。
「野球ってソウイウモノナンダ」と彼が思い込んでいるだけだとしたら。
野球の女神とやらの虜になっているだけだとしたら。
目を覚ませ!
こんなところから早く退散しよう、と親は思うのですが、なぜか子供は頑張るんです。
そうこうしているうちに、県大会の初戦の日がきました。
息子がスタンドから応援するのなら、親としてその気持ちを共有してやらねばならない、という思いから、行きたくはなかったけれど球場に無理矢理に足を向けました。
球場が近づくにつれて涙が出る。
スタンドに上がれば、保護者たちと親戚やおじいちゃんおばあちゃんがたくさん。ビデオカメラの台数もすごい。
いつもの試合にはない風景です。
甲子園となると、親戚や祖父母の数はもっと増えるのでしょう。
とても平常心ではいられないです。
まるで動物園の檻の内と外みたいに距離は近くてもグランドとスタンドは立場が違う。
私は保護者たちから最初離れて座っていたのですが発見されてしまい、無理矢理に固まって応援しよう、とにこやかに招き入れられ保護者集団の中に吸収されてしまいました。
保護者同士のイジメは全くありません。むしろ気を遣ってくださいます。
が、逆に気を遣われると苦しくなります。
この時、席を離れるか帰るかすれば良かった。
でも、ここでもまた例の「美学」が頭をもたげてくるのです。ベンチ入りしていなくても、これまでお世話になってきたのだから応援は一緒にしなくてはならないのかも、と思うわけです。
自分の気持ちを捨てて、あとは義理人情。
結局、私は9回まで、お母さんたちの黄色い声援と乱舞と騒音とビデオ撮影に動き回る中で心をメッタ切りにされながらも我慢して座っていました。涙が流れるのを隠すのに必死で、得点が入っても全然嬉しくありません。勝った瞬間も全然嬉しくありませんでした。
むしろ負ければいいのに、と思ってました。
試合終了でみんなが総立ちで興奮状態になったときに一人そっと席をたちました。そしてその日から私は吐き気がするほど高校野球が嫌いになりました。
なんて残酷なシステムなんだろうと思います。
同じスタンドに息子はきちんといて、メガホンを持って吹奏楽の曲に合わせて踊り、応援していました。
何故、あの子は辞めないんだろうか。
息子の姿を「美しい」とはとても思えませんでした。
軍国主義に走っていた日本のように、おかしいと感じていても発言出来ない空気が高校野球にはあります。
野球の美しさに洗脳されている子供たちは、自分がどんなに惨めであるか、本当の姿に気付こうとしていないのかもしれません。
息子は「俺の中ではストンと落ちてるから、もうごちゃごちゃ言わないでくれ」と言います。
でも、子供も大人も、もっと自分の気持ちを素直に出していいと思います。
裸の王様みたいです、高校野球の世界は。
広尾さんのブログにたどり着いた時、これまで誰ともこの気持ちを共有出来ずにいたので、やっと自分の感じ方に自信が持てました。
ありがとうございました。感謝申し上げます。
今日も息子は朝練のため、早くに元気に登校していきました。
もしかすると野球の練習自体が好きなのかな、と想像してみたり、男の子はいつのまにか大人になっていくようで見守るしかなさそうです。
ありがとうございます。コナンさんの感覚の方が私はまともだと思うのですが、そう思わない人もいるようです。
試合に出られなくても「人生経験を積むことができてプラスだ」というのは、指導者の勝手な理屈です。特攻隊みたいです。日本のアマ球界は狂っていると思います。
小学生から加入するスポーツ少年団なるものから、あの野球独特の美学を教え始めるような気がします。
プロ野球選手を引き合いに出して、耐えて頑張れば君もプロになれる、と。
スポーツ少年団は、いまだに監督はタバコを吸いながら、時には酒を飲みながら指導するような組織です。
私はすぐに辞めさせましたが、学校の部活となると、そうはいかないですね。
私は高校野球部の監督の取材もやりますが、先生の中には良く考えておられる方もいます。でも、高校野球全体が、旧弊な考えで運営されているので大きな流れは変わりません。
流れは変わらないとしても、今回の息子の件で、これまで体感したことのない感覚を知り、親子で高校野球について知らなかった細部に気づいたことが、よかったと思っています。
何より親子で野球について考える時間を持てて、素晴らしい機会を得たのだと。
知らずに子供を見守るのと、知った上で見守るのとでは全く違うし、これからの世代、いつか子供の子供が野球をするときにも伝えてあげたいと思います。
もっと言うと、息子は大学で必ず教職をとるようですから、息子が高校で教師になり、自分が野球部の監督になる可能性もあります。
(やってみたいと少し思い始めてるみたいです)
だから今回の体験は大変貴重なことです。
いつか役にたつことでしょう。
広尾さんのような考えに出会い、安心しました。ありがとうございます。
これからもお付き合いください。
これからも野球を見つめていきたいです。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。
今回のことで予想外の深手を負ったようで息子のお別れ試合を含め、当分の間、野球の試合をまともに見られそうにありません(笑)
要点が見えない愚痴を言っているだけのようなわかりずらい文になってしまい申し訳ありません。