昨日の「野球と言論」の関連。例の高校軟式野球について。ちょっと時間を置いて整理したかった。
8月末に起こった「高校軟式野球準決勝」に関する批評の中で、「残酷ショー」と言う言葉を使った人が二人いた。
一人は松谷創一郎氏。Yahoo!ニュース。
「残酷ショー」としての高校野球
8/31の16時のことだ。この記事はかなり批判されている。
続いて尾木直樹氏が同日21時に
軟式高校野球の準決勝。四日間に渡る延長50回は残念・残酷
と書き、その中に
残酷ショーさせた高野連に緊急見解を求めます
と書いている。
これに対し、9/2、たむらけんじがtwitterで
尾木さんが50回全力で戦った軟式野球の試合の事を残酷ショーってゆうてるのはどうなん? ショーやないやろ?一生懸命戦った高校生達の気持ちは考えてんのか?ショーって言われて喜ぶと思ってんのか? もちろん子供達の身体の事は考えなあかんけど、本人達がゆうのはわかるけど、外野は黙っとけよ!
と反論した。
尾木氏は後に「表現が強すぎた」と反省のコメント。
たむけんも
僕が反省する所は黙っとけよ!とゆう言葉。 これはいくら腹が立ってたといえど目上の人に対してゆう言葉ではなかったと思います
と大人の対応で、丸く収めてはいる。
目上の人の言うことには、たとえ間違っていても従うと言うのは、芸人ならではの習性だ。
重要なメッセージが込められていたにもかかわらず、リテラシーの低い有名人の反論によって、問題提起が中折れになった。誠に残念だ。
たむけん、そして世間の多くの人は、「残酷ショー」と言う言葉に敏感に反応した。この言葉が仲間のために一生懸命にがんばった投手の気持ちを傷つけている、と感じて反論をしたのだ。
しかしながら「残酷ショー」と言う言葉に、その投手を傷つける意図が一切含まれていなかったことは明白だ。
松谷氏にしても、尾木氏にしても言論人として責任ある立場での発言をしている。その内容はまっとうなものだ。
一人の高校生が、常識をはるかに超える投球数を投げさせられたのを、大人が手をこまねいて何ら救済しなかったことを非難している。選手の健康を管理する責任のある人たちが、何もしなかった、このことは看過して良いのか。
たとえその投手が志願して投げたにしても、彼の健康のことを考えるなら、誰かが止めるべきであった。善処すべきであったと。ましてや文部省管轄の「教育」だったのだから。
しかしそうした真っ当な批判とは別に「残酷ショー」という言葉が独り歩きし、非難を浴びるようになった。
日本人は、こういう話に弱い。
「理」よりも「情」に流されるのだ。
またか、と言われそうだが、この議論、やっぱり「特攻」の話に似ている。他に比較すべきものが思い当たらないので、この例えを使うが、
「特攻は犬死、無駄死にだ」という言葉に、多くの日本人は敏感に反応し、反発する。死んでいった若者の気持ちを踏みにじるものだ!と言う。
そういう人も、特攻が愚かな作戦であることには概ね同意する。二度とあってはならないと思っている人が大部分だ。
しかし、特攻で死んだ若者を「犬死」「無駄死に」だとする言葉に感情的に反発し、拘泥するあまり、そこから先の議論は深まらない。
「残酷ショー」も「犬死」「無駄死に」も、その当事者を貶める意図は全くない。そうさせた周囲、とりわけ指導者の責任を問うているのだ。
つまり、
「残酷ショーをさせた」、「犬死させた」、ことを問題にしているのだ。
高校野球ファンはこのスポーツを非常に愛好している。選手を心から愛している。彼らの努力や頑張りは全て肯定したい。その思いの強さが、外部からの批判や批評を受け付けないことにつながっている。
確かに高校野球を愛しているなら、高校球児のプレーを「残酷ショー」と切り捨てることなどありえないかもしれない。
しかし、この言葉を使った二人の論者は、敢えて強い言葉でこの事態の「異常さ」をアピールしようとしたのだ。そこから議論が起こるべきだと主張しているのだ。
リテラシーの低い人が、その議論を妨げていると言ったが、実際には「本質的な問題」がどこにあるかを知っていながら「選手の気持ちを踏みにじる」的な感情論を隠れ蓑にしている向きもいる。
朝日新聞などの大手メディアがそれだ。
新聞社が正直者でも真っ当でもないことは、昨日の朝日新聞社長の記者会見でも露呈したが、自らの利権を守るために「本質的な問題に触れてもらいたくない」「改革の機運が起こってほしくない」サイドが確かに存在するのだ。
「残酷ショー」と言う言葉に感情的に反応する人々は、そういう利権に固執するサイドの存続、延命に力を貸している。頼まれもしないのに、彼らの「商売」に協力している。
しかし、高校野球をめぐる問題をちゃんと考える時機は到来していると思う。
どこもはじめそうにないので、弱小アマチュアメディアながら、当サイトではそれを始めたいと思う。
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一人は松谷創一郎氏。Yahoo!ニュース。
「残酷ショー」としての高校野球
8/31の16時のことだ。この記事はかなり批判されている。
続いて尾木直樹氏が同日21時に
軟式高校野球の準決勝。四日間に渡る延長50回は残念・残酷
と書き、その中に
残酷ショーさせた高野連に緊急見解を求めます
と書いている。
これに対し、9/2、たむらけんじがtwitterで
尾木さんが50回全力で戦った軟式野球の試合の事を残酷ショーってゆうてるのはどうなん? ショーやないやろ?一生懸命戦った高校生達の気持ちは考えてんのか?ショーって言われて喜ぶと思ってんのか? もちろん子供達の身体の事は考えなあかんけど、本人達がゆうのはわかるけど、外野は黙っとけよ!
と反論した。
尾木氏は後に「表現が強すぎた」と反省のコメント。
たむけんも
僕が反省する所は黙っとけよ!とゆう言葉。 これはいくら腹が立ってたといえど目上の人に対してゆう言葉ではなかったと思います
と大人の対応で、丸く収めてはいる。
目上の人の言うことには、たとえ間違っていても従うと言うのは、芸人ならではの習性だ。
重要なメッセージが込められていたにもかかわらず、リテラシーの低い有名人の反論によって、問題提起が中折れになった。誠に残念だ。
たむけん、そして世間の多くの人は、「残酷ショー」と言う言葉に敏感に反応した。この言葉が仲間のために一生懸命にがんばった投手の気持ちを傷つけている、と感じて反論をしたのだ。
しかしながら「残酷ショー」と言う言葉に、その投手を傷つける意図が一切含まれていなかったことは明白だ。
松谷氏にしても、尾木氏にしても言論人として責任ある立場での発言をしている。その内容はまっとうなものだ。
一人の高校生が、常識をはるかに超える投球数を投げさせられたのを、大人が手をこまねいて何ら救済しなかったことを非難している。選手の健康を管理する責任のある人たちが、何もしなかった、このことは看過して良いのか。
たとえその投手が志願して投げたにしても、彼の健康のことを考えるなら、誰かが止めるべきであった。善処すべきであったと。ましてや文部省管轄の「教育」だったのだから。
しかしそうした真っ当な批判とは別に「残酷ショー」という言葉が独り歩きし、非難を浴びるようになった。
日本人は、こういう話に弱い。
「理」よりも「情」に流されるのだ。
またか、と言われそうだが、この議論、やっぱり「特攻」の話に似ている。他に比較すべきものが思い当たらないので、この例えを使うが、
「特攻は犬死、無駄死にだ」という言葉に、多くの日本人は敏感に反応し、反発する。死んでいった若者の気持ちを踏みにじるものだ!と言う。
そういう人も、特攻が愚かな作戦であることには概ね同意する。二度とあってはならないと思っている人が大部分だ。
しかし、特攻で死んだ若者を「犬死」「無駄死に」だとする言葉に感情的に反発し、拘泥するあまり、そこから先の議論は深まらない。
「残酷ショー」も「犬死」「無駄死に」も、その当事者を貶める意図は全くない。そうさせた周囲、とりわけ指導者の責任を問うているのだ。
つまり、
「残酷ショーをさせた」、「犬死させた」、ことを問題にしているのだ。
高校野球ファンはこのスポーツを非常に愛好している。選手を心から愛している。彼らの努力や頑張りは全て肯定したい。その思いの強さが、外部からの批判や批評を受け付けないことにつながっている。
確かに高校野球を愛しているなら、高校球児のプレーを「残酷ショー」と切り捨てることなどありえないかもしれない。
しかし、この言葉を使った二人の論者は、敢えて強い言葉でこの事態の「異常さ」をアピールしようとしたのだ。そこから議論が起こるべきだと主張しているのだ。
リテラシーの低い人が、その議論を妨げていると言ったが、実際には「本質的な問題」がどこにあるかを知っていながら「選手の気持ちを踏みにじる」的な感情論を隠れ蓑にしている向きもいる。
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コメント
コメント一覧
ただ言葉のひとり歩きで集団ヒステリーが起きたのはどうにかならないかなとは思います。
少し前のバラエティー番組「アメトーーク」で高校野球の特集をしていましたが、番組で取り上げていた名場面は投手が酷使されているものも多かったです。酷使に感動するファンが多い限り、球数制限への反発は大きいでしょう。
高野連は何か起きないと動かない組織ですので、世論の後押しがなければ球数制限などルール化されることはないでしょう。
今のままでは、腕の不随でも起きない限り連盟は動きません。そんなことは起きて欲しくない。
ある意味では今年度の東海大相模高のような、投手が数人いるチームに力を示して欲しかったです。
そして投手は数人育てるもの(育てた方が強いチームになる)という風潮につながって欲しかったです。
いや嫌いです
選手にとってはそんなこと知ったことではないからです
もちろんさせたほうを批判されていることを理解しています
しかし今回の軟式野球の事例は甲子園という舞台や予選での段階がマスコミの扱いがなくなろうが客が全くいなくなろうがこの手の問題が解決することはないことを証明しています
残酷ショーという過剰な表現を使うことで注目を集め問題提起するといった行動も理解はできます
しかし広尾さんも仰られているようにこの手の表現に日本人がこのような過剰な反応を見せることもわかっていたはずです
わかっていながら使ったんだから軽率としか思いません
私は両者の意見に賛成するところも多いからこそ、このような表現を使ってしまったことが残念です
「残酷ショー是か非か」という議論は、どこかで打ち切らないとダメでしょう。発展性はないですし、敢えて言いますが、重要な問題ではありません。
高校球児の活躍を否定する人などいないのですから。
仮に「過酷な登板」など、もう少し穏当な言葉で語られていたら、この問題は埋没していたはずです。
「残酷ショー」という表現は不適切ですが、使う意味はそれなりにあったと思います。
本人たちは頑張っている、そんなことは百も承知のうえで、悔いが残るとかそういう悪い部分もすべてひっくるめて諭してやることこそ、大人の役目ではないかと思います
論者さんの残酷ショーという言葉からは、あえて悪者になってでも未来ある若者を大切にしてあげたいという気持ちがあったのではないかと思います
侮辱の意味を含ませないと問題提起できない人間に問題があるのです。
その言葉に拘泥している人は、この事件を真面目に考える気がないと思われても仕方がないでしょう。
「言葉が過ぎる」とたしなめることはすべきかもしれませんが、だからと言って論者の意見に耳を傾けないことがあってはいけないと思います。
> 侮辱の意味を含ませないと問題提起できない人間に問題がある
のではなく、その言葉に拘泥して本質的な部分に到達できない人々、あるいは「怒ってみせる」ことで論点を逸らそうとする人に問題があると思います。
あなたは高校生が5日間の間に1000球を投げた(投げさせられた)ことをどうお考えですか?
たむけんの言うところの、外野は黙っとれ。なのでしょう。部活をやる年齢じゃないオッサンに何が分かるのかと。
残酷ショー。私は表現は間違ってないと思います。子供を守るべき大人であるという一点では、ぜんぜん外野ではないと思いますし。
私が危惧するのは、この、黙っとれ。が子供たちのスポーツ環境に意見できない雰囲気を生まないかということ。いや、現にそういう風潮はありますよね。
頑張る球児は大好きだし、正直、ああいう試合は感動しますよ。でも、やり過ぎに歯止めがかかる現場であってほしい。
だいたい、投げすぎ、特攻問題は世間的には認識されてる問題ですよ。
その問題を持ち出して侮辱の言葉をくっ付けたら「ただそのセリフ言いたいだけ?」って思われてもしょうがない。
(本当に独自の考え方を人に理解して欲しいと思っている人は侮辱の言葉は使わない。自分の考えを説明するのに侮辱の言葉を使う意味がわからない。本質の部分を書けばいいだけ。)
投球数に関しては、本人の意識の問題ですので特には何も感じてません。ケガしたとしても、治せば日常生活に支障無さそうだし。
尾木氏や、松谷氏が「注目を集めたい」ために発言したと。なぜその必要があったのでしょうか。二人とも言論人として著名です。
それから、1000球投げても日常生活に支障が無ければそれでいいと言うことですね。命さえ無事なら。
投げられるかどうかは別にして。
野球ファンと言えるでしょうか、そのお考えは。
たとえ「残酷ショー」と言う言葉を使っていなくとも、聞く耳は持っていなかったのではないですか。
ただご自身の趣味に合わないと言うだけではないですか?
私もその意見も賛成です
ですが世間がそうでないことは反応から明白です
もっとも松谷さんの場合Facebookのコメント欄が気持ち悪いとTwitterで拡散されるという斜め上の方向に発展しましたが
一人の子供がこれだけ投げ続けた(投げさせられた)ことに対して、本人には労を労う言葉をかけてあげるべきだとは思いますが、それを管理・監督する立場の人(この事を称賛する人含む)は、彼の未来にある幾つかの可能性を潰しているかもしれないということに気付いて欲しいです。
もちろんこれだけの球を投げても何ともないということもあるかもせれませんが、それはあくまで結果論であり、マイナスの可能性がある限りはそのブレーキは大人がかけなければならない、それが子供の未来の可能性を守る大人の責任だと思います。
世間がそうでないのは百も承知。webも含め、リテラシーが高い人はそんなにいません。
深く考えていない人ほど耳目を集めます。
そういうことはどうでもいいと思っています。
尾木氏のブログ改めて読みましたが、思ったとおり真新しい提案などは書いてないし、「残酷ショー」という言葉をわざわざ使う必要性も感じられませんでした。(案の定選手の意思はそっちのけ)
だれか、「残酷ショー」の言葉の本質を解説してくれないですかね?
恐らくありきたりなことしかこの言葉から解説出来ないと思いますけど。
高校生がリスクを承知の上で投げてるならノープロブレムです。
広尾様もこのプログを紹介される時、「野球ファンが書いてるんだけど、スカトロマニア的なコアな人達のプログだね」って言われたら侮辱されたと思うでしょ?(自分的には上手く本質をとらえていると思いますけ
横からで大変申し訳ないのですが、
>高校生がリスクを承知の上で投げてるならノープロブレムです。
この考え方は非常に危険だと思いますよ
本人がリスクを負うなら周りは止めなくて良い、本人がやりたいようにさせてやれ
それではまずいと思います
それこそなんのために監督や指導者がいるのかって話になってしまいますし
なぜ止めたと恨まれても、憎まれても、それでもリスクを説明し止めてやるという姿勢が大事ではないかと思います
「残酷ショー」には妥当性がありますし、そういうべき根拠があると思います。でも、もしその言葉が学生たちに浴びせかけられたのなら確かに侮辱でしょう。
ただ「スカトロマニア的なコアな人達」ってのは、侮辱になってないですね。スカトロはある意味褒め言葉ですしね(汚い言葉だからうれしくはないけどね)。知識の無さとセンスの悪さしか感じません。そういうレトリックを使うのは、失礼ながら無理なんじゃないですか?
お気の毒だとは思うけど、本質からは大外れしていると思います。
選手の意思はこの際、全く関係ないですよ。
高校野球で「選手が投げたいと言うから投げさせた」という指導者がいたら(実際にいるのが残念ですが)それは、自分の職能の放棄でしょう。
選手の健康を考えて、適材を適所に使うのが指導者の役割です。それができていないから「残酷ショー」と言っているわけです。わかります?
それは何とも分からない。
ほら「知識の無さとセンスの悪さしか感じ ません。そういうレトリックを使うのは、失礼な がら無理なんじゃないですか?」って反応して本質を見てないじゃないですか!
本質はスカトロ目線で高校野球に意見をしてて一般的な目線でとずれてるってことです。
一般的な野球ファンは「投げすぎによる肘、肩の故障は万が一のリスク」ぐらいしか考えてないですよ。
広尾様も「高校時代の投げすぎが原因でプロ野球人生を駄目にした選手」なんて何百人も浮かばないでしょ?
ー続く
野球ファンじゃない一般的な感覚でも「本格的に野球が出来なくなること」が何でそんなに不幸なの?って思っていると思います。
今、野球選手の肩肘の酷使についてスポーツ医学の専門家の方に取材をしています。そういう結果も含めて今後ブログを出していきます。
「投げすぎによる肘、肩の故障は万が一のリスク」というのが野球ファンの一般的な見方だと言うのは初めて聞きましたが、何かデータを出してくだされば幸いです。
大野倫など有名な選手でも肩を壊した選手は多いですし、無名の選手で酷使の挙句投手を断念した選手はかなりの数になると思います。
具体的な資料などご提供いただければありがたいです。
そういうとこ、しつこいところ、スカトロかな?
スカトロって、どういう意味で使っているんですか。一般的に通用しないと思いますが。
5日間で1000球投げるのは「思いきり野球をする」の域を超えていると思いますが。
少年野球から野球をずっと続けてきた子どもが「高校で潰れてもいいや」と思うと思います?
聞いてみましたか?
むちゃくちゃですね。無責任な意見だと思います。
データなんて要らないでしょう。
広尾様が「大野倫」て名前を出してくる時点で一般的な野球ファン(多数派)と感覚がずれてます。僕はそんな選手知りません。どこのチームの選手か知りませんが今日開催されてるプロ野球の球場で「大野倫」って選手知ってますか?って聞いても半分以上の人は知らないんじゃないですか?
同じ条件で「高校での投げすぎが原因で野球人生を駄目にした選手知ってますか?」(ただの「肩、肘壊した選手」じゃないですよ)って聞いても9割以上の人が名前出てこないと思ってます。
あと小学生の投げすぎは議論してません。
スマホの電池がないので、次の返答は後程します。
硬式、特に甲子園に出場するチームの選手であればプロを目指している人もいるでしょうが、
高校野球で軟式を選択している時点でプロを目指している選手ってどれほどいるのでしょうか?
それこそ少年野球から野球をずっと続けてきた子供が本気で野球をする最後のゲームだ
くらい思っても不思議じゃない気がします。
とうしろうで、ここまで話を引っ張んたんですか。野球ファンでも何でもないじゃないですか。そのうえで赤の他人をスカトロ呼ばわりするとは。で食い逃げですか。
匿名だと思ってやりたい放題ですね。
だとしても、指導者が「これで投げられなくなってもいいよな!」と言っても良いとは思えません。そう思う子供を押しとどめる義務があると思います。
もう一度紹介しますが、学生野球憲章にはこういう条項があります。
⑥ 学生野球は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する。
プロ野球まで視野に入る硬式野球の場合、通過点である高校野球の酷使で
子供の将来をつぶしていいのか?というのは非常に疑問に思います。
論点がずれるのですが、軟式野球の場合今回の話題が無ければ全国大会を
やっていたことすら話題にならないっていうのは残念ですね。
おっしゃる通りです。準決勝は大騒ぎしましたが、決勝は詳細を伝えているメディアは皆無でした。
を責めているのだ。そうすると、これらの言葉を使って責めている人は、当事者でも指導者でもない、第三者ということになりますね。
しかしながら野球ファンとして当事者意識を持って考えよとも仰る。少々都合が良いのではないでしょうか。
当事者意識を持って考えるのならば、今までそれを止める有効な手段をうてずに現在「残酷ショー」をさせているのも、「犬死」「無駄死」の上に現在の繁栄を生きている全ての日本人も、当事者でありその責任を負うべきではないですか。
責任は我関せずで一人だけ高みに登ったつもりの裸の王様だから批判されるのではないでしょうか。
当たり前の話として、ある事件についての批評は第三者が行います。
当事者意識を持てというのは、この場合、当事者になれと言うことではなく、当事者の気持ちになって考えよと言うことです。
当事者の気持ちを忖度したからと言って、当事者と同じ責任が発生するとはむちゃくちゃな話です。
私は高校生が5日で1000球投げたことについて、何ら責任はありません。
そんなこと言い出したら、日本人が何か事件を起したら、日本中が反省しなくてはならないことになる。そんな無限の連帯責任なんてあり得ない。
批判もたくさんうけますが、あなたのような荒唐無稽な批判ではないです。
そうだとするなら、最早いまの高校野球はその範疇を逸脱していると思います。部活動が教育的観点から行われているものならば、故障のリスクをリスクを犯してまで行うものではないと思います。(もちろんスポーツなので、不慮の怪我や予期せぬ故障もあります)
これが高校野球最後の試合だから、これが自分にとっては最も大事な試合だから、という意志をもって続投や連投を志願する子供がいるのならば、それを思い止まらせるよう諭すのが大人の役割であって、教育だと思います。
この問題は子供がどうしたいからではなく、大人がどうすれは次のステージへ健全な状態で子供を送り出せるかを考えることが重要だと思います。(その子の次のステージが野球ではなく、一般社会人などの別の道であったとしたも)
まさにおっしゃる通り。我が意を得たりと言う感あり。
本題に戻ると、先日も述べたとおり、「高校野球」に関わる問題は、それが「高校野球」だから発生するのですから、解体もしくはそれに近い抜本的な改革以外に解消の方法はありません。各論でどうこうできるものではありません。もう一度言いますが、「高校野球」はその本質的な部分で、幼稚園のお遊戯会と変わるところがありません。そう考える事ができれば、改革も進むのではないですかね。
そんな原罪みたいな大きなもの背負ったら、ものなんかいえません。
あなたは背負っているんでしょうか。私がこのようなブログを書いていることの「罪」まで一緒に被っていただいているんでしょうか?だとすれば大きなお世話ですが。
一部の問題をすべて「体質」の問題に帰するのは、一種の思考停止でしょう。
「高校野球」と「幼稚園のお遊戯」が一緒のだというのは、誰にでも言えることですが、何も言っていないのと同じです。
抜本的な改革は必要だともいますが、あなたと同列に語っていただきたくないと思います。
具体的なことを調べたりしなくても言える、もっともらしいご意見ですが、何も言っていないのと同じです。
それ以外の方法で書けない。
そうしないと、あなたみたいな結果的に何も言っていない無内容な文章しか書けないと思うから。
書くと言うことは、今いる視点から、手に入る事実や資料を基に、思うことを書くこと。
すべての視点を手に入れることはできないし、あらゆるファクターを入手することもできないから、必然的に「つまみ食い」になる。だから批判もされる。それでいいと思うし、それを恐れては書けない。
「つまみ食い」でけっこう。都合の良いことで結構。間違っているとは思わない。
『ただ「スカトロマニア的なコアな人達」ってのは、侮辱になってないですね。スカトロはある意味褒め言葉ですしね』
といくら言っても
『そのうえで赤の他人をスカトロ呼ばわりするとは。』で締めたら台無しになっちゃいますよ。
最終的にこうなるから「侮辱の言葉を使ってはいけないよ♪」って言ってるんです。
『とうしろうで、ここまで話を引っ張んたんですか。野球ファンでも何でもないじゃないですか。』
↑
言ってることが良くわかりませんが、僕は一般的な野球ファンです。おそらく他の野球ファンも99.99%素人でしょう。
『スカトロって、どういう意味で使っているんですか。』
↑
『はは、侮辱の言葉事態に反応しなくても本質を理解しようとすればいいのさ。』的なことをいうので敢えて使ってみただけです。
「スカトロマニア」=「好きすぎて一般的な理解を超えちゃった所までいっちゃた人」て意味で使ったんですけど、たぶん一般の人には似たようなニュアンスで通じてます。
続く-
・侮辱の意味ととられる言葉を使って何かを主張しても、ちゃんと伝わらない。本質をちゃんと書いたほうがいいよ♪
・「投げすぎ問題」のリスクは一般人の価値感ではあまり不幸なこととは思われていないし、まれに起こる事象だと思われているので選手の意識が最優先という感じ。(最近ではメジャーも管理しても怪我人多いじゃんという認識が広まってる気がする)
・この様な主張をする「深い野球マニアの人達」は「深い野球マニア」であるからこの結論に達したという意識が薄い。(大多数のとうしろう的野球ファンの感覚を理解していない)
・高校野球の興行主や指導者は「大多数のとうしろう的野球ファン」の感覚にあわせるので「深い野球マニアの人達」の意見はあまり用がない。
・一部の「深い野球マニアの人達」は「大多数のとうしろう的野球ファン」に理解してもらおうという意識が低いので、多数派の意見として広がらない。
なので、何年も抜本的な対策は立てられないって感じです。
もういいですわ。
大野倫知らない時点で、このサイトでは無理です。議論にも何もならないじゃないですか。
99%が知らないと言うのは全く事実誤認です。
話にならないし、一般的な野球ファンとは全くずれていると思います。
何も知らない人から見たらこう感じる、こう思うと言う意見には全く興味がないし、つまらない。
知らない事が多すぎると、まともな判断はできないはずです。
なぜ発言しているのかもわからない。
お互いに無駄なことは止めましょう。
当サイトでは、いろいろなことを知っている人が、知識や情報を持ち寄って、議論を深めたいと思っています。
スカトロでもなんでもけっこうですが、それにさえなれない人は、申し訳ないけどお相手できません悪しからず。
「深いマニア」故に、投げ過ぎの負の側面の情報をより多く有しているからこその広尾さんの提言に対して、無知でかつ勝手に否定的バイアスを掛けて読み解こうとしないから議論が絶望的に噛み合わない。せめて何故「残酷」と形容するのだろう?という共感の好奇心を持つべきなのに、と思います。
あと蛇足ですが、ここで言及される「とうしろ」とは「議論のとうしろ」という意味と個人的に解釈してます。
自己の考えを主張する上で、主張する内容の知識や情報、果てはバックボーンまでをすべて網羅しないといけないというのなら、誰も何も話せなく(書けなく)なります。
(もちろん主張しようとする内容に対して、自己の見識を高める自助努力は必要ですが)
別のかたのコメントには、一般的な野球ファンの考えを代弁するかのような表現がありましたが、推測で他者の考えを論ずるのは危険な行為だと私は思っています。
(私も一般的な野球ファンではありますが、このコメントをされたかたとは全く違う考えです)
議論をする上で「他の人も同じ意見だから」という論調はナンセンスだと思います。
また、資料や数字に基づいて主張を展開することも、相手を納得させるためには必要です。それらが伴わない感覚論はあくまで自己満足的な主張であって、説得力に欠けるため相手の主張を覆すには至らないと思います。
各コメント主と広尾氏のやりとりの中でのことなので、本来は口を挟むべきところではないと思いましたが、気になってしまったので。不快にさせてしまったら申し訳ありません。
ちょっと驚いたのは(病院に行っていない)とか。
(軟式とはいえ)現場の健康管理に関する意識は皆無なんでしょうか。
本エントリにも「本人が希望したのだからよいではないか」とコメントされてる方が見受けられますが、ぜひ一度松井君(中京高)のインタビュー記事に目を通してみてもらいたい。
『延長50回の伝説、高校軟式野球の怪物・松井大河君に独占ロングインタビュー「途中、記憶もなくて……」ノーカット完全収録!』(2014/9/7 週プレNEWS)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140907-00035498-playboyz-base
周囲からの注目と期待。厳しい練習を乗り越えてきた仲間との関係。指導者からの信頼。もうすぐ手が届きそうな栄冠。--こういう状況に置かれて一体、どれだけの人間が「投げられません」と言えるだろうか?
選手目線で考えると「あそこでもっと投げとけば良かった」という後悔と「(故障により)もう野球ができなくなってしまった」という後悔、どちらを取るか、という話になるんでしょうか?
個人的にはこの辺の「感情」の議論は不毛だと思いますし「子供の健康を守るため」に「ルールとして球数制限を導入するべきか」という話の方が建設的だと思うのですが・・・(球数制限の有効性の議論がもっと活発化してほしいです)。
以下、余談です。
例によって草野球レベルの話で恐縮ですが。
草野球で知り合った人の話です。
その人は高校の野球部で肩を壊しまして、それから20数年野球から離れて生活していたんですね。
ところがある日、草野球してる人達を見て「俺このままじいさんになっていくの嫌や。また野球がしたい」と思って涙が出てきて、そのまま目の前のチームに「仲間に入れてください」と話をしに行ったと。
この話を聞いて「人生で最後の試合」なんてもんは存在しないんだなと思いました。野球は続けたければいくらでも続けられます(ただ一方で「草野球じゃ満足できなかった。自分の野球人生はもう終わった」という元高校球児にも会ったことがありますが・・・)。
批判される人は主張の説明が下手なうえに侮辱の言葉を使ってるから批判されてるんですよ。
説明が上手い人は侮辱の意味を持つ言葉を使いません。
「共感の好奇心を持つべきなのに」ってのが多数派の意見として広がらない原因です。
批判にさらされる方々は「残酷ショー」の言葉を使うのに都合よい部分をつまみ食いしているように批判する側からは読めてしまうのです。
推測で他者の考えを論ずるのはいいと思いますよ。そこを考えないとその主張がなぜ他の人に広まらないのかわかりませんから。
あと僕が主張したのは、一般的な野球ファンの多数派を占めてる人たちの考えです。
自己満足を主張するのはいいと思いますけど、そこに侮辱の言葉がはいるから批判が多くなるのだと思います。
症状(異変)が出てなくても病院行くものなんですか?
主張が良くわかりませんが、どれだけの人間が「投げられません」といえるかは、本人に聞いてみなければわかりません。
どうしても投げたくなかったら、わざと打たれるとか、フォアボール連発とかするんじゃないですか?
どうしても投げざるおえなくなったら「わざと打たれるとか、フォアボール連発しなさい」ってことを広めていけばすれば投げすぎ問題も減るんじゃないかと思いますけど。
投球数のルールを決めるよりハードルは低そうですし。
侮辱の言葉を使ってるからだと思いますよ。尾木さん本人も認めてるでしょ?
選手の「感情」を無視することは問題だと思っている人が沢山いるのだから不毛と片付けるのは無理があります。
余談の方ですけど、出て来る人たちは試合での投げすぎが原因で肩を壊したのですか?
練習方法が問題で肩を壊したなら指導方法を問題にしたほうがいいのではないでしょうか。
(僕のイメージでは試合で連投するより、普段の練習の方が過酷そうな気がするんですけど)
すいませんが、一旦プロテクトします。私のサイトですので、不適切と判断します。
議論の質を鑑みますと、ブロックされるのがベストな対応方法だと自分も思います。適切なご対応有り難うございました。
コミュニケーションが成立していないので。
ある意味このエントリにふさわしい方が釣れたとも言えるかもしれませんがw