今から思っても、大阪球場ほど、好立地のスタジアムはなかったのではないかと思う。後楽園や東京ドームも駅近だが、大繁華街と言うわけではない。大阪球場は大阪一の盛り場のど真ん中にあったのだ。
1950年9月の開場。だから甲子園や西宮球場、後楽園などと比べても歴史は浅い。
関西では待望の最新の球場だった。ベースボール・マガジンに載った完成予想図。

この年は2リーグ分立があった。セ・パ両リーグは円満に分立したのではなく、けんか別れで互いにいがみ合っていた。パの球団は西宮を主に使っていたが、大都市大阪に本拠地ができることで、セに対して有利になると言われた。セ・パの仲が少し良くなってからは、阪神も良く主催試合をした。
1957年くらいまではセ・パで大きな人気の差はなかった。南海、西鉄戦の大盛況ぶり。南海ホークス四十年史から。

このころ、バックネット裏の特別席へは、案内嬢が案内してくれた。ビールや食べ物も頼めば買ってくれた。日系ハワイ人選手のカールトン半田はこの案内嬢の一人と結婚したようだ。
なんといっても「すり鉢型」と言われた急こう配の観客席が特徴。敷地が狭かったからだろうが、上の方に座ると見晴らしがよかった。
周辺はオフィスビルや商業施設。みんなが働いているときに野球を見るのはちょっとした優越感。
今ある球場ではハマスタが近いかもしれない。南海ホークス四十年史から。

足しげく通ったが、写真はほとんど撮ったことがない。南海電鉄がクライアントだったので、こういう広告原稿は持っているが。

大阪球場はもう少しふれたい。
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コメント
コメント一覧
なんとか運動公園の中にあって周囲に広大な敷地があったり、甲子園やヤンキースタジアムの様に外野席が巨大で外が見えなかったりする球場はちょっとマイナスです。
家が近かったので、’70年~’75年頃よく行きました。当時は黒い霧事件直後のパリーグどん底時代で、小学生は無料券が日常的に配布されてましたし「ホークス子供の会」に入ると年間15回無料で観戦できました。
’73年ペナントレース大詰めの対ロッテ3連戦での超満員は忘れられないし、阪神ー南海のオープン戦でヤジってたら江夏選手に怒られたのも懐かしい思い出です。
球場の入り口にタダ券が積んであって、近所の喫茶店の子どもに頼んだら、何枚でも持ってきてくれました。
それです!その券をもらって入場したのをついこの前のように覚えています。
それにしても大阪球場の思い出は尽きることはありません。
勿論、野村、ジョーンズ、門田、江本他の南海の選手は言うまでも無く、サードコーチャーズボックスで名物の「カネヤン体操」をいつもしていたロッテの金田監督、近鉄の「草根」鈴木啓示投手、晩年の稲尾投手、黄金期の阪急の名選手たち特に僕が江夏よりも堀内、外木場よりも速いと感じた山口高志投手、オープン戦で見た巨人、阪神の選手たち。
うわっ書いていて涙が・・・。
いつだったか、南海-巨人のオープン戦で王選手が打席に入ると大人も子供も外野席の客は全員ライトスタンドに走って移動し彼のホームランを待ち受けた事も。今でもこんな事あるんだろうか?
7回裏の球団歌、試合終了後のニニ・ロッソのトランペットと音楽も良かった。
今でも大事にしているのは「ホークス子供の会」入会特典の「野村克也19門田博光27島本講平8」のサイン入り鉛筆3本セット。
もったいなくてとても使えず45年たった今でも新品のまま手元にあります。
パリーグの人気復活がもう少し早ければ今でも球場はあったかも知れませんね。残念ですが仕方ありません。でも、あの素晴らしい日々の記憶を呼び起こす記事を書いていただいて感謝します。
実は今日、戦時中の1トン爆弾の不発弾処理のため午前中はなんばパークスはお休みだったんですよ。
あした近所まで行って思い出に浸ってみようかな、と思います。
館内の古本屋とか、卓球場とか、土井勝お料理教室とか、なつかしい!
スケート場もありましたよね!
それにしても小倉、平和台、東京、川崎と懐かしい球場はどんどん無くなりさびしいです。
次の球跡めぐりも楽しみにしています。