永年近鉄バファローズの本拠地だったが、この球場に行ったことがない人も多いのではないか。
1928年、大阪鉄道、今の近畿日本鉄道が建築。近鉄と言う会社は、何事につけても阪急、阪神、南海の後追いをすることが多いが、この球場も甲子園の繁盛を聞いて建築されたと言われる。
しかし大阪市からは電車で20分以上かかる。何せ大和川の向こうにあり、田舎と言うイメージが強かった。
最後まで近鉄の本拠地と言うことになっていたが、主催試合は少なかった。
私が子どもの頃は、外野はベンチがなく土手だったと記憶している。
高校野球の予選で何度も来たが、照明設備の鉄骨だけがそびえていたのが印象的。
周辺の反対運動にあって、1984年までナイターができなかったのだ。
近鉄バファローズは、少なくとも南大阪線では周辺住民に歓迎されざるプロ野球チームだったのだ。
Wikipediaの航空写真。

上が近鉄線。駅は右手にあった。外野スタンドが小さかった。勾配は比較的急だったように思う。
私の思い出の中では、とにかく「暑かった」ということしかない。高校野球の応援で、かんかん照りのなかで、声を張り上げて気が遠くなったのを覚えている。
近鉄の試合は、ほとんど日生球場で見た。二軍戦しか見たことがなかったように思う。
今、この球場も跡形もない。
藤井寺駅を降りてすぐ。

跡地には四天王寺学園小学校が建っている。カメラを振り回してうろうろしていては、不審者扱いされそうな雰囲気だ。

学校入口左手にモニュメント。

野球帽をかぶった子供のブロンズ像。
台座でようやくバファローズの顕彰物だとわかる。

よそよそしいコメントが刻まれている。

今も近鉄電車がすぐそばを走っているが、近鉄はこの地にプロ野球のかりそめの本拠地があったことを忘れたいと思っているかのようだ。

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クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。
武上四郎、全本塁打一覧|本塁打大全
広尾晃、3冊目の本が出ました。


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高校野球の予選で何度も来たが、照明設備の鉄骨だけがそびえていたのが印象的。
周辺の反対運動にあって、1984年までナイターができなかったのだ。
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上が近鉄線。駅は右手にあった。外野スタンドが小さかった。勾配は比較的急だったように思う。
私の思い出の中では、とにかく「暑かった」ということしかない。高校野球の応援で、かんかん照りのなかで、声を張り上げて気が遠くなったのを覚えている。
近鉄の試合は、ほとんど日生球場で見た。二軍戦しか見たことがなかったように思う。
今、この球場も跡形もない。
藤井寺駅を降りてすぐ。

跡地には四天王寺学園小学校が建っている。カメラを振り回してうろうろしていては、不審者扱いされそうな雰囲気だ。

学校入口左手にモニュメント。

野球帽をかぶった子供のブロンズ像。
台座でようやくバファローズの顕彰物だとわかる。

よそよそしいコメントが刻まれている。

今も近鉄電車がすぐそばを走っているが、近鉄はこの地にプロ野球のかりそめの本拠地があったことを忘れたいと思っているかのようだ。

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コメント
コメント一覧
日生球場がサブになっていました。
(そもそも日生って何?地名?という感覚でした。関東では)
ニュースや中継で見ても、ほんとに空いてましたね。
時刻表で見ても、なんでこんな大阪中心部から離れた所で
やってんだろと不思議に思ってました。
あと、応援が楽器禁止なのも特徴的でした。
南海が移転してからは大阪球場で近鉄が主催試合してましたが
なんとかして大阪都心部でやりたかったんでしょうね。
そうそう、このやる気のなさげなモニュメント(笑)。
私がこれを探して訪問した折は、ちょうど学校の校門付近で工事が行われており、工事のフェンスで駅側からモニュメントが死角になっていたのです。おかげで探すのに苦労しました。
ちなみにこの像の名は『白球の夢』というのですが、夢を求めてMLBへの道を切り拓き、NPBに「開国」という激動をもたらしたのが、近鉄出身の野茂英雄だというのは何とも皮肉な気がします。
パセリさんも仰るように、周囲が住宅地であり、鳴り物が禁止されていたので、子供心に野次が丸聞こえだったことをよく憶えています。特に清原への「お前は過保護のキ~ヨハラ」という野次は、今日の彼の「惨状」を考えれば、的を射ていたのかもしれません。
そのころはまだ、照明は工事途中のまま長年放置状態で、鉄塔だけが立っていました。逆に当時は、鳴物応援OKだったんですよね。よく南海の応援団のとこに座って、一緒になって野次飛ばしてました。
その南海の、大阪での最後の試合は、あの大阪球場の別れの翌日の、ここでした。この試合の方が、感傷的になってしまいましたね…。
色々と思い出深い球場です。
この球場で、二日酔いでトイレに行ったアナウンサーの代わりに豊田泰光さんが十数分間、1人で実況中継をしたというエピソードがあります。
球場の由縁が、甲子園の後追いと言う話を聞いて、球場の構造が東洋一と謳われた先方に比べて、「虎を描いたつもりが犬になってしまった」感がある。
今となっては、ここに球場があった事はモニュメントが無いとすぐには気付かないけど、甲子園のモデルになったとされる「マグローの家」ポロ・グラウンズも今は跡形もないし・・・
いずこも同じ諸行無常。
近所に住んでいたのでよく観に行きました。99年の一軍最終戦で盛田幸妃が脳腫瘍からの復活登板を果たしたことが思い出深いです。
オリックスの岩下修一が二軍での復活登板を果たしたのもこの球場でした。夕方の情報番組で特集されていたこともあり二軍戦にしては入りが良かったように思います。内野にしか客がいないのに万雷の拍手は盛田の時に負けていなかったように思います。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_march/KFullNormal20080305158.html
「無かったこと」にするには惜しいです。