野球漫画論のトップバッターは、ちばあきお「キャプテン」。イチローがプロ入りの時に寮に全巻揃えて持ち込んだといわれる漫画だ。
1972年に当時少年コミック誌の新興勢力だった「月刊少年ジャンプ」に掲載され、爆発的な人気を博した。
「少年ジャンプ」をメジャーに押し上げたコンテンツの一つだ。
■作者
ちばあきお(1943-1984)。ちばてつやの4歳年下の弟。満州生まれ。兄のアシスタントを経て、読み切り漫画でデビューするが、この漫画が出世作だった。
ちばあきおが自ら命を絶ったのは1984年、今もそのニュースに接したショックがうっすらと記憶にある。ちばあきおは「キャプテン」とそのスピンアウトともいえる「プレイボール」の2作を残して、わずか12年で消えていったのだ。
■設定
世界:中学野球
軟式か硬式かは不明だが、高校野球同様、中学野球にも新聞社主催(と思われる)の全国大会があって、全国的な人気を博しているという設定。
高校野球同様、選抜大会と予選から勝ち上がる夏の大会がある。
日本の少年野球漫画(他の国にはほとんどないだろうが)の最大の特徴は、「リアルな少年野球、アマチュア野球とは別物だ」ということだ。
「キャプテン」はその代表格といえよう。
この漫画には「大人の指導者」はほとんど出てこない。
リアルな野球では、大人の指導者がいて、子供たちはその指導の下、練習をし、試合に出る。指導者の権力は絶対的である。
しかし、野球漫画の世界では、主人公たる野球少年が自分たちで考えて練習をする。試合でも指導者に従うことは少ない。「キャプテン」の墨谷二中には、もとから「指導者」がいない。キャプテンがチームを指導し、試合でも指揮を執っている。
墨谷二中の最大のライバルである青葉学院には、部長(監督と呼ばれる時もある)がいて、選手を指導しているが、他の学校にもほとんど指導者がいない。
この漫画の中学野球では「指導者がいてもいなくても構わない」設定らしい。
これは、この漫画が大人気になった大きな要素だと思う。子供から大人への過渡期にある中学生にとって、「自分たちの力で大きなことを成し遂げる」のは、胸が熱くなるような憧れだったと思われる。
青葉学院を破って全国優勝をした墨谷二中には、新聞記者が取材にやってくる。そしてキャプテンに「どうかね、調子は」と聞いてくるのだ。新聞記者は中学生のキャプテンを子ども扱いしない。一人前の取材対象として遇している。
このことが、多感な中学生の自尊心をくすぐったのだと思う。

■リアリティ
「キャプテン」のトレーニングや技術論は、リアルな野球のそれとはかなり違っている。
この漫画では、打者が一列に並んで近距離から野手にそろってノックをするシーンがたびたび出てくるが、こういう練習は実際にはほとんどないだろう。
エースの球を数球打たせるだけで、選手を選抜するのも、ふつうは考えられない。
ちばあきおの学歴は、夜間高校中退であり、実際の少年野球や高校野球に接したことはほとんどなかったのではないかと思われる。そして取材もしていないように思える。
おそらくは草野球レベルの経験に基づいて、作者が頭の中で描いた作品ではないかと思われる。
そういう意味では、完全な「虚構の世界」だ。
しかしながら、この漫画に、プロをはじめ、多くの野球選手が強く惹きつけられるのは、日本の野球の根底に強く横たわっている「忍耐」「鍛錬」を強烈に描いているからだろう。
墨谷二中は、公立校であり、設備も恵まれていない。また選手も小柄で素質も劣る。
充実した設備を誇り、全国から選手が集う青葉学院とは、素材的にも環境的にも大きく見劣りがする。
墨谷二中の4代のキャプテンは、このギャップを埋めるために、猛練習をする。
そこにあるのは「超人的な練習をすることで、選手は必ず強くなる」という信仰だ。
学生野球の父、飛田穂州は、「過酷な練習が選手を作る」という信念を持っていたが、「キャプテン」は、まさにこの飛田イズムに貫かれている。
選手たちは早朝、昼休み、放課後、夜と、使える時間をすべて使って練習をするのだ。
そして猛練習は必ず成功につながっている。選手を裏切ることはない。
「キャプテン」の世界では超人的な選手は登場しない。資質の差異は当然あるにしても、選手はみな「等身大」だ。
彼らは体力作りから技術の鍛錬までを、一つ一つ段階を踏んで昇っていく。天才的なひらめきや、偶然の産物はほとんど排除される。
「やるべきことを段階を踏んできちっと、しかも猛烈にやる」こと以外に成功への道はない。
イチローは、子供たちに
「出された宿題をきっちりとやってください」
とアドバイスしたことがある。まさに「やるべきことをきちっとやる」ことの重要性を説いたのだ。イチローがこの漫画を座右の銘にしているのは、理解できる。
さらに「キャプテン」に横たわっているのは「勝利至上主義」と「エリート主義」だ。
墨谷二中は「必勝」を期して猛烈に努力する。そして試合でも驚異的な粘りを見せる。
必勝主義が過激すぎるあまり、二代目キャプテン丸井の代では選手が消耗してしまい、次の試合で棄権せざるを得なくなったことさえある。
また代々のキャプテンは、シビアにレギュラーを選別する。ふるい落とされた選手たちは、早々に野球部を去る。このことも肯定的に描かれている。
こうした部分は、まさに「日本野球」の神髄といってもよい。ちばあきおは、野球経験はなかったが、戦中に生まれ、昭和の時代を生きた日本人として、こうした「価値観」「野球観」を持っていたのだ。
素朴な絵は、日本人が大好きな「ひたむきさ」「まじめさ」を描くうえで最適だったといえよう。
探せばアラや矛盾点は無数にあるが、この漫画が時代を超えて圧倒的に支持されているのは、こうした「日本野球のリアリティ」によるところが大きい。
ただし「キャプテン」では、そうした「日本野球」を強制されるのではなく、少年たちが主体的に選択している。そのことは非常に大きい。
以下、登場人物について触れる。
読者各位のご意見、ご感想をお待ちする。
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東田正義、全本塁打一覧|本塁打大全
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「少年ジャンプ」をメジャーに押し上げたコンテンツの一つだ。
■作者
ちばあきお(1943-1984)。ちばてつやの4歳年下の弟。満州生まれ。兄のアシスタントを経て、読み切り漫画でデビューするが、この漫画が出世作だった。
ちばあきおが自ら命を絶ったのは1984年、今もそのニュースに接したショックがうっすらと記憶にある。ちばあきおは「キャプテン」とそのスピンアウトともいえる「プレイボール」の2作を残して、わずか12年で消えていったのだ。
■設定
世界:中学野球
軟式か硬式かは不明だが、高校野球同様、中学野球にも新聞社主催(と思われる)の全国大会があって、全国的な人気を博しているという設定。
高校野球同様、選抜大会と予選から勝ち上がる夏の大会がある。
日本の少年野球漫画(他の国にはほとんどないだろうが)の最大の特徴は、「リアルな少年野球、アマチュア野球とは別物だ」ということだ。
「キャプテン」はその代表格といえよう。
この漫画には「大人の指導者」はほとんど出てこない。
リアルな野球では、大人の指導者がいて、子供たちはその指導の下、練習をし、試合に出る。指導者の権力は絶対的である。
しかし、野球漫画の世界では、主人公たる野球少年が自分たちで考えて練習をする。試合でも指導者に従うことは少ない。「キャプテン」の墨谷二中には、もとから「指導者」がいない。キャプテンがチームを指導し、試合でも指揮を執っている。
墨谷二中の最大のライバルである青葉学院には、部長(監督と呼ばれる時もある)がいて、選手を指導しているが、他の学校にもほとんど指導者がいない。
この漫画の中学野球では「指導者がいてもいなくても構わない」設定らしい。
これは、この漫画が大人気になった大きな要素だと思う。子供から大人への過渡期にある中学生にとって、「自分たちの力で大きなことを成し遂げる」のは、胸が熱くなるような憧れだったと思われる。
青葉学院を破って全国優勝をした墨谷二中には、新聞記者が取材にやってくる。そしてキャプテンに「どうかね、調子は」と聞いてくるのだ。新聞記者は中学生のキャプテンを子ども扱いしない。一人前の取材対象として遇している。
このことが、多感な中学生の自尊心をくすぐったのだと思う。

■リアリティ
「キャプテン」のトレーニングや技術論は、リアルな野球のそれとはかなり違っている。
この漫画では、打者が一列に並んで近距離から野手にそろってノックをするシーンがたびたび出てくるが、こういう練習は実際にはほとんどないだろう。
エースの球を数球打たせるだけで、選手を選抜するのも、ふつうは考えられない。
ちばあきおの学歴は、夜間高校中退であり、実際の少年野球や高校野球に接したことはほとんどなかったのではないかと思われる。そして取材もしていないように思える。
おそらくは草野球レベルの経験に基づいて、作者が頭の中で描いた作品ではないかと思われる。
そういう意味では、完全な「虚構の世界」だ。
しかしながら、この漫画に、プロをはじめ、多くの野球選手が強く惹きつけられるのは、日本の野球の根底に強く横たわっている「忍耐」「鍛錬」を強烈に描いているからだろう。
墨谷二中は、公立校であり、設備も恵まれていない。また選手も小柄で素質も劣る。
充実した設備を誇り、全国から選手が集う青葉学院とは、素材的にも環境的にも大きく見劣りがする。
墨谷二中の4代のキャプテンは、このギャップを埋めるために、猛練習をする。
そこにあるのは「超人的な練習をすることで、選手は必ず強くなる」という信仰だ。
学生野球の父、飛田穂州は、「過酷な練習が選手を作る」という信念を持っていたが、「キャプテン」は、まさにこの飛田イズムに貫かれている。
選手たちは早朝、昼休み、放課後、夜と、使える時間をすべて使って練習をするのだ。
そして猛練習は必ず成功につながっている。選手を裏切ることはない。
「キャプテン」の世界では超人的な選手は登場しない。資質の差異は当然あるにしても、選手はみな「等身大」だ。
彼らは体力作りから技術の鍛錬までを、一つ一つ段階を踏んで昇っていく。天才的なひらめきや、偶然の産物はほとんど排除される。
「やるべきことを段階を踏んできちっと、しかも猛烈にやる」こと以外に成功への道はない。
イチローは、子供たちに
「出された宿題をきっちりとやってください」
とアドバイスしたことがある。まさに「やるべきことをきちっとやる」ことの重要性を説いたのだ。イチローがこの漫画を座右の銘にしているのは、理解できる。
さらに「キャプテン」に横たわっているのは「勝利至上主義」と「エリート主義」だ。
墨谷二中は「必勝」を期して猛烈に努力する。そして試合でも驚異的な粘りを見せる。
必勝主義が過激すぎるあまり、二代目キャプテン丸井の代では選手が消耗してしまい、次の試合で棄権せざるを得なくなったことさえある。
また代々のキャプテンは、シビアにレギュラーを選別する。ふるい落とされた選手たちは、早々に野球部を去る。このことも肯定的に描かれている。
こうした部分は、まさに「日本野球」の神髄といってもよい。ちばあきおは、野球経験はなかったが、戦中に生まれ、昭和の時代を生きた日本人として、こうした「価値観」「野球観」を持っていたのだ。
素朴な絵は、日本人が大好きな「ひたむきさ」「まじめさ」を描くうえで最適だったといえよう。
探せばアラや矛盾点は無数にあるが、この漫画が時代を超えて圧倒的に支持されているのは、こうした「日本野球のリアリティ」によるところが大きい。
ただし「キャプテン」では、そうした「日本野球」を強制されるのではなく、少年たちが主体的に選択している。そのことは非常に大きい。
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大学に入ったあと、公立校の弱小野球部出身の学生は、監督のいないところで「至近ノック」をしたとみな言うのを聞きました。
私はスポーツマンではなかったのですが、キャプテンの根性論に感化され、大学受験前には「東大の数学を規定時間の7割で解答する」という「至近ノック」をやったものです。
あと、イガラシと丸井が混ざって「今井」になってます。
すいませんでした。
週刊の分、「プレイボール」の方が印象深いですが、スピンアウトだったのですね。登場人物の顔が似ていて、区別のために途中から鼻が黒くなった人がいたように記憶しています。ノックやタイヤを引くといった特訓シーンが印象的です。あとカーブの曲がりが「ククッ」と表現されていましたね。
漫画はもちろん全巻読みましたが、子供の頃はアニメも観ました。
アニメはオープニングとエンディングの歌がおじさんで、あの重圧感がまた「キャプテン」の真面目さを強調していましたね。
「プレイボール」で主人公サイドがバテた投手を休ませるために間を取った時、相手の強豪校の投手が審判に対して「意図的に休ませてるように思うんスが…」とアピールするシーン。
実際の強豪校の選手がそんなアピールをするかなんて知りゃしないんですが(多分しない)、「なるほど、強豪の選手はアピールまでこなれてるんだな」と納得させられる「リアリズム」がありました。
あの時代の漫画ってフォークが魔球じみた扱いなのが面白いですね。男どアホウ甲子園とかでもそうでしたが。
>「キャプテン」に横たわっているのは「勝利至上主義」と「エリート主義」だ。
これは指摘されるまで気が付きませんでした。青葉=エリート、墨谷=雑草
で、雑草集団がエリート集団に勝っていく、と思っていましたが、指摘されると
なるほどですね。
シニアリーグのチームに所属していた時代に、練習でエラーが続くとマジに近距離ノックを受けさせられたので、あの恐怖感「わかるわ~」って見てました。
いずれ「プレイボール」も取り上げてもらえるのかもしれませんが、個人的には「キャプテン」よりもリアリティがあるような気がして好きでした。
あの変化球の表現方法はすごいリアルな感じがして好きでした。
あの表現方法で描いたのはちばあきおが初めてな気がするのですが、少しずつ変化しているとはいえ今も使われていると思うと改めてすごいですし、谷口の高校3年生と大学時代を読みたかったです。
と、いうことは「努力、友情、勝利」の3つが揃っている作品にならない訳がありません。
私は所謂ジャンプ黄金期の読者なのですが、ジャンプで野球漫画でヒットしたのは殆ど無かったように思えます。
もしかしたらこれが最大のヒットかもしれません。
何故ハマったのか。
二軍以下の補欠から特訓により全国トップレベルの実力に成長するスーパーマン。
ある意味ヒーロー譚なのだろぅ。
そして代々引き継がれる主将サーガ。
魔球を排除した世界観に唯一存在した「落ちるシュート」に憧れてしまった。
私が子供のころ、うちの母親は漫画はダメと家庭から締め出していたのですが、「キャプテン」と「プレイボール」だけは率先して買い揃えて母親自身もハマっていました。
母親は野球のルールもよくわからない人ですが、「キャプテン」に高度成長期の成功体験を重ね合わせて共感していたのかも。「プロジェクトX」みたいな。日本人が喜ぶ普遍性があるから、広く支持されたのかもしれないですね。
「キャプテン」は軟式だと思われます。「プレイボール」で谷口が高校の野球部でフリーバッティングした際、ホームラン性の打球を放ち「硬式って飛ぶんですね」とセリフがあります。
スポーツ漫画史は従来のヒット作に対するフォロワーとアンチテーゼの
歴史ともいえますが、両作とも巨人の星に代表される魔球の飛び交う超人野球漫画に
対するリアル志向の作品として生み出されたものでしょうね。
初代主人公の谷口は正真正銘の凡才ですが、秘めた才能の開花すらなく
実力的にはそこそこ止まりのままというのはリアル路線でも非常に珍しいです。
この辺りも実際のプレイヤーに共感されている要因なのかもしれません。
>届かにゃいさん
同じく72年に始まったアストロ球団(こちらは反対に超人トンデモ路線を極めてますね)や
映画化で思わぬヒットを飛ばしたROOKIESなどがありますが
いわゆる黄金期のヒットというと、こせきこうじの2作品
山下たろーくん・やまだたいちくらいでしょうか。
確かに他雑誌に比べると打率・ホームランとも少ない印象です。
少年時代のイガラシが登場する番外編も印象に残っています。野球が下手で、おっとりした性格の主人公が発起人でチームができたものの、あっさり負けてしまう。そこに天才肌のイガラシが加入して強くなるものの、彼の厳しい指導から、チームが楽しくやりたい派と勝たなきゃ駄目派に別れてしまう、というシビアな内容でした。
ちば先生は、あえて、どちらにも肩入れしない描き方で、当時の私たちに考えさせようとしていたのでは?と、今になって思います。
本当に早すぎたお別れでした。とても繊細な方だったと、聞いたことがあります。
アニメ化された「侍ジャイアンツ」がありますよ。
レコードを持っていました。
その時代までは結構野球漫画あったのですね。
まだこち亀も始まる前の時代ですね・・・
侍ジャイアンツは小さい頃よく真似しましたね。ハイジャンプ投法ではよく足首をグネりました。。。
キャプテンそのものからは話がずれますが、これはイチローのこのアドバイスは名言中の名言ですね。もしかすると、子どもの心には響かなかったかも知れませんが、大人になるときっと理解できるはず。
松井秀喜は「努力できることが才能」と言いましたが、プロ野球というエリート中のエリートの世界で傑出した成果を残した人が同じような言葉を発している。この系譜は遡れば王貞治にも通じるはずです。
キャプテンは小学校の道徳の教科書にすべきですね。真面目に。
「タッチ」は野球漫画じゃありませんよ。
あれは達也と南の恋物語です。
そこに野球が絡んでいるだけです。
「フォーシーム」「バトルスタディーズ」「はるかなる甲子園 駆けろ!大空」なども俎上に上げて頂きたいです。
「MAJOR」か「あぶさん」が締めるフィナーレまでに。
一番の主人公、谷口が強豪校の二軍控えから、転校して凄まじい練習をして4番サードになるというのは、日本人が昔から好きな、努力して無理だと思った目標を達成するというサクセスストーリーそのもの。
でも本質は違うところにあると思います。
イチローのルーチンワークではないですが、あの谷口の猛特訓も、毎日の反復練習なわけで、積み重ねの大切さ、継続は力なりということですね。
超一流大学に合格、卒業した人は必ずといっていいほど、毎日の勉強は程よい時間で、かつ反復の積み重ねだというのは、私が見てきた人を見れば共通していたのと同じです。
広尾さんの感想にほぼ同意同感しますが、チョットだけ……
> 墨谷二中の4代のキャプテンは、このギャップを埋めるために、猛練習をする。
近藤は必ずしもそうではなかったですよね。
> また代々のキャプテンは、シビアにレギュラーを選別する。ふるい落とされた選手たちは、早々に野球部を去る。このことも肯定的に描かれている。
イガラシがそうした時、弟が反感の意を表します。また近藤はこのようなやり方を嫌い、牧野から「それでは間に合わない」と怒鳴られても、「人間の能力はそんなに簡単にはわからない」と言い返しています。
作者自身は、どちらかの考え方を肯定しているのではない、と自分は受け取っています。
イガラシキャプテンのもと、全国優勝したところで物語が幕を閉じるのではなく、近藤の代まで描いたところがこの作品の肝ではないでしょうか。
努力は勧めるが、それで体壊しても知らないよという内容のどこが良いのか、大人になった今でも分かりません。
野球漫画の内、侍ジャイアンツは原作では過労のあまり試合中に主人公が心臓発作で死にますが、アニメ版では失神はしたものの生きていてハッピーエンドに終わります。原作者の梶原さんもアニメ版の方を支持しているそうですが、キャプテンのファンからしたら死んでこその名作とか言いそうですね。
このブログを読んだとき、『キャプテン』に大人の指導者が殆ど出てこないのは実世界とかけ離れてるとの指摘に驚きました。
自分が通っていた中学や高校では、部活に先生などの大人は来なかったし、試合も生徒だけで行ってました。うちの学校が特殊だったのかなと思ったのですが、昨日のラジオでブラック部活問題を取り上げてて、昔は部活に先生はいなかったというリスナーの意見も幾つか紹介されてました。
最近は監督責任などの問題もあって、大人がいないとだめみたいで、先生は大変みたいですけど。