毎日、大毎の歴史を調べたことがある。数字を追いかけていくと、1950年代の榎本喜八は、主力選手ではあったが、殿堂入りするような選手とは思われていなかったのではないかと思う。
1955年、18歳で打率.298をマークし、新人王を獲得した榎本だが、以後、成績は低迷する。3割の壁が破れなかった。
この時期に、同い年の葛城隆雄が台頭してくるのだ。
榎本、葛城、そしてチームの絶対的な主軸だった山内和弘の毎日、大毎時代の成績を並べてみた。

榎本は2年目以降、.270前後を打っていた。当時としては悪くない成績だったが、新人王を取ったときの期待に応えているとは言えなかった。
山内は故障した1958年を除き、安定してリーグトップの成績を上げていた。榎本は山内を手本にして、その柔らかな打撃を学ぼうとしたが、数字には表れていなかった。
この時期に同い年の葛城がのしてくる。1958年から2年連続打点王。しかも三割。打撃三冠のタイトルがなかった榎本に差をつけた。
榎本はこの時期にまだ現役だった荒川博の教えを受ける。さらに荒川の紹介で合気道の藤平光一の教えを受けて打撃を開眼する。
この時期の大毎にはこの3人の他に田宮謙次郎、柳田利夫、佐々木信也、矢頭高雄、八田正、坂本文次郎などそうそうたる顔ぶれがいた。
榎本は今から見れば大打者だが、当時はレギュラー争いをする野手の一人だったのだ。
特に葛城は同い年であり、榎本にはない長打があっただけに、ライバル意識があったと思われる。
ただし、葛城は極端に四球が少なく、早打ちで、感覚で打つタイプだった。榎本よりも貢献度が上だったとは言えない。
1964年、山内は小山正明との世紀のトレードで阪神へ、葛城は前田益穂とのトレードで中日に。3人が競り合う時代は終わる。
榎本は以後、首位打者を取るなど主力として8年間プレー、最晩年に西鉄に移籍し、18年のキャリアを終えた。
1966年榎本喜八、全試合一覧
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中
コメント
コメント一覧
しかし、榎本喜八にしても、引退した前田智徳にしても、残した数字が全てではないと思わせる何かを持っているんですよね。
葛城については、全盛期が早く来て衰えも早かったイメージでしたが、榎本喜八を圧倒していた年もありました。
守備難と早打ちが解消出来たら、長嶋・王や山本浩二・衣笠や秋山・清原みたいに、榎本・葛城のライバル的コンビとして有名になったかもしれない。