清原和博の事件が世間に及ぼす影響について考えてみたい。




清原和博には、はるか以前から反社会的な空気がまとわりついていた。
しかし彼は圧倒的な実力者であり、プロ野球、とりわけ巨人では「番長」として他の選手に恐れられていた。
彼がキャンプや試合前の練習などで、格下の選手に冗談交じりにせよ暴力をふるったり、暴言を吐いたことはメディアも報じてきた。

しかしそうした言動は清原和博だけに見られるものではなく、野球界では昔から今まで常に見られたことだった。
強いものが弱いものに威張る体質。年長者が年少者を絶対服従させる体質は、日本の「体育会系」ではふつうにみられることであり、中で最も成功したスポーツである野球には最も色濃く見られた。
強者、上級生がいうことは絶対であり、それに服従するのが当然という風潮があったのだ。

特にチームスポーツに見られるこうした体質は、教育界では早くから指摘されていた。
戦後、スポーツを教育界に再度取り込むときに、その推進者は「スポーツは子供を健全に育てる。正しい子供を作る」と強調した。
しかしながらスポーツ、とりわけチームスポーツは、勝利至上主義に陥りやすい。そのために強者が弱者を圧倒する体質を作りやすい。
強者は理不尽にふるまいがちになり、弱者は陰口をたたくなど卑屈になりがちだ。スポーツを教育に導入するに際しては、こうした陰湿な部分に注意し、過度な勝利至上主義を抑制するべきだ。これは今から60年以上前から指摘されてきた。
しかし、忠告は守られることなく、学校スポーツはあたかも日本とは別の独裁国家のような体制のまま続けられてきたのだ。

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この間、スポーツの国際化が進展するとともに、他国ではスポーツは個々の人間の能力や表現力の発露の場であり、何よりもアスリート本人の主体性、自主性が尊重されることが知られるようになった。
日本でも、オリンピックに出場するアスリートは、次第に「一個の人間」としての自発的な成長を追求するようになった。

野球も同様である。清原和博ら国内のスター選手と、野茂英雄、イチローをはじめとする海外移籍組の差は、極論すれば、既得のヒエラルキー、ステイタスに甘んじて、権益をむさぼるか、それをかなぐり捨てて新たな地で自らの能力の限界に挑むか、の差だった。
もちろん、日本国内とはけた違いの報酬という魅力はあっただろうが、それだけではなく、野球選手の海外挑戦とは「真のアスリート」への脱皮の過程だったといってよい。
野茂英雄、イチローらは、その時点で、中田英寿や浅田真央、錦織圭などと同じカテゴリー=世界的アスリートになったといえよう。

今、「日本人が最も好きなスポーツ選手」のランキングには、世界的アスリートがずらっと並んでいる。それは日本よりも華々しい舞台で活躍しているからではあろうが、同時に、彼らが「ムラ社会日本」のお山の大将であることに甘んじず、勇気をもって世界に挑戦したことへの評価が多分に含まれている。

多くの人々は、日本のスポーツ界の偏狭で頑迷な体質に幻滅を抱いている。それはあたかも、今の閉塞感たっぷりの日本社会の縮図のようである。そこからの脱出を希望する人々にとって、世界的アスリートは、それに成功した「理想像」のように映るのだと思う。

清原の今回のスキャンダルは多くの人々に日本プロ野球の後進性を改めて感じさせた。そしてそれにとどまらず「やっぱり国内スポーツはだめだ」「腐っている」という思いを抱かせた。
多くの人は「日本のスポーツにはジャスティスがない」ことを改めて感じたはずだ。
そのことを重く受け止めるべきである。




清原和博、全試合

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