清原和博の事件について、記者団に聞かれた長嶋茂雄は何も話さなかった。

デイリースポーツ
巨人・長嶋茂雄終身名誉監督が13日、宮崎キャンプを訪れ、覚せい剤所持容疑で逮捕された元プロ野球選手の清原和博容疑者の話題に、無言を貫いた。

長嶋は1997年から2001年まで、巨人で清原和博の上司だった。
一説によれば長嶋は「清原がほしい」と巨人フロントに働きかけたという。
長嶋は二度目の監督就任後、落合博満、広沢克己、川口和久、河野博文など他球団の主力を次々と獲得し、「ほしいほしい病」などと揶揄されていたが、清原は長嶋にとっては相思相愛と言われた選手だった。

巨人入団後の清原は9年間で720安打、185本塁打。期待に応えたとは言い難いが、自分と同じ右の強打者を得たことは、大きな喜びだったに違いない。

しかしながら、清原は巨人時代に裏社会とのつながりを持ち、覚せい剤に手を染めたと言われる。パの球団からNPB一の人気球団に移籍したことで、清原は自我が肥大し、道を踏み外したということか。長嶋茂雄には、清原の異常を見抜いたり、彼を教え諭したりすることはできなかった。

自分が在任中に清原が道を踏み外したとすれば、長嶋にもその責任の一端がある。
宮崎で長嶋が記者団の問いかけに応えず、無言を押し通したのは、そうした悔悟の念もあったに違いない。

P6202068


しかし長嶋の沈黙はそれだけはないと思われる。

プロ野球は1936年、つまり長嶋茂雄の生まれた年にスタートしたが、戦前は大学野球の下風にあった。
アマチュア野球界からはサーカスや大道芸に近いような扱いを受けた。

法政大学のスター選手だった鶴岡一人は、プロ入りを表明したところ、OB会から除名処分を受けた。「神聖な大学野球の伝統を汚す」と言われたのだ。

戦後、進駐軍の支援もあって、プロ野球は大繁栄したが、大学野球を頂点とするアマチュア野球からの蔑視はなかなか収まらなかった。
慶應大学を出て草創期の職業野球に身を投じた水原茂は、プロ野球のステイタスが低いことを痛感し、その向上に努力した。
グランド外では背広に革靴、ボルサリーノ。宿泊するのは一流ホテル。付き合うのは各界の一流の人だけ。大学時代からのスター選手だった水原は、私生活でも「一流人」たらんとした。
大学に行かなかった川上哲治、千葉茂などの選手たちも水原に倣った。
千葉茂などは上等の背広のズボンのすそをゴム長に突っ込んで、バイクで町を走ったりした。「馬子にも衣裳」というところだが、それでも彼らも品行方正を心がけた。
「巨人軍は紳士たれ」という正力松太郎の遺訓には、水原茂などプロ野球のステイタス向上に努めた野球人の気持ちも込められている。

巨人だけではない。南海の鶴岡一人は、戦前の博徒が出入りし、八百長を仕組むような職業野球の粛清を行い、新しい選手によって「百万ドルの内野陣」を作るなど、球団に清新なイメージを植え付けようとした。
プロ野球界はこういう形でステイタスの向上を目指した。常に不心得者はいたが、指導者たちは野球を「一流の娯楽」にするのが悲願だったのだ。

しかし巨人でさえもそれはなかなか進まなかった。1954年に早稲田大学から広岡達朗が入団して以来、4年間も大卒選手は巨人に入らなかった。
4年ぶりに迎え入れた大卒選手が長嶋茂雄だった。
長嶋はその類まれな野球の能力と、それにも増したスター性、カリスマ性で、プロ野球を一気に「ナショナル・パスタイム」に押し上げた。
プロ野球が日本最大のプロスポーツになった功労者の筆頭は、長嶋茂雄なのだ。

1970年の「黒い霧事件」は、プロ野球のステイタスを揺るがしかねない大事件だった。濡れ衣と思われる選手も含め、多くの野球人が永久追放など厳罰に処せられたのは、これが営々と築いてきたプロ野球のステイタスを破壊しかねない深刻な事件だったからだ。

その後もいろいろな事件があったが、プロ野球は「プロスポーツの王様」の地位を保ってきた。
水原茂、川上哲治など、プロ野球のステイタスが当事者たちの努力のたまものであることを知る人たちは、次々と世を去った。

今や長嶋茂雄は、王貞治らとともに「プロ野球がサーカス同然と言われた時代」を知る最後の世代になった。
長嶋はまさに今の「プロ野球」を作った立役者だった。その部下だった人間が、情けない事件によって、深刻なクライシスを招きかねない事態になったことに、長嶋茂雄は言葉を失ったのだろう。
「裏切られた」という深い失意が、彼をして黙しめたのだと思う。



私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!


好評発売中