清原和博は1985年のドラフトで例の“桑田=巨人の密約”によって巨人入りを阻止されて、これを深く恨んでいたと言われる。
そうでないという説もあるが、1987年の日本シリーズ終盤での涙はやはり巨人に対して屈託があったのではないかと思わせる。

しかし当時の巨人、王貞治監督は桑田真澄が以前から意中の選手であり、桑田を最初から指名する気でいたという。
清原はもともと目がなかったが、桑田を確実に指名するために、巨人サイドは「桑田早大進学説」を流布するとともに、清原に対しても「まんざらではない」態度を示していたのだろう。

しかし当時の巨人は、確かに清原よりも桑田を必要としていた。
前年3位に終わった巨人は、打線は充実していたが、斎藤雅樹が12勝に終わり、江川卓、西本聖にも陰りが見えていた。
打線ではなく、投手を補強する必要があったのだ。

また「こーじ苑」さんが言われるように、清原が巨人に入団していたとすれば、1年目に31本を打つことは不可能だっただろう。

清原のプロ入り前年から、清原が巨人に移籍するまでの、巨人、西武の野手の陣容を見てみよう。

G-L1985-1997


1985年の巨人は、遊撃の岡崎郁を除く野手が規定打席に達している。3割打者が4人、一塁には脂ののった中畑清がいた。確かに中畑に代わって清原を一塁に据えることはなかっただろう。
対照的に西武は、打率こそ上がっているもののパワー不足だった一塁、スティーブ・オンティベロスを放出した。パワーのある一塁手を求めていたのである。
清原の入団は誠におあつらえ向きだったと言えよう。

巨人の野手陣は以後も強固だったが、1988年に至って大きく顔ぶれが変わった。クロマティが故障欠場、松本匡史が引退、阪急から獲得した蓑田が期待を裏切り、チームも2位に終わった。
清原が巨人に入っていたらレギュラーを獲得するのはこの年になったのではないか。しかし依然として中畑清が頑張っているから外野で起用されたのではないか。

一塁は中畑の後に名手の評判が高い駒田徳広が上がってくる。清原は打撃では駒田より上だが、一塁手としては駒田の後塵を拝したのではないか。結果として外野で使われたのではないかと思う。

94年ころから巨人は各球団の主軸を取ってくる補強が続いた。そうなってからの方が打線は弱体化した印象があるが、そういう風潮の中で清原はやってきたのだ。バブリーな移籍だ。

西武の清原は90年をピークに成績が下落。しかし一塁のポジションは譲らなかったが、95年には鈴木健の方が一塁守備数が多くなり、DHとなる。
モチベーションは低下していた。あるいは薬物も始めていたかもしれない。

大物野手の移籍前によくある「倦怠感」も感じさせる。

結論として、清原は西武ライオンズに一塁手の穴が開いたタイミングでうまくそこにはまって機能をした。
巨人に最初から入っていれば、その生活態度と相まってながくレギュラーにはなれなかったと思われる。
2000本安打は無理だっただろう。


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