昨日、FBでシェアした記事についていろいろ考えた。
もう疲れたと思った時は無視しよう!日本のおかしい事3つ
1 反省を表すために坊主にする
2 「休む=悪」という考え
3 人に迷惑をかけちゃいけないという教育
この記事とともに、野球ファンには見慣れた、しかし見方によっては衝撃的な写真がつけられていた。

日本の国が安全で暮らしよいのは、人々が自己主張をほどほどにし、他者に気を使って生きているからだ。また、日本人は自分が今あるのは自分の手柄ではなく、両親や恩師、郷土、学校などが彼を育成したからだ。という考えが浸透している。
そのこと自身は素晴らしいし、そういう国に生まれたことは幸いだったと思うが、日本社会はその考え方を他者に強いる。同調圧が極めて強い。
このコラムは野球のことを言っているのではなく、日本人や日本社会の性格について語っているのだが、そこに高校球児の姿が添えられているのは、極めて示唆に富む。
高校野球こそ、こうした日本人の「善」「美」「悪」「醜」を象徴している。
・高校球児は日々周囲のいろいろな人に感謝して生きている。丸坊主にしているのは、まだ彼らが未熟で、修行中の身だからだ。見方によっては、彼らは「未熟である」ことを反省して、丸坊主になっているのかもしれない。
野球部に入ったら強制的に丸坊主にする、というのは人権侵害の可能性もあると思うが、日本の野球文化では当然のこととなっている。
・休まないことは言うまでもない。日本の本格的な「部活」は、365日が原則だ。
「正月とテスト前は部活はありません」
と指導者は言うが、だからといって自己鍛錬を怠る部員は許されない。同調圧が強く働くから、スポーツエリートはみんなトレーニングを怠らない。
日本のスポーツ選手はよく
「1日休めばそれを取り戻すのに数日はかかる」
という。これまで何気なく聞いてきたが、そんな馬鹿なことがあるか、と思う。
そういう強迫観念がワーカホリックのような練習狂を作るのだ。
これは、海外のトップアスリートが自主的に日々鍛錬するのとは、似て非なるものだ。
トップアスリートたちは、専門家や医師などのアドバイスを得て、自分のトレーニング法を編み出している。個々のアスリートの体質や特性はそれぞれ異なる。さらにメンタル、モチベーションも違うから、それに従って自分で練習プランを立てていく。
ハードワークをするのも練習なら、何もせず休養を取るのも練習だ。
こうした極めて知的なトレーニングと、あたかも1日休んだら奈落の底に落ちてしまうかのような強迫観念にとらわれて体を動かすことは全く異なる。
例によって指導者は「ここでこれだけ厳しい鍛錬に耐えたことは、将来、きっと役に立つ」という。
確かに強いボスの下で嫌な仕事にも従事するような、いわゆる「根性」は養われるだろうが、「この仕事が果たして適切なのか」「ボスの言うことは正しいのだろうか」と客観的に物事を判断するような知性や感性や養われないだろう。
365日休まず血反吐を吐いてでも練習するという姿勢は、まともな判断能力や感性を摩滅させるのではないかと思う。
・そして「人に迷惑をかけない」という言葉の拡大解釈。
確かにその言葉自信は、「社会」という集団で生きていくためには重要だ。日本人がどんなところでもきちんと列を作って整列し、ごみをきっちり分別し、人が見ていなくても社会のルールを守るのは、そういう観念が行き届いているからだ。誇らしいことだと思うが、それをスポーツの世界は拡大解釈する。
相手チームに打ち込まれたからチームに迷惑をかけた、エラーをしたから仲間に迷惑をかけた、負けたから学校や郷土に迷惑をかけた。
その論法で、チームや個人は縛られるのだ。
その挙句に、ベンチの前で正座をしたり、土下座をしたり、はいつくばって土を拾ったりする。
これを麗しいと思うのは、ごく一部の人間であることを我々は理解しなければならない。
心身を鍛錬したり、集団生活のルールを学んだり、フェアプレーの精神を学んだり、さまざまな目的をスポーツに付加することは可能だ。
しかしスポーツとは本来「遊び」であり「自己表現」の一つだ。そして「健康で文化的な生活を送る」という基本的人権にのっとって、すべての人に付与された権利だ。
心から楽しんでスポーツに打ち込むことが第一義で、心身の鍛錬や社会性の涵養などは、おまけとして付いてくるものなのだ。なくてもいいものなのだ。
プレーヤーズファーストの本当の意味はここにあると思う。
せんじ詰めればスポーツは誰のためでもなく、自分のためにやるのだ。それは、学問がそうであるのと同様だ。結果としてそれが誰かのためになるとしても、本末が転倒することはあってはならない。
ましてや、故意ではなく真剣なプレーの結果としてヒットを打たれたり、失策したり、負けたりしたからと言って、誰に謝る必要もない。屈辱的な姿を世間にさらす必要もない。
多くの野球ファンや選手、指導者は、丸坊主の選手が土下座するシーンに見慣れているかもしれない。それを当たり前と感じ、「美しい」とさえ思うかもしれない。
しかし、同じ日本人の中にも、これを異常なことと感じ、忌み嫌っている人がたくさんいる。おそらくそういう人が増えてきている。
「いやなら見なけりゃいい」と言って済ませられる時代は過ぎつつあることを認識すべきだ。
門田博光、チーム別&球場別本塁打数(南海時代)|本塁打大全
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
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2 「休む=悪」という考え
3 人に迷惑をかけちゃいけないという教育
この記事とともに、野球ファンには見慣れた、しかし見方によっては衝撃的な写真がつけられていた。

日本の国が安全で暮らしよいのは、人々が自己主張をほどほどにし、他者に気を使って生きているからだ。また、日本人は自分が今あるのは自分の手柄ではなく、両親や恩師、郷土、学校などが彼を育成したからだ。という考えが浸透している。
そのこと自身は素晴らしいし、そういう国に生まれたことは幸いだったと思うが、日本社会はその考え方を他者に強いる。同調圧が極めて強い。
このコラムは野球のことを言っているのではなく、日本人や日本社会の性格について語っているのだが、そこに高校球児の姿が添えられているのは、極めて示唆に富む。
高校野球こそ、こうした日本人の「善」「美」「悪」「醜」を象徴している。
・高校球児は日々周囲のいろいろな人に感謝して生きている。丸坊主にしているのは、まだ彼らが未熟で、修行中の身だからだ。見方によっては、彼らは「未熟である」ことを反省して、丸坊主になっているのかもしれない。
野球部に入ったら強制的に丸坊主にする、というのは人権侵害の可能性もあると思うが、日本の野球文化では当然のこととなっている。
・休まないことは言うまでもない。日本の本格的な「部活」は、365日が原則だ。
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と指導者は言うが、だからといって自己鍛錬を怠る部員は許されない。同調圧が強く働くから、スポーツエリートはみんなトレーニングを怠らない。
日本のスポーツ選手はよく
「1日休めばそれを取り戻すのに数日はかかる」
という。これまで何気なく聞いてきたが、そんな馬鹿なことがあるか、と思う。
そういう強迫観念がワーカホリックのような練習狂を作るのだ。
これは、海外のトップアスリートが自主的に日々鍛錬するのとは、似て非なるものだ。
トップアスリートたちは、専門家や医師などのアドバイスを得て、自分のトレーニング法を編み出している。個々のアスリートの体質や特性はそれぞれ異なる。さらにメンタル、モチベーションも違うから、それに従って自分で練習プランを立てていく。
ハードワークをするのも練習なら、何もせず休養を取るのも練習だ。
こうした極めて知的なトレーニングと、あたかも1日休んだら奈落の底に落ちてしまうかのような強迫観念にとらわれて体を動かすことは全く異なる。
例によって指導者は「ここでこれだけ厳しい鍛錬に耐えたことは、将来、きっと役に立つ」という。
確かに強いボスの下で嫌な仕事にも従事するような、いわゆる「根性」は養われるだろうが、「この仕事が果たして適切なのか」「ボスの言うことは正しいのだろうか」と客観的に物事を判断するような知性や感性や養われないだろう。
365日休まず血反吐を吐いてでも練習するという姿勢は、まともな判断能力や感性を摩滅させるのではないかと思う。
・そして「人に迷惑をかけない」という言葉の拡大解釈。
確かにその言葉自信は、「社会」という集団で生きていくためには重要だ。日本人がどんなところでもきちんと列を作って整列し、ごみをきっちり分別し、人が見ていなくても社会のルールを守るのは、そういう観念が行き届いているからだ。誇らしいことだと思うが、それをスポーツの世界は拡大解釈する。
相手チームに打ち込まれたからチームに迷惑をかけた、エラーをしたから仲間に迷惑をかけた、負けたから学校や郷土に迷惑をかけた。
その論法で、チームや個人は縛られるのだ。
その挙句に、ベンチの前で正座をしたり、土下座をしたり、はいつくばって土を拾ったりする。
これを麗しいと思うのは、ごく一部の人間であることを我々は理解しなければならない。
心身を鍛錬したり、集団生活のルールを学んだり、フェアプレーの精神を学んだり、さまざまな目的をスポーツに付加することは可能だ。
しかしスポーツとは本来「遊び」であり「自己表現」の一つだ。そして「健康で文化的な生活を送る」という基本的人権にのっとって、すべての人に付与された権利だ。
心から楽しんでスポーツに打ち込むことが第一義で、心身の鍛錬や社会性の涵養などは、おまけとして付いてくるものなのだ。なくてもいいものなのだ。
プレーヤーズファーストの本当の意味はここにあると思う。
せんじ詰めればスポーツは誰のためでもなく、自分のためにやるのだ。それは、学問がそうであるのと同様だ。結果としてそれが誰かのためになるとしても、本末が転倒することはあってはならない。
ましてや、故意ではなく真剣なプレーの結果としてヒットを打たれたり、失策したり、負けたりしたからと言って、誰に謝る必要もない。屈辱的な姿を世間にさらす必要もない。
多くの野球ファンや選手、指導者は、丸坊主の選手が土下座するシーンに見慣れているかもしれない。それを当たり前と感じ、「美しい」とさえ思うかもしれない。
しかし、同じ日本人の中にも、これを異常なことと感じ、忌み嫌っている人がたくさんいる。おそらくそういう人が増えてきている。
「いやなら見なけりゃいい」と言って済ませられる時代は過ぎつつあることを認識すべきだ。
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コメント
コメント一覧
野球に興味深い生徒がまた失明したり熱中症で死亡したりして訴訟起こされたらたまりませんよ。
土を持って帰るという行為はまあ別にして、この土下座はなんなんでしょうかね。気分のいいもんじゃないでしょう。
だいたい誰に、何を謝っているのかがさっぱりわかりません。日本人はすぐに謝罪をしますが、その悪いところを凝縮した印象です。
「グラウンドで」ではなく…
なるほどね、意味が変わるよね。どっちなんでしょうね。
一事が万事です。野球は常識と常識人から遠ざかって行きつつあるように思います。
野球ファンさんは、「勝ち進んでいるときも」と書いていますよ。礼は、グラウンドに対して、ということなのでは。
もっとも、時代錯誤的だというのは私も思いますが。
そして広尾さん。
すでにほかの方もコメントされていますが、決してこの「土下座」(というと謝罪のイメージが強くなるので、座礼と言うべきなのかな)は、野球ファンにとって見慣れた光景ではありません。
また土を集める行為は見慣れた光景ですが、謝罪や礼を尽くす意味は無いのですから、座礼と並べて語るのはおかしいのでは。
高校野球の体質の問題と、日本社会の問題を絡めた面白い記事だとは思ったのですが、そのあたりが疑問です。どうお考えなんでしょうか。
すいません。上の文章は、"「勝ち進んでいるときも」と書いてい"るので、必ずしも試合の敗戦後とは限らないのでは、という意味でした。
伝わりづらい文章で失礼しました。
はっきり言って、『異様』です。
もし、自分が中学生で学校の野球部を観戦していて、こんなシーンを目の当たりにしたら絶対に野球をやりたいとは思いません。
そういえば、草サッカーのチームメイトで「中学まで野球をやっていたけど、高校では野球部で野球をやりたくない。もっと、のびのびと野球をやりたい。」と言って高校ではサッカー部に入部した子を知っています。