いしいひさいちは、手塚治虫や山上たつひこらとならぶ、漫画界の巨星だと思う。いしいがいなければ、4コマ漫画はサトウサンペイ、サザエさんから進歩しなかっただろう。
そして「野球4コマ漫画」というジャンルはここまで広がらなかっただろう。
信じられないが、いしいひさいちは、もう64歳だ。
1970年代半ば、関西には雨後の筍のようにサブカルチャーが勃興した。
「プレイガイドジャーナル」通称「ぷがじゃ」は、その根城のような雑誌だった。
岡山出身で関西大学卒のいしいは、小さな漫画工房を作り、同人誌を発行するとともに「ぷがじゃ」に「御漫画」という4コマ漫画を連載していた。
最初からその漫画は抜群に面白かった。画も洒脱で、ずば抜けた存在だった。
東京の「漫画アクション」に「くるくるパーティー」の連載が始まったのも、すぐだったと記憶している。
いしいの野球漫画は、恐らく「くるくるパーティー」当りが始まりではないか。
強烈に印象に残っているのは原辰徳の4コマだ。
1975年、若大将と言われた東海大相模の原辰徳が、さっそうと甲子園に登場し、上尾の今という左腕投手と対戦した。
この投手が、思い切り不細工だったのだ。私は父と一緒にテレビを見ていたが、口の悪い親父は「ぶさいくは、打たれて負けなあかん」とえげつないことを言っていた。
このシーンをいしいは、4コマにしたのだ。
具体的な選手名は出さなかったが、すぐにそれとわかる。
いしいは、今投手を実にリアルに描き、観客席から
「あっぽー」「ひっこめー、いぼゴリラ!」とヤジを飛ばさせるのだ。
まさに、うちの父のような、容赦ない関西人の「毒」をそのまま描いていた。


いしいは、野球を描くときには、コマの中に必ず「悪意」を忍ばせていたように思う。
「がんばれタブチくん」が代表作のように言われるが、全国的な人気になってからは、いしいの毒は中和され、さして魅力のないものになっていた。
タブチの漫画で言えば、いしいは「バイト君」シリーズで、バイト君の彼女に観客席から
「いんきんタブチ、死んじまえ―」
と叫ばせるのだ。
漫画の中で、中継のアナウンサーと解説に
「ぞ、臓腑をえぐるようなヤジが飛びました」
「ダメージを受けなければいいのですが」
と言わせるのだ。
85年の優勝以前の弱い阪神は、いしいの格好の餌食となった。
ペナントレースが始まる。
スポーツニュースでは、
「セ・リーグ」「パ・リーグ」それぞれの予想が報道されるが、勝っても負けても大騒ぎする阪神は1球団だけ
「タ・リーグ」を作る。
という漫画もあった。私がいた高校は、それこそ虎キチの巣のようだったが、その愚かさ加減を見事に表していて爆笑した覚えがある。
こうした「悪意」「毒」は、全国区ではあまり理解されなかったように思う。
「野球4コマ」としても、「タブチ君」以前のこの時期のものが、レベルが高かったと思う。
私には愛着深いのだが。

1966年池永正明、全登板成績【ヒジ痛と闘いながらのピッチング】
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最初からその漫画は抜群に面白かった。画も洒脱で、ずば抜けた存在だった。
東京の「漫画アクション」に「くるくるパーティー」の連載が始まったのも、すぐだったと記憶している。
いしいの野球漫画は、恐らく「くるくるパーティー」当りが始まりではないか。
強烈に印象に残っているのは原辰徳の4コマだ。
1975年、若大将と言われた東海大相模の原辰徳が、さっそうと甲子園に登場し、上尾の今という左腕投手と対戦した。
この投手が、思い切り不細工だったのだ。私は父と一緒にテレビを見ていたが、口の悪い親父は「ぶさいくは、打たれて負けなあかん」とえげつないことを言っていた。
このシーンをいしいは、4コマにしたのだ。
具体的な選手名は出さなかったが、すぐにそれとわかる。
いしいは、今投手を実にリアルに描き、観客席から
「あっぽー」「ひっこめー、いぼゴリラ!」とヤジを飛ばさせるのだ。
まさに、うちの父のような、容赦ない関西人の「毒」をそのまま描いていた。
いしいは、野球を描くときには、コマの中に必ず「悪意」を忍ばせていたように思う。
「がんばれタブチくん」が代表作のように言われるが、全国的な人気になってからは、いしいの毒は中和され、さして魅力のないものになっていた。
タブチの漫画で言えば、いしいは「バイト君」シリーズで、バイト君の彼女に観客席から
「いんきんタブチ、死んじまえ―」
と叫ばせるのだ。
漫画の中で、中継のアナウンサーと解説に
「ぞ、臓腑をえぐるようなヤジが飛びました」
「ダメージを受けなければいいのですが」
と言わせるのだ。
85年の優勝以前の弱い阪神は、いしいの格好の餌食となった。
ペナントレースが始まる。
スポーツニュースでは、
「セ・リーグ」「パ・リーグ」それぞれの予想が報道されるが、勝っても負けても大騒ぎする阪神は1球団だけ
「タ・リーグ」を作る。
という漫画もあった。私がいた高校は、それこそ虎キチの巣のようだったが、その愚かさ加減を見事に表していて爆笑した覚えがある。
こうした「悪意」「毒」は、全国区ではあまり理解されなかったように思う。
「野球4コマ」としても、「タブチ君」以前のこの時期のものが、レベルが高かったと思う。
私には愛着深いのだが。

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コメント
コメント一覧
氏の毒セリフ(野次)ですが、昔の阪急南海近鉄の野次を聞いた人間からしてみれば、甘い感じがありました。
当時使っていた学生アルバイトにこのマンガを紹介されて、初めて読んで笑い転げた思い出があります。以来ファンになりました。
いしいは、関西人ではないので、また少し違いますね。品のない言葉は使いませんでした。それはずっと一貫しています。
すね。まさに漫画界の星新一。
読売か報知かどちらかは忘れましたが、氏の漫画を論評して、
この人はどこのファンか判らないが、こういう人はきっと巨人ファンだ
という文意の記事を載せていたので、笑ってしまったのを覚えています。
実家に当時出版されたタブチ君の単行本があるのですが、ある程度野球が分かってからそれを読んで爆笑しましたw
記者のヤスダの乱調に関する質問にありきたりなコメントで返した後、無人のロッカーでヤスダのスパイクにゴキブリを入れる広岡とか。
やくみつる氏(はた山ハッチ)はいしい氏を師匠と仰いでいることを公言していますが、実際、この2人とそれ以外の野球漫画家は別モノでしょうね。
野球を突き放して描いてるのはこの2人くらいですから。
ファウルフライを追ったタブチがコンクリートの壁に頭から激突して気絶する場面は、シンプルなギャグ風の絵柄なのにすごく痛そうで絵の達者さを感じましたが、80年代に入ると四コママンガ雑誌が続々と創刊されて一大ジャンルになりましたね。