70年代にはすでにプロ野球を見ていたのだが、生で見た記憶も、テレビで見た記憶もない。閑古鳥が鳴いていた“昭和のパリーグ”の安打製造機だった。
報知新聞 蛭間豊章記者の関連ブログ(江藤慎一死去時のもの)
http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2008/02/post-b7d5.html
長嶋茂雄と同級生、王貞治は高校の4年後輩、野村克也に1年遅れてプロ入り。172cm71kgは、今ではスポーツ選手の体格ではない。
しかしプロ入り時点ではすでにハイレベルの打撃術を持っており、1年目から打撃10傑入り、新人王。以後、15年にわたって規定打数に達し、打撃10傑に10回入っている。
全盛期は60年から63年。4年間の打率は.331。2度の首位打者のレベルが高いことも特筆できよう。
抜群の選球眼の持ち主であり、IsoDは.088に達する。好球必打ができる最もいやらしい打者だったのだ。
バットを長く持ってフルスイングをするが、三振はきわめて少なかった。小柄だが長打力もあった。流し打ちをほとんどしなかった。今の打者でいえば小笠原道大が近いのではないか。
終身打率.296は、今の感覚では抜群とは言えないが、当時のパリーグの平均打率は.240台。圧倒的な投手優位だった(昨年から統一球時代に入り、リーグ平均打率は.250に落ちたが、それまでは.260前後だった)。榎本は常にリーグ水準を大きく上回っていた。今の基準なら.320近い打率に相当しよう。

1970年時点で.300133だったのが、残り2年で3割を割ったのが惜しまれる。
現役時代から人と交わらず内向的で、引退後、本人が野球界との付き合いを一切絶った。「奇行」の話題も数多かった。
それが影響しているのか、首位打者を2回も獲得し、2314安打も打ちながら殿堂入りしていない。
野球人はグラウンドで勝負するものである。榎本がそれ以外の要因で殿堂に選ばれなかったとすれば、大いに遺憾だ。殿堂入り投票権を持つ記者の見識が疑われるところだ。こういう打者を評価してこそ「野球を見る、伝える」プロではないのか。
真面目に打撃を学ぼうとする若手選手には手本となる存在だったし、何より王貞治の求道的な打撃精進は、少し前を行く榎本喜八の存在あればこそではなかったか。
現役時代を知らない人にとって、榎本は「幻の名打者」だったが、引退後の榎本に丹念な取材を重ねて書かれた『打撃の神髄 榎本喜八伝』によって、我々は榎本喜八の人となり、打撃術のすごさに触れることが出来る。記念碑的な本である。


本人に意欲がなかったわけではない。誰か引き立てる人がいれば、打撃コーチ、指導者として素晴らしい実績を残した可能性もあったと思う。
亡くなったのは3月14日。2週間遅れの訃報である。“不公平が当たり前”のNPBのひずみを体現するような打者だった。今から殿堂入りさせてももう遅い!
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
↓
報知新聞 蛭間豊章記者の関連ブログ(江藤慎一死去時のもの)
http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2008/02/post-b7d5.html

長嶋茂雄と同級生、王貞治は高校の4年後輩、野村克也に1年遅れてプロ入り。172cm71kgは、今ではスポーツ選手の体格ではない。
しかしプロ入り時点ではすでにハイレベルの打撃術を持っており、1年目から打撃10傑入り、新人王。以後、15年にわたって規定打数に達し、打撃10傑に10回入っている。
全盛期は60年から63年。4年間の打率は.331。2度の首位打者のレベルが高いことも特筆できよう。
抜群の選球眼の持ち主であり、IsoDは.088に達する。好球必打ができる最もいやらしい打者だったのだ。
バットを長く持ってフルスイングをするが、三振はきわめて少なかった。小柄だが長打力もあった。流し打ちをほとんどしなかった。今の打者でいえば小笠原道大が近いのではないか。
終身打率.296は、今の感覚では抜群とは言えないが、当時のパリーグの平均打率は.240台。圧倒的な投手優位だった(昨年から統一球時代に入り、リーグ平均打率は.250に落ちたが、それまでは.260前後だった)。榎本は常にリーグ水準を大きく上回っていた。今の基準なら.320近い打率に相当しよう。

1970年時点で.300133だったのが、残り2年で3割を割ったのが惜しまれる。
現役時代から人と交わらず内向的で、引退後、本人が野球界との付き合いを一切絶った。「奇行」の話題も数多かった。
それが影響しているのか、首位打者を2回も獲得し、2314安打も打ちながら殿堂入りしていない。
野球人はグラウンドで勝負するものである。榎本がそれ以外の要因で殿堂に選ばれなかったとすれば、大いに遺憾だ。殿堂入り投票権を持つ記者の見識が疑われるところだ。こういう打者を評価してこそ「野球を見る、伝える」プロではないのか。
真面目に打撃を学ぼうとする若手選手には手本となる存在だったし、何より王貞治の求道的な打撃精進は、少し前を行く榎本喜八の存在あればこそではなかったか。
現役時代を知らない人にとって、榎本は「幻の名打者」だったが、引退後の榎本に丹念な取材を重ねて書かれた『打撃の神髄 榎本喜八伝』によって、我々は榎本喜八の人となり、打撃術のすごさに触れることが出来る。記念碑的な本である。
本人に意欲がなかったわけではない。誰か引き立てる人がいれば、打撃コーチ、指導者として素晴らしい実績を残した可能性もあったと思う。
亡くなったのは3月14日。2週間遅れの訃報である。“不公平が当たり前”のNPBのひずみを体現するような打者だった。今から殿堂入りさせてももう遅い!
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コメント
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と発言してたのをネット上で見て気になり、Wikiを見て衝撃を受けました。
前田、イチローを遥かに超越する求道者という感じがします。
下衆な考えですが、映画化したくなるような人物です。
(タイ・カッブが映画化されたアメリカはさすがだなと…)
数年前、三ノ輪に行ったんですが、その昔、東京スタジアムがあり、
榎本さん所縁の場所という事を知って感動しました。
当時は午前3時頃まで凄い人出で賑わってたそうです。
今では想像もつきません。
常人とは違った感覚の持ち主であったようですね。
荒川氏は王貞治より素質は上と評していました。
イチローと対談させてみたい一人でした。
下記は、江藤さんが亡くなった時に書いたブログです。
http://weblog.hochi.co.jp/hiruma/2008/02/post-b7d5.html
私も世代的には全く知らない選手の1人です。映像ですら見たことがありません。存在を知ったのは13年前の古いNumber PLUS(昭和野球の特集です)。
その記事に載っていた話を見る限りは、「もののふの真実」というタイトル通り、他の方も言われるように野球選手というよりは求道者という印象を強く持っています。荒川さんの話では、素質もさることながら、王さんの倍はバットを振ったという努力家でもあったそうです。
ご指摘のように、最年少の2000安打など、不世出の大記録もありますし、私も殿堂入りしない理由がわかりませんが、この方の為人を考えると、選ばれても辞退しそうな、そんな気さえします。
当時を知るマスコミの方々も墓場まで真相を持っていくのかもしれません。
蛭間さんならば、ご存知かもしれませんが、現役マスコミ人としては言えないのかもしれませんね。
まあ、本人にしてみれば、逝去したことさえ報じてくれるなと思っていたことでしょう。
こういう人間が一人ぐらいいてもいいのではないでしょうか。
ところで数字を見ていますと、全盛期61年~63年のの3年間だけ
ISODが低下しています。
西本監督辞任で、バッティングを変えたのでしょうか。
本人も、野球殿堂とか名球会なんて、望まなかったと確信しています。
惜しむらくは、榎本氏の、臍下丹田に力を溜めて、身体の先端に伝える、という打撃理論を理解出来る、頭のいい野球選手がいなくなった、そのために、打撃コーチの口がなかったことですかね。
荒川博氏の、下記発言で、榎本氏の凄さは充分解ります。
技の上に術、術の上に芸、芸の上に道があるとしたら、道に到達したのは榎本だけ。
王も努力の人だったけれど、榎本は少なくとも王の倍以上はバットを振っていた。
残した記録は王の方が上だけど、打撃の実力は断然、榎本の方が上だった。
榎本喜八氏のご冥福をお祈り致します。
去ったと 張本氏が名球会野球教室の場で
発言されてました。真相はわかりませんが・・・
榎本喜八氏のご冥福をお祈り致します。
またそれを矯正してくれる監督や先輩選手にもめぐまれないまま現役を続けた不幸なプレーヤーだったかもしれません。
STATSだけ見れば殿堂入りには何の問題もない成績ですからね。
こうして見ると、歴史に名を残す選手とは成績はもちろん、その人間性において多少とがったところはあっても、チーム仲間やメディアとの関係を大事にしないと最後はダメなんだな~と思わせます。
荒川打撃コーチ曰く、
”練習に打ち込む姿勢で言えば、榎本はあの王よりも100倍クソまじめだった。”
そうです。
榎本とブーマーが殿堂入りできず津田が殿堂入りなどあってはならない
「臍下丹田で打つ」というNUMBERの記事が印象に残っています。
名球会は当時としては今ほどのブランドはなかったので無視したのではないでしょうか(あっても我関せずだと思いますが)。
くっち~様のおっしゃるとおり61~63年の3年間は気になりますね。
64年はSOを減らしつつBBを増やしているので、その3年間のスタイルを発展させたと言えるかもしれません。
ところで、榎本は野村克也・長嶋茂雄の1つ下です。
長嶋は早生まれなので間違えやすいかもしれませんが、彼は野村克也と同級生です。
以前にも同じ指摘をさせていただいたような・・・(中利生の記事だったでしょうか)。
その頃は、プレーを見ることよりも、選手からサインをもらうことが楽しかったようです。
父から、サイン帳なるものを買ってもらって、ゲームが終わった後、選手たちが出てくるのを待って、サインをせがむのです。
家に帰って、父にサイン帳を見せた時に、榎本さんのサインを見て、父がすごい選手なんだと言ったことを覚えています。そのサイン帳は、どこかに行ってしまいましたが、確かに、榎本喜八と書かれていました。
変わり者と言った評価がされていますが、私にとっては、最初にサインをしてもらったプロ野球選手。そして、その成績は、もっと評価されなければいけない選手であったことは、間違いありません。
政治的な理由だけで評価されないことは、残念で仕方ありません。
指導者であったなら、きっと、個性的な選手を育ててくれただろうにと、思います。
その痕跡が無いのはわかっていましたが、先日、東京スタジアムがあった場所に行き、ご冥福を祈ってきました。
http://youtu.be/cpHX_TNvAT4
古さを全く感じさせないきれいなフォームですね。
小笠原が似てるかな?
外のメディアが氏の訃報に沈黙する中、唯一毎日新聞だけが報じた。毎日マンセーでは無いが、これだけは賞賛したい。
そろそろ、喜八氏をタブー視するのを止めたらどうかと思う。
同感。
ご子息さんのコメントが心に残りました。
まさに「凄い数字を遺したが、不器用(世渡りが下手)な野球人」といった印象です。
それにしても、荒川道場(どこまで荒川が役に立ったのかは、いまだに疑問ではありますが)の荒稽古で、王だけがクローズアップされる風潮はなんとかならんものでしょうか。
ほとんどヒッチしない打ち方は、見方によってはロボットじみていた、たしかに機械を思わせるものがありました。