野球選手も含めたアスリートの意識もずいぶん変化したと思うが、トップアスリートの中には、いまだに頭が不自由な部類に属する人が多い。これはショックだ。

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バドミントンで事実上永久追放になった田児賢一は、週刊現代のインタビューでこう答えている。

海外でギャンブルに熱中した行為自体に後悔はありません。こんなことを言うと、反省していないと叩かれるかもしれない。それでも、僕はあの勝負事は、スポーツ選手として自分を成長させてくれたと今でも思っているのです。
(中略)
さっき「後悔していない」と言ったのは、ギャンブルと、極限状態で勝負するスポーツには、通じるものがあるからです。
桃田も記者会見のときに、「勝負の世界で生きている以上、ギャンブルに興味があった」と語っていたでしょう。桃田の言っていたことはよくわかる。僕はバドミントンという勝負に、博打を重ね合わせることで、プラスにつなげていたと今でも思っているのです。
ただ、「やりすぎ」だったのかもという思いも、同時にあります。


この男は、博奕がアスリートとしての成功に役立ったと語っている。
昔、「飲む打つ買う」は、芸の肥やしだという芸人がいたが、その感覚なのだろうか。

この男には、まずコンプライアンスの意識がない。海外でのカジノは合法だが、国内でのカジノは違法だ。
海外でギャンブルに熱中した行為自体に後悔はなくとも、国内でカジノをすることは許されないことは知らなかったのか。その見境がなくなるほどギャンブル中毒になって、「後悔していない」とは、頭の中がどうなっているのか。

そしてもう一つ。「自分たちの実力が向上するためなら、何をやっても許される」と言う意識。
トップアスリートにありがちな、自己中心的な考え方だ。

企業スポーツは、ここ20年ほど衰退の一途をたどっているが、これは企業の経営環境の問題に加えて、企業側がアスリートを抱えておく意義が見いだせなくなったことが大きい。
企業が抱えるスポーツチームは、昔は形だけでも社業に就いていた。総務や広報や、営業補助などの形で、企業の一員という顔を持っていた。
しかしいつしか、企業アスリートは「自分たちがスポーツに専念できる環境を作ってほしい」と企業に要求するようになる。
多くの企業がそれを呑んだが、次第に企業アスリートは「自分が強くなるためにいろいろな要求をするのは当然のこと」という意識が強くなる。待遇や試合への派遣などの費用も要求するようになる。

アスリートが実力を蓄え、勝利を得ることは第一義的に「アスリート自身のため」である。そのことで周囲が喜び、誇りとしてくれれば「会社のため」「国のため」という大義名分ができる。

かつてのアスリートには「日の丸」のプレッシャーに押しつぶされた選手もいるが、今は「自分のため」と言う選手も多い。そのことは間違っていないが「自分のため」であるならば、周囲に対する要求も「当然のこと」ではなく、「なぜ、そうする意義があるのか」をきちんと説明する必要がある。そして何らかの見返りを提供する必要がある。

アスリートである自分の存在意義をしっかり世間に表明していく必要があるのだ。

企業スポーツを手放した経営者の多くは、「なぜ彼らの栄光のために、自分たちが援助しなければならないのか」「見返りがない」「アスリートは社会性がない」などと述べている。

田児賢一の言いぐさは、自分がこうしてバドミントンに専念することができたのは、誰のおかげなのかを忘れた愚か者のことばと言えるだろう。

プロ野球選手とて同様だ。野球の勝負勘を磨くために、ギャンブルが役に立つと言いたそうな選手や元選手はたくさんいるだろうが、社会人としての責務を果たさなければ、どんな名選手も存在しえない。
清原和博も同様の感覚だったのだろう。

オリンピックが近いこともあって、アスリートや元アスリートがクイズ番組に出演する機会が多いが、彼らが中学生程度の英語や国語や社会の問題も解けないことを見ても、日本のスポーツ教育は、馬鹿、少なくともスポーツ馬鹿をいまだに量産しているのではないかと言う危惧の念がぬぐえない。

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写真に取り立てて意味はありません。長野がバカだということではありません。

1966年のセ・リーグ投手陣 簡易版

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