結局「スポーツ馬鹿」を生み出すのは、今の「部活」だと思う。
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高校の部活は、私たちの時代に比べても、異様なくらい稼働率が上がっている。体育会系の「部活」はほとんどが、正月、試験休みを除いて年中無休。

野球部で言えば大阪桐蔭のような強豪校がそうであるのは、その是非は別として仕方がないとも思うが、甲子園など夢のまた夢と言う学校でも、ほぼ休みなしだ。

野球部員は授業時間と、家にいる時間以外のすべての時間を「野球」に捧げることとなる。その結果、指導者の資質にもよるが、選手は指導者に身も心も支配されるようになる。

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昨年暮れ、KOSHIENというアメリカ人のジャーナリストが作成したドキュメントがNHKのBSで公開された。2004年の智辯和歌山と大阪、天王寺高校の野球部が甲子園の予選に臨み、それぞれ敗れ去るまでを、ナレーションを交えずにインタビューだけでおいかけたものだ。
静寂が基調となっていて、不思議な感動を呼ぶ出来栄えになっているが、私はやっぱり、野球にすべてを捧げる青春は、どうかしているのではないかと思った。

智辯和歌山の高嶋監督も、天王寺高校の政監督も、ともに「野球は人生そのもの」と語り、野球がすべてと断言した。
そしてスタイルこそ違え、二人の指導者は、選手たちにも「野球がすべて」の高校生活を送るように求めるのだ。
天王寺高校の場合は、特別扱いは一切ないから受験勉強もして、一般的な常識も見に就くだろうが、智辯和歌山の場合は、はっきり言えばそうではない。

大阪屈指の公立進学校である天王寺高校の野球部員の多くは国公立大学や大学院に進み、今では大企業の技術職になったりしているが、智辯和歌山の野球部員は一人がプロに行って、一軍経験なく引退しただけで、あとは「野球業界」に進むか、野球とは無関係の道を歩んでいる。

ありていに言えば、野球部の場合、「学校の偏差値」によって「野球馬鹿」になるか、ならないかが決まる。
「野球部」が、授業時間と、家にいる時間以外のすべての時間を「野球」に捧げることを求めるのは、偏差値の高い学校も、低い学校も同じだ。

しかし“野球学校”は、授業中は寝ていても良いし、試験の成績が悪くても落第しないのだ。
その結果、アルファベットもまともに読めないような「野球人」が出来上がる。

今後のことを考えれば、野球部(だけでなくすべての部活)は、子供たちを完全に支配するような指導はやめるべきだと思う。
そうした指導は、促成栽培には最適だが、生徒のその後の長い人生を考えるならば、高校時代に、野球以外のスポーツや趣味、余暇がある生活を与えるべきである。
あたかも職業軍人のような3年間を送ることは、今の時代ではメリットよりもデメリットが大きいだろう。

一方で「部活」にプライベートの時間を根こそぎ捧げることを強要される教員の間でも、異論が出ている。
当たり前のことだ。一つの職業として「教員」を選んだはずが、あたかも修行僧のような生活を強要されるのは異様だ。
中には「部活」がやりたくて教員になった先生も数多くいる。その先生方の熱意は多としたいが、それをすべての教員に求めるのはどうかしている。
日本独特の「同調圧」で、嫌々ながら部活に時間を割かれている教員も多かったのだ。ここまでよくこんな制度が続いてきたものだと思う。

日本独特の「部活」は、確かに有意義でメリットの多い仕組みではあるが、根本的な部分から見直されるべき時期を迎えているように思う。

「一つのことに青春を捧げる」のは一つの選択肢であって、勉強や趣味や恋愛のついでにちょこっと「部活」をやるような高校生活もあっていいし、そういう「ちんたら部活」は、何ら恥ずかしいものではないのだ。


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