実質的にMLBに最初に挑戦した野茂英雄は、ずば抜けた実力の持ち主ながら、NPBでは反逆児だった。近鉄と反目して、最後はけんか別れのようになって日本を飛び出した。


野茂はマイナー契約だった。当時は、NPBがどんな実力のリーグなのか、MLBではよくわかっていなかった。それだけに、ドジャースも慎重になった。
しかし、野茂はスプリング・トレーニングで実績を積み、メジャーに生き残った。そして、次第に快投を見せつけ、一流の投手となった。
私は野茂の登板を、毎回、わくわくしながら見続けた。当時はサラリーマンで、午前中に試合を見ることはできなかったが、芦屋駅にあったケーブルテレビのBS中継のモニターにくぎ付けになった。携帯電話もなかったが、いろんな手段で野茂の結果を知ったものだ。

イチローは、球団と喧嘩をしたわけではないが、マリナーズの春季キャンプに参加したことがカルチャーショックとなって、MLBへのあこがれを抱き続け、27歳で渡米した。
このときも、私はワクワクしながら見続けたものだ。
1試合1試合、新しい扉を開けるような新鮮な驚きがあった。
マルチ・ヒットという言葉を知ったのもこのときだ。ルー・ピネラ監督が「やつは、毎日マルチ・ヒットを打つんだから」と言っていたのを思い出す。
神戸グリーンスタジアムで見ていたイチローが、セーフコ・フィールドで同じようにすごいプレーをするのを見て、私は天井が抜けたような開放感を覚えた。
イチローと一緒に冒険をしている、極端に言えばそういう快感があった。
2004年は、まさにピークだと言えようか。

そういうワクワクを感じたのは、松井秀喜までか。城島健司にも少しワクワクを感じたが。

MLBへの挑戦は、何から何までうまくいく、というものではない。松井秀喜はごろキングと言われたし、城島健司はフェリックス・ヘルナンデスなど投手陣との軋轢があった。井口資仁や、岩村明憲は少し頑張ったが、長続きしなかった。
中村紀洋のひどい成績にはがっかりした。

投手陣も、野茂を超える選手はなかなか出てこなかった。伊良部秀樹のようにアメリカまで言って嫌われ者になる投手もいた。佐々木主浩のように頼りになるクローザーもいたが、頼りにならない救援投手もたくさん出た。

野手で言えば田口壮、投手で言えば長谷川滋利のように「日本選手の小ささ」をそのままに、MLBに定着した選手もいた。これはこれでよいと思った。

投手では松坂大輔、そしてダルビッシュ有はわくわくした。
「異世界で俺の力を見せつけてやる」という闘志を感じたからだ。A-RODやミゲル・カブレラとの勝負はなかなか興奮させた。

しかし投打ともに、MLBに挑戦する選手への期待感はだんだん小さくなってくる。
NPBからMLBへの移籍が珍しいものではなくなったことが大きい。
しかし同時に、NPBの選手に「挑戦者」という高揚感がなくなったことも大きい。
「業務の一環」みたいな感じで移籍する選手が増えたように思う。

野手は、西岡剛、中島裕之、田中賢介と失敗例が続出したために、挑戦する選手がいなくなった。
口には出さないが「日本の野手はMLBでは通用しない」が共通認識になったようだ。MLBもおそらくはそのように思っている。「イチローは例外だ」と。
また、球団側もMLB移籍を直訴する糸井嘉男をオリックスに“左遷”した、日本ハムのように、選手の流出を阻止する動きも出始めた。

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結果的に、NPBからMLBへ大手を振って挑戦することができるのは、大谷翔平など一部の超大物だけになった。野手は、事実上その道が閉ざされた。イチローが勇をふるって開拓した道は、ふがいない後輩たちによって、断たれてしまったのだ。



1976年八木沢荘六、全登板成績【プロ入り10年目で初の2ケタ勝利】

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