何度か取り上げた話題ではあるが、改めて考えてみたい。

スポーツ放送の見方にもいろいろあるが、私は自分なりに一定の考えがある。
我々がスポーツ放送で注視するのはアスリート、とりわけアスリートのパフォーマンスだ。
会場の雰囲気や客席の様子などは、アスリートと関連付けることによって意味を帯びてくるが、主たる要素ではない。

放送関係、アナウンサーや解説者などはアスリートを注視するうえで必要な情報と伝えてくれる存在だ。
アナウンサーは一般的かつ客観的な情報、解説者はよりインサイドな情報と、経験者としての主観を交えた情報。

しかしながらアナも解説者も、アスリートにくらべれば物の数ではない。
スポーツ中継を見る、という行為は、実際のスポーツ観戦の代償的なものだ。生のスポーツ観戦には、基本的にアナや解説者はいない。
しかし、生のスポーツ観戦は、テレビ画面よりも圧倒的に情報量が多い。アナや解説者がいなくても、アスリートやその置かれた環境を十分に理解することができる。

スポーツ中継のアナや解説者は、生観戦よりも乏しい情報を補完する存在だ。

そのことを考えれば、あたかも主役であるかのようにしゃべりまくるアナ、自分の貧しい知識と感性を総動員して勝手に物語を作るようなアナウンサーは、必要ないことがわかる。
親がどうした、故郷がどうした、学校がどうしたという情報も副次的なものでしかない。ことに競技に関係がないプライベートは、ないほうがいい。
しかし、愚かなアナウンサーはそれを「おかず」にしてしゃべる。
彼らは、スポーツ中継を、安物のカラオケのような雑音で汚している。

それが必要だというのは、いまだに地上波テレビをありがたがる「テレビ大好き人間」や「スポーツ別にどうでもいい人間」だ。そういう人がいても全く構わないが、私はその人たちの側にくみしないし、そういう人に全く関心がない。

要するにスポーツ中継は「生観戦」の代償物であり、できるだけ生観戦に近い情報、空気を提供するためにあると思う。

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その考え方でいけば、インタビューのありかたもおのずと決まってくる。
生観戦では、インタビューなどというものは基本的に存在しないのだ。だから別になくてもいいのだ。

野球ではヒーローインタビューというものがある。試合が終わってからお立ち台に選手が立って、ファンの前でアナウンサーのインタビューに答えるというものだ。
あれ、最後まで見る人がどれだけいるだろうか。多くの人は試合が終わったらぞろぞろ家路につく。インタビューを横目で見ながら。
熱心なファンは立ち止まって拍手を送ったりしているが、大部分の人はどうでも良いと思っているのではないか。

それはインタビューが「スポーツ観戦」の要素に含まれているのではなく、おまけ、余禄のようなものだからだ。
端的に言えば、なくても全く困らないのだ。

そして、日本のスポーツ界では、アスリートからまともなコメントを引き出すことがほとんどない。
別に聞かなくてもわかるようなこと、聞いてもどうしようもないことしか聞かないのだ。
聞かなくてもわかるようなこと、とは
 「うれしいか」
 「この喜びをだれに伝えたいか」
 「ファンにひとこと」
 「今後どうするか」
のような質問だ。
聞いてもどうしようもないこと、とは
 「あなたにとって野球とは」みたいな質問。
さらに
 「野球人生をかけた全力のプレーでしたね」
のような「はい」としか答えられない誘導尋問もくだらない。

昔、ロベルト・バルボンという通訳が阪急にいた。この人はスペイン語圏で育ったから日本語も英語もダメだったが、ヒーローインタビューでもよく駆り出された。


アナ(外国人選手に)「殊勲の安打でしたね」
バルボン 一応通訳する。
外国人選手 いろいろ話す。
バルボン「うれしいらしいわ!」
アナ「チームはまだ優勝の可能性が残っています」
バルボン 一応通訳する。
外国人選手 いろいろ話す。
バルボン「がんばる言うてるわ!」


べつにそんなのでも全く構わなかったのだ。

アスリートが素晴らしい言葉を持っているのは、みんな知っている。しかしそれは優れた聞き手がいなければ、引き出されることはない。
また、「素晴らしい言葉」が、アスリートの口から出てくるのは、試合直後ではなく、落ち着いて自らのパフォーマンスを振り返るゆとりができた時だ。
そして、アスリートの「いい言葉」を引き出すのは、スポーツをよく知り、アスリートを十分にリスペクトした聞き手だ。

今どきのスター気取りの卑しい顔をしたアナウンサーに何ほどのことができようか。
愚かな人がマイクを持っていくら走り回ったって、いい言葉など引き出せるはずもないのだ。


nabibu-Yakyu01
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