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【読者各位】
この記事は、livedoorブログ奨学金の奨学生ブロガー7人による共同企画「正力・原発、日本の漂流」の一環として書いています。ブロガーのテーマは様々ですが、一つの企画で書くことで、新たな展開があるのではないか、そんな思いで始めました。
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明日4月2日は、「ざまぁみやがれい!」さんです。
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昭和33(1959)年5月1日、「天皇(昭和天皇)はプロ野球をご覧になりたいようだ」との話が、郷里富山県高岡市の旅館にいた読売新聞社主、正力松太郎にもたらされた。
正力は、「なにぶん“おかみ”のことだから、慎重に」と冷静に答えたが、心中では「何としても巨人戦をご覧いただきたい」という気持ちが燃え上がっていた。

以後、正力一家と言われた日本野球連盟取締役野口稔、セリーグ会長鈴木龍二らが奔走して宮内庁の認可を取り付け、史上初の天覧試合は、昭和34(1959)年5月10日のデーゲーム、後楽園球場、巨人阪神戦と決まった。

しかし、日程は再度変更された。

昭和天皇は、皇居からしばしば水道橋方面が煌々と輝くのを見ておられた。
「あれは何か」
「はい、後楽園の野球でございます」
「夜でも野球ができるのか」
「大変盛んでございます」
という会話があり「ナイターを見たい」との意向を強く持っておられたのだ。
結局天覧試合は6月25日のナイター、巨人阪神11回戦に決定した。

後楽園球場は大改装が行われた。ロイヤルボックスは150万円をかけて拡張された。通路からロイヤルボックスに上がる階段はぴかぴかに磨きこまれた。あまりに磨きすぎたので、「滑って転ぶ恐れがある」と急きょ、投手が使うロジンバッグの粉がまかれた。

6月25日午後6時50分、天皇皇后両陛下が到着。井上登コミッショナーの先導で両陛下はロイヤルボックスにご着席。両陛下の間には説明役の中沢不二雄パリーグ会長が座る。巨人阪神の試合をパリーグ会長が解説するのは奇異なようだが、セパ両リーグのバランスを考えた政治的配慮だった。

両陛下の後ろには、正力松太郎が座った。宮内庁は一時「民間新聞社の社主が同席するのはいかがなものか」とクレームをつけた。そこで、阪神タイガース野田誠三オーナーも招ばれることとなった。対戦する両チームのトップが同席する形としたのだ。

試合は稀に見る好勝負となった。

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この試合に出場した両チームの21人の選手のうち9人がのちに野球殿堂入りしている。

試合は長嶋茂雄の劇的なサヨナラ本塁打で終わった。この試合で王貞治も本塁打を打っており、これが以後106回にもなるONアベック本塁打の第1号でもあった。

両陛下は9時15分には後楽園を後にしなければならなかったが、長嶋茂雄のサヨナラ本塁打が出たのは実に3分前の9時12分のことだった。

場内が熱狂の渦に巻き込まれている中、両陛下は椅子から立ち上がられ、帰途につかれた。先導役は正力松太郎が務めた。両陛下の方を少し振り返って正力は階段を降りはじめたのだが、15段ある階段の半ばで足を滑らせ、転んでしまった。

当時正力松太郎は74歳。この年の日本人男性の平均寿命は65.2歳だから立派な老人ではあったが、若いころに日本屈指の柔道家だった正力は、当時も夜は毎日ステーキを平らげる健啖ぶり。精気にあふれていた。この試合の劇的な幕切れに酔ったのか、天皇の威厳に萎縮したのか。

正力が足元をもつれさせるほどに動揺したのには、深い理由があった。

正力松太郎は1885(明治18)年富山県射水市に生まれた。昭和天皇より16歳の年長。第四高校に入学後は屈指の柔道家となるが、東京帝大を卒業後、1913(大正2)年に警視庁に入庁。エリート警察官僚として着々と実績を重ねていく。

1917(大正6)年、早稲田大学の学園紛争を鎮圧。
1918(大正7)年、米騒動鎮圧、従六位
1921(大正10)年、正六位、官房主事。位階は警視総監に次ぐNo2に。
1923(大正12)年、関東大震災後、警視庁警務部長。組織上もNo.2に。
しかし、この年12月27日、摂政宮(後の昭和天皇)が社会主義者の難波大助に狙撃される暗殺未遂事件(虎の門事件)が起こる。

警護責任を問われ、正力松太郎は、警視総監湯浅倉平とともに懲戒免官となる。38歳だった。
直後に摂政宮(昭和天皇)の婚礼により恩赦を受けたが、正力は、官僚に戻る意欲を失い、浪人する。しかし、正力を高く評価していた東京市長後藤新平などの仲介により、読売新聞を買収。資金は三井、三菱銀行が拠出した。

以後、正力は読売新聞を大衆紙として発展させた。1934(昭和9)年にはベーブ・ルースなどMLBの代表チームを招聘、これを契機として日本にプロ野球を誕生させた。

正力は、実業家としての成功に甘んじなかった。

1940(昭和15)年大政翼賛会総務。
1944(昭和19)年貴族院議員。
戦後、A級戦犯に指定され、公職追放。1947(昭和22)年に釈放されると、5年後には日本テレビ社長に就任、1953(昭和28)年には日本初の民間放送を開局させる。
1955(昭和30)年、衆議院議員に当選。
1956(昭和31)年、原子力委員会委員長に。原発を推進する。
1957(昭和32)年、第一次岸内閣で国務大臣。

エリート官僚として、総理大臣間違いなしと言われた正力は、下野したのちも国家権力への執念を抱き続けたのだ。

その根底には、臣下として虎の門事件で昭和天皇を守れなかったという深い悔恨、そして恩赦によって救われたことへの深い感謝の思いがあったのではないか。

天覧試合の行われた昭和34(1959)年、正力が買収したときわずか5万部だった読売新聞は300万部を超えていた。テレビ受像機は200万台を超え、プロ野球の観客動員数は850万人を超えた。そして2年後の稼働を目指して茨城県東海村では日本初の原子炉の建設が進んでいた。

まさにこの時期に、正力は昭和天皇を後楽園に迎えたのである。正力は終生昭和天皇を「おかみ」と呼んだ。取り返しのつかない不忠を成した臣下が、34年の歳月を経て「おかみ」にあいまみえる。半生をかけて、恐懼と感謝の意を表したいとの思いがあったのではないか。

絵に描いたような「さよならゲーム」によって、正力は、34年間の重たい鬱懐から解放された。解放感と自己陶酔が、ロイヤルシートから降りる階段で正力松太郎の足をもつれさせたのではないか。

昭和天皇は、このときの正力松太郎の転倒を終生覚えておられた。
1987(昭和62)年8月、日本武道館での戦没者追悼式の特設会場にしつらえられた階段を見た天皇は
「正力のようにならないか」
と危惧の念を宮内庁長官富田朝彦に洩らしておられる。天皇の腸の病気が明らかになる1か月前のこと。天皇自身体力に不安を持たれていたのだろう。

正力はこの18年前、1969(昭和44)年に84歳で世を去っている。

歴史に残る「天覧試合」によって、巨人はNPBで絶対的な地位を築いていく。そしてセリーグはパリーグに倍する観客動員数を獲得するようになる。読売新聞は世界一の発行部数1000万部を実現する。民放は新聞を超えるメディアとなる。そして原発は日本の産業の原動力となった。

「プロ野球の父」「民放の父」「原発の父」
正力松太郎は、「昭和」を建設した。正力にとって「昭和」とは、「おかみ」の名に他ならなかったのだ。



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