昨日、昭和20年代野球クラブの例会があり、例によって意義深い話を聞くことができた。
仙台在住の野球史家、伊藤正浩さんが大正時代の仙台野球界について、実にディープな話をしてくださった。
その中で耳寄りの話があった。
今、少年野球から大学野球まで、アマチュア野球が絶対にやる「試合前の礼」は、大正時代の仙台が発祥なのだという。
当時、「野球害毒論」の後遺症がまだあって、野球の試合をおおっぴらにやるためには「野球は“遊び”“スポーツ”ではなく、『武士道』である」という体裁を繕う必要があって、武道に倣って試合前に一礼することになったのだと言う。

今も、高校野球の指導者には「野球は武道である」という人が結構いるが、その「武道野球」のはじまりは仙台だったのだ。
そもそも「武士道」は、「野球害毒論」の代表的な論者である新渡戸稲造が同名の本を出したことによって流行した考えだ。
「野球は『武士道』である」という考えは、同じ東北出身の新渡戸におもねった結果なのかも知れない。
当時、スポーツという概念は日本には定着していなかった(今も十分とは言えないが)。
なぜスポーツをするのかの理由に「楽しいから」とか「スポーツは人生に必要だから」というのは通用しなかった(今もかなりそうだが)。
スポーツは、心身を鍛えるためにやる。鍛えられた体で、一朝ことあれば、すわ鎌倉でかけつけて国家に身命を賭すためにやるものだ。
という説明がなければ、野球、スポーツをすることができなかった。
いわば「礼」や、「野球道」は、スポーツをするための「方便」として生まれたのだ。もともとたいしたものではないのだが、こういう形での「窯変」をあたかも「日本古来の武道」のように正当づけて、大上段に構えてモノを言う人が多数出てきたのだ。
飛田穂州に代表される「野球道」論者は、「日本の野球はアメリカの野球とは違うのだ」と強調した。過酷な練習、徹底的な自己犠牲、厳格な上下関係、営利を求めない無欲などは、こういう形で形成されたのだ。
しかし「武士道」は日本古来の考え方でも、武士の伝統でもない。
戦乱がおさまった江戸時代、支配階級になった武士は、無為徒食のそしりを免れるために「武士の存在意義」を規定し、その思想的バックボーンとして、「忠孝」を中心とした儒教的な考え方を据えたのだ。
「武士道」は基本的に「家の存続」を第一にしている。世の中の変革や、身分の逆転などはあってはならず、変わらぬ世の中を未来永劫続けるための「規範」として存在したのだ。
しかし戦乱がとうの昔に終わった江戸時代、「武士道」は、思想的に純化する一方、現実から遊離したものとなった。
幕末、武士道の「本家本元」たる幕府旗本、御家人が、薩長の攻撃に手もなく降参したことを見ても「武士道」の形骸化がよくわかる。
(「武士道」という言葉は新渡戸稲造によって広められた。もとは「もののふの道」などと言ったようだ)。
明治維新後の支配階級も、体制維持のために「武士道」を利用した。近代的な軍政を敷くに当たっても「武士道」は転用された。上下関係を厳格に規定した「武士道」は、軍隊を統治する上で、非常に都合が良かったのだ。
この結果として、日本兵は精強で死を恐れぬと言われるようになったが、同時に陰湿で硬直的な支配体制の組織となった。軍隊ほど不正や汚職が多い組織はなかったが、これは形さえ守っておれば、中身は問わない「武士道」の弊害だろう。
日本では「兵隊」という言葉には「何も考えず、命を投げ出す」捨て駒というニュアンスがあるが、これも「武士道」の影響によると思われる。
「武士道」は、「礼に始まり礼に終わる」と言うが、そこに「精神性」があるかどうかは極めて怪しい。
形だけ、礼だけすれば、あとは何をしても良い、という一面があることを忘れてはならない。
日本の野球が世間から取り残されようとしているのは、端的に言えば、まだ「武士道」の残滓を引きずっているからだ。
私は軍隊調の「礼」は気味が悪いし、時代錯誤だからもうやめればいいと思っている。
1966年小川健太郎、全登板成績【エースとしての働き】
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野球やらせれば礼儀作法が身につく!と思って子どもに野球やらせてくれる父母も多いわけで。
どっちがいいとか結論づけることはできないと思いますし、だったら徹底的に「野球道」主義でいってしまった方がいいのではないかとも思いますが。
気になって検索したら、今年5月に「タピオ館立オープン大学」という講座で礼に始まり礼に終わる、という話をしたとのこと。
場所は仙台市の北部、泉区にある泉パークタウンにあるタピオという建物にあります。
近くには宮城県図書館やベガルタ仙台のクラブハウス、仙台ロイヤルパークホテルやアウトレットがあります。
私は仙台市南部、名取市に隣接するところに住んでいるため、伊藤さんのことは知りませんでした。
相手は手ごわいですからね。
選手(子供)を駒として育て、駒として使い、駒として捨てる。
最終的に形を破壊するためには甲子園大会をなくすこと。
そこまでしないと日本で野球がスポーツとして普及することは難しいのではと感じています。
でもまあ「礼」を否定するのはどうかと思います。形骸化してる面はどうにかしないとならないでしょうけどね。スポーツマンシップ、フェアプレー精神は教育の一環として求められるものでしょう。
観客サービスの一環らしいが、最近はプロ野球でも試合終了後に整列してスタンドに向かって礼をする場面が増加。ごつい男の集団に愛想を振りまかれてもリアクションに困りますね。その一方で西武ドームでは試合前の選手たちの練習をスタンドの最前列で眺めようとすると係員に追い払われたりもしますが、何だか観客サービスというものを取り違えているような気もします(笑)。
でも僕は野球をやっていて礼をするのは気分が良かったし、振り返ってみるとあれが試合モードに切り替わるスイッチでしたし気持ち悪いとも時代錯誤だとも思っていませんでした。
起源はどうあれ、お辞儀は普段の生活でもすることだし、相手に敬意を表したり健闘を称え合う場を設けるデメリットも特に無いと思うのですが。
「野球害毒論」の中では「巾着切の遊戯」、「野球は卑賤なり剛勇の気なし」という批判に加えて、「選手は作法に暗し」と指摘されていますので、世評を覆すために「礼」を行うようになったということは大いにあり得ます。
一方、「野球害毒論」の主要な論点であった「野球は学業に優先する」という明治末期から大正初期の学生野球界の状況に対する批判については、東京朝日新聞に「野球のために人生の道を誤った選手の一人」として取り上げられた河野安通志が野球の有用性と効用を広く社会に示すために日本運動協会(NAA)を結成する遠因となります。
NAAは午前に学課の勉強を行い、午後に練習をするというように、「学業と野球の両立」を目指し、さらに「職業野球の選手は学問に疎い」という世評を覆そうとしました。河野の取り組みも、「礼」を行うことによって「選手は作法に暗し」という批判を退けようとした学生野球の選手たちと同じ心理的構造を背景としているといえるでしょう(「野球害毒論」とNAAの関係については、小論「日本運動協会の設立についての社会文化学的分析」[https://researchmap.jp/mu5a9r5qp-18603/#_18603]で検討しております)。
なお、新渡戸稲造の『武士道』は、英米の知識人に対して「日本はあなたたちと異なる文化を持っているのではなく、むしろ諸君の文化と極めて近しいのだ」ということを主張するために書かれたものであるため、主たる読者は英語の話者が想定され、英語で執筆されています(この点についても、小論“The cross-cultural view toward the West in Okakura's The Book of Tea” [http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3027/3/ijt_08_06_suzumura.2.pdf] で検討しております)。
そのため、『武士道』の描くのは過度に美化された抽象的な武士の像となっています。しかし、その抽象性のために、論者に多様な武士の像の理解を許し、飛田穂洲のように「武士の高潔さ」を野球で体現しようとする人が登場する素地を提供したとするなら、実在した武士のあり様と乖離することは当然となります。
そして、そのような「どこにも存在しない武士」を追い求めた結果が形式的に行われる「礼」であるなら、ご指摘のように見直しや改善が図られてしかるべきでしょう。
「野球害毒論」についても小論「野球害毒論争の社会思想史的分析」(https://researchmap.jp/muw01dv52-18603/#_18603)で検討しておりますので、ご興味、ご関心のある方はぜひご一読いただければと思います。
試合前後の「礼」の発祥の件で、正しくお伝えできていない点があるようでしたので、僭越ながら指摘させていただきます。
・最初の試合前後の「礼」が行われた時期
明治44年11月の東北六県中等学校野球大会ですので、限りなく大正に近いのですが、正しくは明治末です。
・「武道野球」の発祥について
仙台発祥は、あくまでも試合前後の「礼」の形式です。
武士道野球論につながるような、野球の目的として精神修養を標榜したものとしては、明治30年代の一高野球部など先例がありますので、「武道野球」の発祥まで仙台とは言えないと思います。
1.>「武士道」は形だけ、礼だけすれば、あとは何をしても良い
ホンマかいな?
広尾さんが武士道的なものが嫌いなのはよく分かりましたが、武士道ってそんな薄っぺらいもんなんでしょうか?
2.1万歩譲って1が正しかったとして、礼をやめれば高校や野球は健全になるって、ホンマかいな?
× 高校や野球は
「おまえが武士道が嫌いだからだろう」と切り捨てられればそれまでですが、戦前の日本を破滅に向かわせたのは、まさに腐敗し、変容した「武士道」だと思います。
日本人に変なプライドを抱かせ、現実を見えなくさせたのも「武士道」でしょう。
具体的に、なにか「武士道のいい部分」あれば、教えてもらえますか?
「礼」をやめるくらいでは、高校野球は良くなるわけではないですよ。私、そういった覚えはないですが。
一例を挙げると、「指導者の指示に従う」というのは、勝利を目的とした集団においては普遍的に必須なことだと思います。
野球においてバントのサインを無視して、自由に打っていたら勝てる試合も勝てないでしょう。
軍隊でも兵士がそれぞれ勝手に好き勝手に攻撃していれば敵には勝てません。
作戦に従って全員が統制のとれた動きをする必要があるのです。
先日、サッカー日本代表に常連だった金崎夢生が選ばれなかったことはご存知でしょうか?
このことに洋の東西、競技の如何は関係ないんだなと思いました。
それこそ表面しか見ていない意見だと思います。
「指導者の指示に従う」ことは「武士道」を学ばなくてもできます。それをして「武士道の必要性」の論拠にするのは、全く説得力がない。
武士道って要は一つの道徳ですよね。
それを「形だけで中身はどうでもいい」と捉えてしまうのは違うのではないかと。
昔はそうではなかったけど、今の高校野球においては形骸化してしまったと言うなら少しは分かりますが。
武士道がダメなら、他に何か代わるものはありますか?
何もなしで好き勝手にやれってことですか?
プレイヤーファーストとか、グラスルーツとか、民主主義とか、武士道の1000倍くらい立派な考えがたくさんあると思います。
個人的には「武士道」は燃えないゴミと一緒に捨ててしまいたい、個人的に愛好される人は、それを他者に押しつけないでほしい。
監督や選手は選挙で決めるのでしょう。
AKBみたいに、神9とか呼ぶのでしょうね。
野球はサッカーのように「民主化すべきだ」 川淵三郎
AKB48がどうとか、レベル低いと思われるよ。