史上最もタフな大リーガーというのがふさわしいかと思う。
1934年2月生まれ、同年生まれにアル・ケーライン、ロベルト・クレメンテ、ルイス・アパリシーオ、カミーヨ・パスクアル、日本では1934年早生まれでは小川健太郎、大和田明、同学年では中西太、穴吹義雄、小野正一。
1952年、ボストン・ブレーブスと契約。この年にニグロ・リーグのインディアナポリス・クラウンズと契約していたが、MLBのスカウトの目にとまった。
当時はバットの持ち手が逆だったという逸話がある。
キャリアSTATS

(修正しました)
マイナーを2年で卒業し、1954年4月13日、開幕戦のシンシナティ・レッズ戦に5番左翼でデビュー、この試合は5打数0安打だったが、2戦目の15日のセントルイス・カーディナルス戦で6番左翼で1回に二塁打。投手はヴィック・ラスキ。
ブレーブスの3番はエディ・マシューズ、先発はウォーレン・スパーン、相手のカーディナルスの3番二塁はレッド・シェーンディースト、4番左翼はスタン・ミュージアル。
デビュー年で規定打席に達し、新人王投票で4位に入る。
翌年いきなり3割、27本塁打106打点。
若いころは中距離打者で、中年以降に長打が増える選手が多いが、数字を見る限り、ハンク・アーロンは天性の長距離打者だった。
またクラッチヒッターであり、打点を数多く稼いだ。
1956年には首位打者、1957年には、本塁打、打点の二冠に打率3位、スタン・ミュージアルを抑えてMVPに選ばれる。まだ23歳だった。ア・リーグのMVPはミッキー・マントル。
50年代は偉大な打者が両リーグで闊歩した時代だったのだ。
俊足であり、外野手としても守備範囲が広かった。1958年から3年連続でゴールドグラブ。ともにウィリー・メイズと共に受賞した。
デビューから18年連続規定打席以上。ほとんど故障知らずで、ハイレベルな数字を残し続けた。
3000本安打は1970年5月17日のレッズ戦、ダブルヘッダーの2試合目、3番右翼で先発して記録。
3500安打は1973年9月20日のドジャース戦、4番左翼で先発し記録。
600号を超えたころから、本塁打の通算記録が話題になる。1974年4月4日、レッズとの開幕戦でベーブ・ルースに並ぶ714号、4月8日のドジャース戦でアル・ダウニングから715号。これは日本でも大きく報道された。
このオフに王貞治とホームラン競争をする。単なる余興だが、日本人はこれを日米本塁打王の頂上対決だと思った。10対9でアーロンの勝ち。
この日のアーロンのユニフォームがブルーだったのを覚えているが、これは彼が11月2日にデーブ・メイらとのトレードで、アトランタ・ブレーブスからミルウォーキー・ブリュワーズに移籍したためだ。確か、ユニフォームは初お目見えだったはずだ。
2年、ブリュワーズでプレーして引退。
最高年俸は引退年の24万ドル。
殿堂入り資格1年目の1982年に97.8%の得票率で殿堂入り。
ベースボール・エンサイクロペディアの1ページ目の最初の選手は必ずハンク・アーロン。Aが二つ続く珍しい姓だったからだ。続いて弟のトミー・アーロン。5歳下で一塁と外野を守ったが、944打数216安打13本塁打94打点.229に終わった。弟は1984年45歳で死去している。
1970年松岡弘、全登板成績【投げれど、投げれど勝ち星は増えず】
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1952年、ボストン・ブレーブスと契約。この年にニグロ・リーグのインディアナポリス・クラウンズと契約していたが、MLBのスカウトの目にとまった。
当時はバットの持ち手が逆だったという逸話がある。
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マイナーを2年で卒業し、1954年4月13日、開幕戦のシンシナティ・レッズ戦に5番左翼でデビュー、この試合は5打数0安打だったが、2戦目の15日のセントルイス・カーディナルス戦で6番左翼で1回に二塁打。投手はヴィック・ラスキ。
ブレーブスの3番はエディ・マシューズ、先発はウォーレン・スパーン、相手のカーディナルスの3番二塁はレッド・シェーンディースト、4番左翼はスタン・ミュージアル。
デビュー年で規定打席に達し、新人王投票で4位に入る。
翌年いきなり3割、27本塁打106打点。
若いころは中距離打者で、中年以降に長打が増える選手が多いが、数字を見る限り、ハンク・アーロンは天性の長距離打者だった。
またクラッチヒッターであり、打点を数多く稼いだ。
1956年には首位打者、1957年には、本塁打、打点の二冠に打率3位、スタン・ミュージアルを抑えてMVPに選ばれる。まだ23歳だった。ア・リーグのMVPはミッキー・マントル。
50年代は偉大な打者が両リーグで闊歩した時代だったのだ。
俊足であり、外野手としても守備範囲が広かった。1958年から3年連続でゴールドグラブ。ともにウィリー・メイズと共に受賞した。
デビューから18年連続規定打席以上。ほとんど故障知らずで、ハイレベルな数字を残し続けた。
3000本安打は1970年5月17日のレッズ戦、ダブルヘッダーの2試合目、3番右翼で先発して記録。
3500安打は1973年9月20日のドジャース戦、4番左翼で先発し記録。
600号を超えたころから、本塁打の通算記録が話題になる。1974年4月4日、レッズとの開幕戦でベーブ・ルースに並ぶ714号、4月8日のドジャース戦でアル・ダウニングから715号。これは日本でも大きく報道された。
このオフに王貞治とホームラン競争をする。単なる余興だが、日本人はこれを日米本塁打王の頂上対決だと思った。10対9でアーロンの勝ち。
この日のアーロンのユニフォームがブルーだったのを覚えているが、これは彼が11月2日にデーブ・メイらとのトレードで、アトランタ・ブレーブスからミルウォーキー・ブリュワーズに移籍したためだ。確か、ユニフォームは初お目見えだったはずだ。
2年、ブリュワーズでプレーして引退。
最高年俸は引退年の24万ドル。
殿堂入り資格1年目の1982年に97.8%の得票率で殿堂入り。
ベースボール・エンサイクロペディアの1ページ目の最初の選手は必ずハンク・アーロン。Aが二つ続く珍しい姓だったからだ。続いて弟のトミー・アーロン。5歳下で一塁と外野を守ったが、944打数216安打13本塁打94打点.229に終わった。弟は1984年45歳で死去している。
1970年松岡弘、全登板成績【投げれど、投げれど勝ち星は増えず】
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コメント
コメント一覧
ところで、キャリアSTATSの"Aaron"が"Aeron"になっているようです。
年間200本安打は3回だけ、50HRを記録したシーズンはなし。
しかし右打者としては最多安打・ホームラン記録保持者。これだけでもどれだけ長い期間安定した成績を残し続けてきたかがわかります。(意外にも四球は少ない)
現役ではプホルズのスタッツがアーロンに近いですね。
史上最高の打者の1人にどこまで近づけるか注目です。