清武英利氏の「巨魁」は、野球史の本としても重要だと思うが、打者をRC27で評価すると違った一面が見えると言及した部分がある。
清武氏は、2009年、巨人の谷佳知のRC27が、チームで小笠原に次いで2位であることに着目し、彼を積極的に使うべきだと考えたのだ。


我が意を得たり、である。谷は地味ではあるが、レギュラーを張る価値のある選手なのだ。イチローよりも1学年上という年齢、2000本安打は遠のいた感があるが、力が衰えていないなら使ってほしい選手だ。
RC27は、打撃の「密度」を知るうえで貴重なSTATSだ。安打、長打、四死球、盗塁、盗塁死、犠打、犠飛まで、オフェンス面のすべての要素を盛り込んで、これを1試合当たりに換算している。打率、本塁打などの指標では見えない打者の充実度が見えてくる。
特に規定打席に達していない選手で、注目すべき数字を上げている選手がいる。
そこで、今回はRC27を規定打席に達しないレベルまで水準を下げたうえで各年ベスト5を見てみたい。
本当は1936年から2011年まで一気に見せたいのだが、pixelの都合もある。数回に分けて掲載する。
まずは戦前、1リーグ時代。Syokuyakyu師、ご覧いただいていますか?

1936年は春夏は50打席、秋は100打席、1937~38は150打席、以後は300打席以上で切ってみた。
初代RC27王は実に意外な顔。西村正夫は高松商業から関大を経て草創期の阪急に入った外野手。生涯打率は.230、通算本塁打は1本に過ぎないが、最初のシーズンに馬鹿当たりをしていた。春夏は個人成績の表彰がなかったが、あったとすれば首位打者はこの人だったろう。ショートシーズンではこういう例もありうる。西村さんは、私が知った時にはすでにお爺さんだったが、阪急の二軍監督を務めていた。小柄な人だった。
37年までは景浦将をはじめとするタイガース勢が上位を占める。「猛虎打線」の誕生だ。しかし以後は巨人勢が覇権を握る。短い戦前期でも勢力図はどんどん変化していった。
桝嘉一、伊藤健太郎など今は忘れられた強打者も名を連ねている。
黒澤俊夫と言えば、背番号「4」は永久欠番。この数字を見れば、重要な選手だったことが解る。
1944年は多くの選手が応召し、選手の数が減っていたために、投手の御園生崇男が4位にいる。
戦後に華々しく登場したのが、山本一人、飯島滋弥、別当薫、小鶴誠。野球が大きく変わっていったことがわかる。
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我が意を得たり、である。谷は地味ではあるが、レギュラーを張る価値のある選手なのだ。イチローよりも1学年上という年齢、2000本安打は遠のいた感があるが、力が衰えていないなら使ってほしい選手だ。
RC27は、打撃の「密度」を知るうえで貴重なSTATSだ。安打、長打、四死球、盗塁、盗塁死、犠打、犠飛まで、オフェンス面のすべての要素を盛り込んで、これを1試合当たりに換算している。打率、本塁打などの指標では見えない打者の充実度が見えてくる。
特に規定打席に達していない選手で、注目すべき数字を上げている選手がいる。
そこで、今回はRC27を規定打席に達しないレベルまで水準を下げたうえで各年ベスト5を見てみたい。
本当は1936年から2011年まで一気に見せたいのだが、pixelの都合もある。数回に分けて掲載する。
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1936年は春夏は50打席、秋は100打席、1937~38は150打席、以後は300打席以上で切ってみた。
初代RC27王は実に意外な顔。西村正夫は高松商業から関大を経て草創期の阪急に入った外野手。生涯打率は.230、通算本塁打は1本に過ぎないが、最初のシーズンに馬鹿当たりをしていた。春夏は個人成績の表彰がなかったが、あったとすれば首位打者はこの人だったろう。ショートシーズンではこういう例もありうる。西村さんは、私が知った時にはすでにお爺さんだったが、阪急の二軍監督を務めていた。小柄な人だった。
37年までは景浦将をはじめとするタイガース勢が上位を占める。「猛虎打線」の誕生だ。しかし以後は巨人勢が覇権を握る。短い戦前期でも勢力図はどんどん変化していった。
桝嘉一、伊藤健太郎など今は忘れられた強打者も名を連ねている。
黒澤俊夫と言えば、背番号「4」は永久欠番。この数字を見れば、重要な選手だったことが解る。
1944年は多くの選手が応召し、選手の数が減っていたために、投手の御園生崇男が4位にいる。
戦後に華々しく登場したのが、山本一人、飯島滋弥、別当薫、小鶴誠。野球が大きく変わっていったことがわかる。
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コメント
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また、村田修一の評価が低いことも清武さんと同様です。ただ、横浜時代より、少し肉が締まった印象があります。急に勝負弱さが変わるとは思えないのですが・・。
昭和11年に関しては極めて資料が少なく、公式記録も定かではありません。唯一の公式資料は「日本職業野球聯盟広報」となります。私が所有している同広報は鈴木惣太郎氏が残されたもので全号揃いです。野球体育博物館にもワンオーナー物はありません。
但し、野球体育博物館の職員の話では、山内以九士が後年調べた同広報の記録は正確ではない可能性があるとのことです。
まず、昭和11年の春・夏と秋の分類について解説します。
春に分類されるのは「第一回日本職業野球リーグ戦」のことと思われますが、ジャイアンツは第2回アメリカ遠征のため出場していません。同リーグ戦は3つのリーグ戦で構成されますが、甲子園リーグには6チームが参加していますが鳴海リーグ及び宝塚リーグには金鯱が参加していません。夏に分類される「聯盟結成記念全日本選手権」はトーナメント大会ですから試合数はバラバラになります。
西村正夫の記録は私が「日本職業野球聯盟広報」のテーブルスコアを手計算で集計すると62打数25安打、打率4割3厘となりますので史上唯一の4割バッターが誕生します(笑)。但し、上記のとおり正確ではない可能性があります。
日本野球機構オフィシャルサイトでもこの分類としています。同サイトによると公式記録は「第2回全日本野球選手権」からとなっていますがネット上では統一はとれていません。
36年春夏と37年秋二位のサム高橋吉雄はハワイからやってきた日系二世です。表のとおり戦前随一のホームランバッターですが肩が弱くショートの守備はひどかった。
36年秋一位の藤井勇は二塁打が多かった。鳥取一中時代は甲子園で澤村栄治から二塁打を打っています。
伊藤健太郎は当時のジャイアンツのメンバーで唯一野球殿堂入りしていません。千葉茂は自伝で絶賛しています。中島治康と違って四球が多かったのでランク上位となっています。
37年春二位の山口政信と38年春一位の桝嘉一は四球が多かった当時でもIsoDが突出しています。山口は37年春・秋の四球王、桝嘉一は通算451安打で404四球を選んでいます。