少年の野球離れが深刻だということは、何度も紹介してきた。小学校で野球を学ばせようという意見も出ている。実際にそういう取り組みも始まっている。
しかしながらそういう取り組みが、花開く可能性は少ないと思う。
NPBは、今、ティーボールのようなベースボール系のボールゲームの普及に力を入れているが、なかなか普及していない。
教える立場の教師が、野球を知らないケースが多くて、ルール等は教えることができても、ゲームの流れなどはちゃんと教えられないのだという。
それも深刻な話だが、そもそも学校の体育の授業で、スポーツが好きになるというのはあまりないのではないかと思う。
スポーツは、心身共に健康に生活するために必須の文化だった。「学ぶ」は基礎的な知識やルールの段階までであって、あとは「遊ぶ」「楽しむ」ものだった。競技性はあくまでスポーツをより興味深いものにするための「手段」であり、目的ではなかった。
しかし日本の学校では、スポーツを頭で理解させようとする。「こら、まじめにやれ」などと言って、生徒に知識を植え付けようとする。あまつさえ、ペーパー試験なども実施したりする。
そして学校で専門的にやろうと思えば、いきなり「競技」になる。真ん中の、一番重要な「遊ぶ」「楽しむ」はすっ飛ばされるのである。

日本人は「遊ぶ」ことに罪悪感、後ろめたさを持っている。
「これは遊びじゃないんだ」とは「真剣」「真面目」であることを言うが、スポーツのように「真剣に遊ぶ」ことが大事な文化を本当に享受するのは、苦手なのだ。
昔、子供たちが寝ても覚めても野球、野球と夢中になったのは、学校で学んだからではない。テレビでプロ野球を見て、空き地で野球ごっこをしたからだ。熱心な子供は少年団などで野球を教わったが、そういう子供も含め、放課後の「野球遊び」が日本の野球ファンの原点なのだ。
野球を学校の授業で教えなかったのは「遊びの要素」が強すぎるからだ。「面白すぎる」ものは、学校の授業にはふさわしくなかったのだ。
小学校の時、ごくまれに体育でソフトボールをするときがあった。そういうときは、普段教室で死んだようになっている男の子が、休み時間の内から校庭に飛び出して、ベースを置き、ダイヤモンドのラインを引き、キャッチボールをしていたものだ。
まさのに目の色が違っていた。
昔の教師は「これだから、野球は教育にはならない」と思っていた。先生がいかめしい顔で教えて、子供がそれに従う、という図式に当てはまらないものは、日本の教育ではアウトだったのだ。
野球の普及を考えるのなら、近所の草野球、野球ごっこへの支援をするべきだ。
それは、いまだに星一徹みたいな教え方をする少年野球チームへの支援とは限らないだろう。
もっとゆるい、もっと楽しい、わくわくするような野球ごっこの復活へ向けて。地域のコミュニティやこども会などに支援をするのが適切ではないかと思う。
山本一義、全本塁打一覧|本塁打大全
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教える立場の教師が、野球を知らないケースが多くて、ルール等は教えることができても、ゲームの流れなどはちゃんと教えられないのだという。
それも深刻な話だが、そもそも学校の体育の授業で、スポーツが好きになるというのはあまりないのではないかと思う。
スポーツは、心身共に健康に生活するために必須の文化だった。「学ぶ」は基礎的な知識やルールの段階までであって、あとは「遊ぶ」「楽しむ」ものだった。競技性はあくまでスポーツをより興味深いものにするための「手段」であり、目的ではなかった。
しかし日本の学校では、スポーツを頭で理解させようとする。「こら、まじめにやれ」などと言って、生徒に知識を植え付けようとする。あまつさえ、ペーパー試験なども実施したりする。
そして学校で専門的にやろうと思えば、いきなり「競技」になる。真ん中の、一番重要な「遊ぶ」「楽しむ」はすっ飛ばされるのである。

日本人は「遊ぶ」ことに罪悪感、後ろめたさを持っている。
「これは遊びじゃないんだ」とは「真剣」「真面目」であることを言うが、スポーツのように「真剣に遊ぶ」ことが大事な文化を本当に享受するのは、苦手なのだ。
昔、子供たちが寝ても覚めても野球、野球と夢中になったのは、学校で学んだからではない。テレビでプロ野球を見て、空き地で野球ごっこをしたからだ。熱心な子供は少年団などで野球を教わったが、そういう子供も含め、放課後の「野球遊び」が日本の野球ファンの原点なのだ。
野球を学校の授業で教えなかったのは「遊びの要素」が強すぎるからだ。「面白すぎる」ものは、学校の授業にはふさわしくなかったのだ。
小学校の時、ごくまれに体育でソフトボールをするときがあった。そういうときは、普段教室で死んだようになっている男の子が、休み時間の内から校庭に飛び出して、ベースを置き、ダイヤモンドのラインを引き、キャッチボールをしていたものだ。
まさのに目の色が違っていた。
昔の教師は「これだから、野球は教育にはならない」と思っていた。先生がいかめしい顔で教えて、子供がそれに従う、という図式に当てはまらないものは、日本の教育ではアウトだったのだ。
野球の普及を考えるのなら、近所の草野球、野球ごっこへの支援をするべきだ。
それは、いまだに星一徹みたいな教え方をする少年野球チームへの支援とは限らないだろう。
もっとゆるい、もっと楽しい、わくわくするような野球ごっこの復活へ向けて。地域のコミュニティやこども会などに支援をするのが適切ではないかと思う。
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コメント
コメント一覧
普段、高校野球をテレビの前で熱心に見ている友人などに「草野球をやらないか」と誘っても「野球をやるには敷居が高い。遊びでやるのはしんどい」という答えが返ってきます。改めて野球普及の難しさを感じました。広尾さんが指摘するように、このままプレイヤーが減っていたら野球衰退は必須だと思われます。
気軽にふれあうことから、自然と
「将来のプレイヤー」と「野球おもしろいね=ファン」
が増えていけばいいですね!
テレビでも野球場でもいいですが、何かで野球を見て興味を持ち、野球を始めた子ども達を支援すべきであって、興味のない子ども達に無理やり野球をやらせるのは間違いです。
ましてや野球は特殊なルールのもとに実施される競技であり、多くの子ども達の最大公約数的な競技としては不向きです。
それこそ、授業で野球をやらせるなど、子ども達のためになりませんし、そもそも授業は特定の競技の普及を目的とするものではありません。
野球の普及を考えるのであれば、現実的にはスポーツ少年団など、子ども達の野球チームへの支援に集中して実施されるべきだと考えます。
そして、遊びへの支援ですが、これが本来は一番重要なものになると思います。
ただ、実際には具体的に何を支援するか、なかなか難しいのではないかとも感じます。
野球禁止の公園に税金でネットを張るにしても、野球のために公園を区分けしていいのか、などと言われかねません。
また、そもそも遊びというのは大人に支援されて行うものではなく、専ら子ども達の意思で行うものだとも思います。
ここまで考えると、支援自体が不要ではないかとも思えてしまい、なかなか難しいところではありますね。
満員の球場の打席に立ってみたいわー。
大都市の狭い公園での球技、特に野球はとても危険ですから。
公園を利用する大多数の市民は野球には無関係であり、当たって失明しても自己責任、というわけにはいきません。
野球的には残念な話ですが、野球の理屈を関係ない大多数の人に強制することはできませんからね・・・。
それこそスマホゲームとか、賭けゲームとかで。
相当な工夫が必要ですが。
「空き地」が消え、「公園」では球遊びが禁じられ、学校のグラウンドは予約でびっしり埋まってる。自由にボールを投げ、バットを振ってよいスペースを用意してあげれば状況はかなり変わるはずです。
たとえば「三角ベースが楽しめる球技用公園を全国に毎年50ずつ増やしていく」といった公約を掲げてNPBなり選手会なりが動いてくれると理想的なのですが。ROUND1のような運動系アミューズメント企業と提携するなど、いろいろ手はあるはずです。