ON以前のセ・リーグを代表する強打者。死球禍でキャリアを縮めた。
1926年元旦生まれ。
同年早生まれには坂本文次郎、指導者の若宮誠一、同学年に近藤貞雄、杉下茂、武智修、与那嶺要、MLBではヨギ・ベラ、デル・エニス、ハーベイ・ハイデックス。
旧制岡崎中学、軟式のユタカ産業を経て1926年に中日入り。
キャリアSTATS

当時としては巨漢。軟式出身だったが、1年目からレギュラー。
初出場は1948年開幕戦4月4日の鳴海球場の大陽戦、左翼水野良一の代打で出場。
初安打は3試合目の後楽園球場、急映戦。水野に代わって途中から左翼を守り、延長10回に黒尾重明から決勝2ラン。派手なデビューだった。
当時としては屈指の強打者であり、2年目にはキャリアハイの31本塁打。1952年には元チームメイトの杉浦清(国鉄)に2本差をつける27本塁打で本塁打王。アベレージヒッターではなかったが、この年3割。
1954年には打点王となるが、この年の日本シリーズの第1戦、10月30日の西鉄戦、8回無死で西村貞朗から頭部に死球を受けて昏倒。山崎善平が代走に出る。以後のシリーズを欠場するような重症であり、引退の懸念さえあった。
翌年復帰するも以後は成績が急落。投手が球をリリースした瞬間に体を引いてしまう悪癖が抜けなかった。
1954年までの7年間に152本塁打だったが、1955年以降の6年では57本。
1959年に自由契約となり国鉄に移籍、さらに自由契約となり、近鉄に移籍するも結果が出ずに1960年に引退した。
引退後は中日、東映、日本ハムなどでコーチを務めた。
1973年加藤初、全登板成績

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同年早生まれには坂本文次郎、指導者の若宮誠一、同学年に近藤貞雄、杉下茂、武智修、与那嶺要、MLBではヨギ・ベラ、デル・エニス、ハーベイ・ハイデックス。
旧制岡崎中学、軟式のユタカ産業を経て1926年に中日入り。
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当時としては巨漢。軟式出身だったが、1年目からレギュラー。
初出場は1948年開幕戦4月4日の鳴海球場の大陽戦、左翼水野良一の代打で出場。
初安打は3試合目の後楽園球場、急映戦。水野に代わって途中から左翼を守り、延長10回に黒尾重明から決勝2ラン。派手なデビューだった。
当時としては屈指の強打者であり、2年目にはキャリアハイの31本塁打。1952年には元チームメイトの杉浦清(国鉄)に2本差をつける27本塁打で本塁打王。アベレージヒッターではなかったが、この年3割。
1954年には打点王となるが、この年の日本シリーズの第1戦、10月30日の西鉄戦、8回無死で西村貞朗から頭部に死球を受けて昏倒。山崎善平が代走に出る。以後のシリーズを欠場するような重症であり、引退の懸念さえあった。
翌年復帰するも以後は成績が急落。投手が球をリリースした瞬間に体を引いてしまう悪癖が抜けなかった。
1954年までの7年間に152本塁打だったが、1955年以降の6年では57本。
1959年に自由契約となり国鉄に移籍、さらに自由契約となり、近鉄に移籍するも結果が出ずに1960年に引退した。
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1973年加藤初、全登板成績

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