昨日、家で仕事をしていたら、割とかさばる荷物が届いた。「ベースボールカード」と書いてある。うちの奥さんが「キッ!」とにらみつけた。「またこういうもの買って!」というビーム光線だ。
いやいや、私は買った覚えがない。袋を開けてみると、ご存じ、ベースボールカードの第一人者、しゅりんぷ池田さんからの「お年賀」だった。
最近発売された「BBMベースボールカード タイムトラベル1975」など が、バインダーにきれいに収納されている。
ページをめくるたびに胸が躍った。1975年と言えば、私が大阪の高校に通っていたころだ。歩いて行くことができた日生球場や、大阪球場でプロ野球を観戦していたころだ。
その頃の選手が、小さなカードになってきれいに並んでいる。
「なんちゅーことしてくれるねん!」ずっと封印していた私のコレクション魂に火がついてしまうではないか。
家の中を探せば、いろんな機会にもらったり雑誌の付録だったりしたカードが結構あるはずだ。それをバインダーに収納したい、そんな気持ちがふつふつとわいてきた。

うちの奥さんからすれば、ただの厚紙にすぎないが、私にとってはこの小さなカードはお宝だ。写真も裏面の情報も、みんな自分の記憶と重なる。かけがえのないものだ。

野球関係のグッズというのは、そういうものなのだ。関心、興味のない人から見れば、無価値に見えるが、思い入れのある人には、かけがえのない宝物になる。

先日来、野村克也が故郷の網野町(現京丹後市)に寄贈した三冠王やリーグMVPなどの記念品の大半が、京丹後市で眠ったままになっているというニュースがあった。
「野村克也記念館」の構想があって、本人が寄贈したようだが、これが立ち消えになったようだ。

野村克也の実績のほぼすべては、南海ホークスで挙げたものだ。本来なら、これらの品々は大阪、難波の大阪球場の跡地にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」に寄贈されるべきものだろう。
しかし野村は1977年に球団を追われた経緯から、この施設での一切の掲示を断っている。
数ある南海の選手の中でも、最大の功績を残した選手でありながら、文字による記録以外は、写真もユニフォームやトロフィー類も、一切ないのだ。
杉浦忠のユニフォームや鶴岡親分のスタジャンはあるが、野村にまつわるものは一切ない。

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私はこのギャラリーに行くたびに切ない気持ちになる。40年も経つのだから、そして当時を知る人もほとんど鬼籍に入ったのだから、いい加減に振り上げたこぶしを下してはどうだろう。

野村が寄贈した記念品は、段ボールに詰められて放置されていたという。中身を確認したかどうかも怪しい。

こうしたメモリアルグッズは、行政に寄贈、寄託されることが多いが、博物館など専門施設以外では、大切に扱われることは少ない。

千葉県船橋市に「吉澤野球博物館」という個人博物館があった。戦前の職業野球や大学野球のコレクションでは、野球殿堂博物館を上回るのではないかと言われる。また野球人たちのインタビューの音声なども収蔵していた。
しかし、館長の高齢化のため2014年閉館。一昨年、館長が死去し、収蔵物は船橋市に寄贈された。市は昨年5月に4日間だけこの展示を行った。しかし、その後は再度展示の予定はない。財政難の折から、収蔵物はデッドストックされるようだ。

行政職員は「法律、ルールは守るが、責任は取らない、仕事への熱意はない」が基本スタンスだ。
見る人が見れば、どんな素晴らしいお宝でも、権威によるお墨付きがない限り、自分で価値を見出したりしない。で、責任は取りたくないから、放置しようとする。担当の代替わりが進めば、いつしか「お宝」の存在さえ忘れ去られてほこりをかぶるのが関の山だ。

野村克也は「メモリアルグッズは好きな人に上げてください」と言っているようだが、三冠王の記念品など、野球史を彩る偉大なグッズは、もはや野村一人のものではない。
また「なんでも鑑定団」の鑑定人がたいそうな値段をつけたようだが、本当に野球文化を愛しているかどうかわからない投機筋にグッズが渡って、散逸するのもさけたいところだ。

「南海ホークスメモリアルギャラリー」か「野球殿堂博物館」に寄贈しなおして、本当に価値のわかる人々に見てもらえるようにするのが筋だろう。

南海ホークスなくして、野村克也を語ることは絶対にできない。恩讐をこえて自らの手で「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、思い出の数々を持参するべきではないか。


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