今季、殿堂入りした星野仙一と平松政次は、同じ1947年生まれ(学年は星野が1学年上)ともに岡山では屈指の投手だった。同時代には倉敷商で星野の1年下の松岡弘、関西の森安敏明という傑出した投手もいた。

この4人の投手の高校時代からの軌跡を並べてみよう。

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1年上の星野仙一は倉敷商では甲子園に出場できずに明治大学に進む。ここでも優勝できなかったが23勝を挙げた。

星野の1年下の松岡弘は、65年準決勝では岡山東の平松政次と再試合の熱戦を演じるが敗退。三菱重工水島を経てヤクルトへ。

平松政次は65年春の優勝投手。準決勝で松岡弘の倉敷商、決勝では森安敏明の関西を下して春夏連続出場を果たすが、1回戦敗退。中日の指名を蹴って日本石油に入団、1年後、大洋に入団。

森安敏明は65年夏、決勝まで進むが平松の岡山東に敗れて甲子園出場ならず。ドラフト1位で東映へ。

森安は高校1年目から頭角を現し4年連続二けた勝利を挙げるが、1970年、黒い霧事件で永久追放される。1998年に死亡している。

森安の1年後に大洋に入った平松は3年目には頭角を現し、大洋のエースとして活躍した。

さらに1年後に入団した松岡弘は、弱いヤクルトのエースとして18年間投げる。リーグ初優勝の1978年には16勝を上げる。4人の中では最後まで投げて、191勝を挙げる。

1番年長の星野仙一は最後にプロ入り、この時点で森安は42勝を挙げていた。
先発救援何でもござれの快投で146勝を挙げて、1982年に引退。以後は指導者の道に。

人の一生はわからないと思う。最も早熟で春秋に富んでいるかに見えた森安が一番早くに消えて、寂しく世を去った。
残る3人も、指導者として大成し、合わせ技で殿堂入りした星野、200勝を挙げるも70歳近くまで認められなかった平松、成績で見劣りしないも殿堂入りの可能性が閉ざされた松岡弘と、公平とは言えない結果になっている。

殿堂入りだけが人生の目標ではないだろうが、複雑な思いがする。


1974年星野仙一、全登板成績【巨人を止めた最多セーブ&沢村賞

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