わずか1262安打での殿堂入りだが、異論を唱える人はいないだろう。
中西太、全本塁打一覧(前編・1952~1956)|本塁打大全
1933年4月生まれ。同い年に島原 幸雄、沖山 光利、吉田 義男、金田 正一、三浦 方義 、備前 喜夫、佐々木 信也、石川 克彦、飯尾 為男、伊藤 芳明、MLBではロッキー・コラビト、ジョン・ローズボロティト・フランコーナー。
高松一高から毎日、西鉄の争奪戦を経て西鉄に。高校時代からその豪打は鳴り響いていた。
キャリアSTATS

初出場は、1952年3月21日の開幕戦、福岡春日原球場の近鉄戦、7番・三塁手で先発出場し、4回裏に沢藤光郎から右中間へエンタイトル二塁打。新人王を獲得。「怪童」と呼ばれる。
翌年にはトリプル3を達成。デビューから7年で本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回。
二冠王4回。
本塁打、打点の2回を取って打率2位が2回。50年代前半の最強打者だった。
足も速く、選球眼もよく、欠点がない打者だった。
1958年時点で3167打数988安打190本塁打610打点、打率.312。
1000本安打は1959年5月20日、平和台の東映戦、4番三塁で先発し、6回裏に牧野伸から記録。まだ26歳。2000本安打はらくらくクリアすると思われた。
しかしこの年6月3日の平和台、近鉄戦で小玉明利のスライディングを右手に受けて戦線離脱。
さらに左手の腱鞘炎を発症。
調子のよいときは持ち前のパワーを発揮するが、バットを振るのも難しい時期もあり、以後はフル出場がかなわなくなる。
フルスイングが持ち味だっただけに、完全復帰は極めて困難だった。
1962年には29歳で兼任監督に。監督成績。

1969年まで兼任監督。「代打俺」の元祖である。
この年の10月8日の平和台球場での南海戦に代打に立ったのが最後の打席。
本人はこの形で次年度もやる気だったが、「黒い霧」事件が発生し、監督の退任と現役引退が決まった。
以後は打撃コーチとして若松勉、宮本慎也、岩村明憲らを育てる。その他にもチームを問わない多くの選手を指導。名伯楽だった。
監督としては阪神時代に「ベンチがあほやから」事件に巻き込まれたのは気の毒だった。
1999年殿堂入り。
三村敏之、全本塁打一覧|本塁打大全
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!


高松一高から毎日、西鉄の争奪戦を経て西鉄に。高校時代からその豪打は鳴り響いていた。
キャリアSTATS

初出場は、1952年3月21日の開幕戦、福岡春日原球場の近鉄戦、7番・三塁手で先発出場し、4回裏に沢藤光郎から右中間へエンタイトル二塁打。新人王を獲得。「怪童」と呼ばれる。
翌年にはトリプル3を達成。デビューから7年で本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回。
二冠王4回。
本塁打、打点の2回を取って打率2位が2回。50年代前半の最強打者だった。
足も速く、選球眼もよく、欠点がない打者だった。
1958年時点で3167打数988安打190本塁打610打点、打率.312。
1000本安打は1959年5月20日、平和台の東映戦、4番三塁で先発し、6回裏に牧野伸から記録。まだ26歳。2000本安打はらくらくクリアすると思われた。
しかしこの年6月3日の平和台、近鉄戦で小玉明利のスライディングを右手に受けて戦線離脱。
さらに左手の腱鞘炎を発症。
調子のよいときは持ち前のパワーを発揮するが、バットを振るのも難しい時期もあり、以後はフル出場がかなわなくなる。
フルスイングが持ち味だっただけに、完全復帰は極めて困難だった。
1962年には29歳で兼任監督に。監督成績。

1969年まで兼任監督。「代打俺」の元祖である。
この年の10月8日の平和台球場での南海戦に代打に立ったのが最後の打席。
本人はこの形で次年度もやる気だったが、「黒い霧」事件が発生し、監督の退任と現役引退が決まった。
以後は打撃コーチとして若松勉、宮本慎也、岩村明憲らを育てる。その他にもチームを問わない多くの選手を指導。名伯楽だった。
監督としては阪神時代に「ベンチがあほやから」事件に巻き込まれたのは気の毒だった。
1999年殿堂入り。
三村敏之、全本塁打一覧|本塁打大全
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中!
コメント
コメント一覧
1953年は120試合でトリプルスリーなんですね。これは驚きです。
1953年~1958年まで7年連続打撃3冠タイトルを獲得。1953~1956年、1958年にはリーグ最高長打率&リーグ最高OPS。確かに1950年代の最強打者ですが、西鉄の連覇が始まった1956年からは徐々に成績を落としつつあったわけですね。
この頃になると、野村克也さんや山内和弘さんが台頭してくるわけですから。山内さんも確か最高出塁率を何度か取ってるはず。
1954年の初優勝では中西&大下、1956年には中西&豊田のコンビは結構凄まじいものです。
日本シリーズでは豊田さんの活躍が凄まじいものですね。
西鉄が強かったのも納得です。