昔の野球少年なら誰でも知っていた巨人V9戦士。
土井正三本塁打大全
1942年6月生まれ。同年生まれに伊藤勲、船田和英、アーロン・ポインター、、森本潔、永渕洋三、徳久利明、MLBではトニー・ペレス、バート・キャンパネリス、ファージー・ジェンキンス、ジェリー・クーズマン。
育英高校、立教大を経て1965年、巨人入団。
キャリアSTATS

六大学のエリート選手。
初出場は、1年目の開幕3試合目の1965年4月12日、後楽園の中日戦、8番・遊撃手で先発出場し、、5回裏に河村保彦から初安打。
1年目は広岡達朗の控えの遊撃手だったが、途中から二塁を守り、2年目は須藤豊の後釜として正二塁手に。
この年最多犠打。
2番打者として、つなぐ野球の担い手として活躍。翌年には打撃10傑に入る。
二塁守備は堅実で破たんが少なかった。足も速く、走塁もうまく、1969年日本シリーズでの岡村浩二のまた抜きの本塁接触は球史に残る好プレーとされる。
V9中の二塁は土井正三以外には、ユーティリティの上田武司、滝安司がいたが、ほぼ定位置。南海から来た冨田勝は、1年目には二塁を守ったが、この競争にも勝つ。
V9最終年は遊撃に河埜和正を抜擢したため、黒江とともに二塁で併用される。
しかし翌年以降は正二塁手の座を取り戻し、36歳になる1978年も健在で、ダイアモンドグラブを受賞したが、コーチ就任を要請され受託。今なら考えられない「讀賣の社内人事」だった。
1000本安打は、1975年9月4日、後楽園の大洋戦、2番二塁で先発し、9回裏に山下律夫から三塁内野安打。
引退後は巨人コーチを経てオリックスの監督。
監督成績。

1992年にイチローが入団。その打撃をめぐって確執があったとされ、3年連続Aクラスだったにもかかわらず、以後監督をすることはなかった。
病を得て2009年没。晩年は車いすでイベントに参加していたのが痛々しかった。
三村敏之、全本塁打一覧|本塁打大全
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育英高校、立教大を経て1965年、巨人入団。
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六大学のエリート選手。
初出場は、1年目の開幕3試合目の1965年4月12日、後楽園の中日戦、8番・遊撃手で先発出場し、、5回裏に河村保彦から初安打。
1年目は広岡達朗の控えの遊撃手だったが、途中から二塁を守り、2年目は須藤豊の後釜として正二塁手に。
この年最多犠打。
2番打者として、つなぐ野球の担い手として活躍。翌年には打撃10傑に入る。
二塁守備は堅実で破たんが少なかった。足も速く、走塁もうまく、1969年日本シリーズでの岡村浩二のまた抜きの本塁接触は球史に残る好プレーとされる。
V9中の二塁は土井正三以外には、ユーティリティの上田武司、滝安司がいたが、ほぼ定位置。南海から来た冨田勝は、1年目には二塁を守ったが、この競争にも勝つ。
V9最終年は遊撃に河埜和正を抜擢したため、黒江とともに二塁で併用される。
しかし翌年以降は正二塁手の座を取り戻し、36歳になる1978年も健在で、ダイアモンドグラブを受賞したが、コーチ就任を要請され受託。今なら考えられない「讀賣の社内人事」だった。
1000本安打は、1975年9月4日、後楽園の大洋戦、2番二塁で先発し、9回裏に山下律夫から三塁内野安打。
引退後は巨人コーチを経てオリックスの監督。
監督成績。

1992年にイチローが入団。その打撃をめぐって確執があったとされ、3年連続Aクラスだったにもかかわらず、以後監督をすることはなかった。
病を得て2009年没。晩年は車いすでイベントに参加していたのが痛々しかった。
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コメント
コメント一覧
イチローとの確執というのは、巷間伝えられている俗説だという話もあるので、何とも言えませんね。ご本人はそれについてきっちりと反論していないようですが
当時の打撃コーチが土井監督よりも10歳年長で、かつ大打者である山内一弘。このへんにヒントがありそうな気がします。
土井正三が亡くなった時、イチローは、そうではない、と言ってますよね。
土井がオリックスの監督を辞任したのも、イチローのことが原因ではなく、昔風の厳しさがオリックスの風潮とは合わず、それが松永や熊野、ブーマーの移籍に繋がったり、ファンから受け入れられなかったのが原因ではないかと思います。
イチローの振り子打法を否定はしていましたが、才能は二軍時代から認めていたようですし、当時のオリックスは外野層が厚かったので、一軍で40試合程度で1割では使い続けられなかったのではないかと思います。
そもそも、批判してる人は結果論から批判してる人ばっかりです。
イチローが活躍したから批判し始めたのであって、並の成績で終われば批判されなかったはず。
実際に川上監督や宮内オーナーにも
「凄い選手がいるから来て下さい」
と言ってるくらいですからね。
そもそも振り子にしたって、当時のベテラン選手でさえ否定的だったと聞きますから。
2年目はジョンソンのコンバートでボジションを奪われてました。
3年目以降もリンドとのボジション争いには勝ちましたが、シピン加入で人事異動の憂目にあっての引退は残念でした。
今の時代なら後輩の川相のように他球団で現役続行の選択もあったかもしれませんね。
無知蒙昧をさらけだしましてお恥ずかしい。修正します。
土井正三 と イチロー
どちらも
抑圧的な日本野球 と そのアンチテーゼ
という図式で語られることが多いですね
小ぶりで浅いグラブにこだわり、セカンド用グラブの原型を世に広めたのは彼かと。(あと守道も。)