お世話になっている週刊ポストさんの最新号に、野村克也のぼやきが載っている。
月刊『本の窓』(3、4月合併号)の連載で、黒田博樹の永久欠番について
「メジャー球団から年俸二十億円ともいわれるオファーを受けながらも古巣に復帰し、二十五年ぶりのリーグ優勝に貢献した“男気”が評価されたということなのだろう。とはいえ──黒田に対しては何のうらみつらみもないものの──このニュースを聞いて、正直、思った。“永久欠番も安っぽくなったなあ……”」
と書き、
「黒田の功績にケチをつける気は毛頭ない。しかし、彼の背番号が永久欠番になるのなら、ほかになってしかるべき選手がいると思うのだ。その代表がこの私だ。おこがましさを承知で書くが、私の『19』が永久欠番になっていないのはおかしくないか?」

と書いたのだ。ケチをつけているとしか言いようがない。
黒田博樹が南海の先輩選手黒田一博の子で、野村と反目した鶴岡一人に小さいころから目をかけられていたことが影響しているのかどうか。

私の十代は野村克也とともにあったが、うんざりだ。往年の大選手が本当に情けないことをいうものだ。

黒田博樹は、広島ファンに与えた感動を抜きにしても、永久欠番に値する。20勝投手が消えた時代にあって、最多勝、防御率のタイトルを獲得し、124勝。MLBでの成績を加味しても、彼は十分に有資格者だ。

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野村克也の「19」は、確かに永久欠番になってしかるべきだった。それがそうならなかったのは、野村がホークスを不幸な形で去ることになったからだ。
解任を求める球団側と野村は対立し、結果的に野村は弟子分の選手とともに球団を追われた。

野村にも言い分はあるだろうが、こうした泥仕合の責任の一端は明らかに野村の側にある。南海役員の娘だった元夫人との離婚、現夫人サッチーとの再婚は、プライベートではある。しかし、サッチーが球団人事にも口をはさんだと言われる事態は、深くファンや球団の憂慮するところとなった。
鶴岡一人との確執もうわさされたが、それらを含めて、野村克也は半ば「身から出た錆」で南海を去ったのだ。

確かに球団も野村克也に敬意を表し、「19」を空席にすべきだったとは思う。野村去って4年後には山内孝徳に「19」を与えてしまうのだ。南海ホークスも心無い仕儀だったとは思う。こんなんだから身売りの憂き目にあうのだ。

しかしながらその後も和解のチャンスはあった。1988年に南海が身売りし、縁もゆかりもない福岡の球団になったタイミングで、野村克也は雪解けを働きかけてもよかった。鶴岡親分はまだ存命中だったが、詫びを入れることも考えられた。

しかし野村はそうしなかった。南海電鉄がホークスミュージアムを作ったタイミングでも折り合いをつけるべきだったと思うが「私はライオンズOBだ」と意地を張り、その名前は完全に削除されたままだ。大阪球場で野村に声援を送ったファンの心は無視されたままだ。
主として野村のいじけた感情が原因で、こじれたままでここまで来ているのだ。

野村の「19」が、永久欠番になっていないのは、野村が不幸な去り方をしたからであり、その後のチャンスも野村自身が自ら芽を摘んでしまったのだ。

野村は福本豊や米田哲也が永久欠番になっていないことも取り上げている。これは球団の身売りがあったことが大きい。球団を買った会社が歴史を継承しようとしないのは、NPBの球団の教養の浅さ、レベルの低さではある。
しかしMLBでもそうだが永久欠番は殿堂入りとは異なり「運」がついてまわるのだ。

今になって黒田の永久欠番に嫉妬してうじうじいうのは、野球界きっての成功者として恥ずかしい。

野村はこんなことも言っている。

「永久欠番は、その球団の選手に対する価値観を象徴するものといっていい。だからこそ、私は声を大にして言いたいのだ。『永久欠番にするのは、私以上の成績を残した選手だけにせよ! 永久欠番になりたければ、おれを抜け!』」

牢名主じゃあるまいし、これ以上老害を振りまくのはやめてほしい。


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