ながいこと野球観戦をしてきたが、私はファウルボールをキャッチしたことは一度もない、

ネット裏など内野の中央寄りに座ることが多いからだ。

昭和の時代、ファウルボールは球場係員に返さなくてはいけなかったので、だれも取りに行かなかった。
以前に書いたが、大阪球場の三塁側で見ていて、南海に移籍した最晩年の加藤英司の振り遅れのファウルボールが2球続けて数十センチのところに着弾して、大変怖い思いをしたことがある。

しかしファウルボールはいいものだと思う。
野球の試合をつぶさに見たいなら、明らかにテレビ中継の方がいい。プレーを微に入り細を穿って知りたいなら、テレビを見るべきだ。

リアルな観戦では、客席はネットなどでグランドと隔てられているし、全体を見渡すこともできない。しかし臨場感では比ぶべくもない。空気を味わいたいなら生観戦だ。

とりわけファウルボールである。どこか既知感のあるグランドの光景を長く見ていると集中力が失せてくるが、その刹那に「喝!」という音とともに、空間を切り裂いて硬球が飛んでくるのだ。樹脂製の椅子に当たって固く乾いた音を響かせる刹那に、我々はグランドの中の選手たちと同じ空気を吸っていることを思い出す。
あまり野球を知らない女性が「怖いわねえ」というのを聞くのもいい。隣の男はなぜか自慢げな顔になる。
さも観戦し慣れているように見せたい余りに、ファウルボールの行方を目で追ったりしない人もいるが、臨場感を味わう上ではちょっと損をしている。
ファウルボールは野球選手と時間、空間を共有していることを実感させてくれる素晴らしいスパイスだと思う。

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ファウルボールがスタンドに入ると、子供がグラブをもって駆け出す。もう飛んでしまったファウルを追いかけても仕方がない。その位置にもう一度着弾する可能性は限りなく少ないのだから、走って行っても無駄だ。子供は馬鹿だなあと思う一方で、そうせずにはおれない気持ちもわかる。

ファウルボールを取るのは、千載一遇の幸甚だ。なんてことはない硬球でも、思い出がまぶされて、かけがえのない宝物になっていくのだ。
ファウルボールを追いかけずにはおれないのが、野球少年だといってもよいだろう。

ましてやホームランボールをキャッチするのは、野球ファンの夢と言ってもよい。今の野球は本塁打はたくさん生まれるが、それでも1試合多くて数本。
その一本が自分の前に飛んでくる幸運は、恐らく宝くじに当たるようなものだろう。その刹那に、腕を伸ばしてグラブに収めた感動は、ちょっと想像がつかない。

しかも、WBCの世紀の一戦を決する一打。打ったのは史上初の2年連続トリプル3の山田哲人。
その飛球がとんできて、グラブを伸ばした少年を誰が責めることができよう。
昨日のコメントの多くは、私の意見に賛同するものだったが、中に少年に冷静さを期待する声や、ルール上の問題などを云々する人もいた。そういう人は野球の面白さを知らない。

メディアもメディアだ。筒香の本塁打で中学生が救われたと書いた記事があったが、筒香が打たなくても、中学生は非難されるべきことは何もしていない。

くだらない炎上騒動があったが、山田哲人が素晴らしい言葉を残した。
「またグラブをもって、野球観戦してほしい」うれしいことを言ってくれるじゃないか。

そうなのだ。野球とは、飛んでくるボールに条件反射のように飛びついていく衝動の延長線上にあるのだ。野球少年はこれからも細かいことなど気にせずに、多少の迷惑を承知で、飛んでくるファウルボールをどんどん追いかければいい。



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