巨人だけではないが、日本野球独特の古い体質が、村田修一の問題の背景にはある。
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一つには「試合に出ること」を必ずしも、重要視しない体質。
アメリカでは「試合に出る」ことは、野球の基本であり、それがなければ始まらないが、日本では「野球をする」「野球界にいる」ことはすなわち「試合に出る」ことではない。

試合に出なくても「チームの一員である」ことがしばしばメリットをもたらす。
高校野球でも、1試合も試合に出ず、球拾いと声出しをしただけで卒業しても「〇〇高校の野球部だったこと」は、キャリアにとってプラスになる。
また、試合に出られないのに野球部のために尽力したことは「人格形成」や「根性をつける」上でプラスだったという。
村田修一のケースでも、試合に出られなくても「巨人の一員」だったことは、メリットがある。そして控え選手としてチームに貢献したことは、村田修一にとっても有意義だ、と説明することはできる。
こうした考え方から見えるのは、日本では「野球」は「スポーツ」である以前に、キャリア形成の道具であり、平たく言えば「お仕事」だったということだ。
我々野球ファンはスポーツを見ている気でいるが、ひょっとすると彼らの「世渡り」を見させられているのかもしれない。

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もう一つは「プレイヤーズファースト」でもないこと。
競技においては、プレイヤーの権利が最優先される。チーム、指導者はプレイヤーが持てる力を余すところなく発揮できるように環境を整え、出場機会を保証しなければならない。
日本の野球は基本的に「プレイヤーズファーストくそくらえ」でできている。
地球温暖化が進む中、炎天下で毎日野球をさせる高校野球が、「野球の理想像」になっているのがその象徴だ。
MLBでは、力のある選手がファームにくすぶっていたり、控えで出場機会が少なかったりすれば、シーズン中でも移籍の声がかかる。ルール5ドラフトで、移籍する。
もちろん、そこで実力が発揮できなければ、すぐにリリースされるが、選手には最大限の機会を与えるのだ。
日本では、選手の立場よりも、チーム事情が優先される。選手が出場できなくても、チームが勝てばよい。

日本のファンの中には、村田修一が無聊をかこっているのを「チームへの忠誠心が足りない」とか、わがままだとか思う人がいるのだ。
チームの勝利が自分の権利よりも優先されるという意識が強いからだ。終身雇用、年功序列の日本社会に生きる人々の価値観が投影されているからだろう。

「日本と言う国は窮屈だな」と思うのは、こういうことを感じるときである。


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