1月4日に亡くなったようだ。言葉を失う。死因は不明、急死だ。
日刊スポーツ
楽天の星野仙一副会長が死去したことが6日、分かった。70歳だった。
死因は不明。昨年末に行われた野球殿堂入りを祝うパーティーでは元気な姿を見せていた。
昨年、沖縄県金武町の楽天二次キャンプで、プレス受付の前に立っていたので挨拶した。昔と変わらない精悍な表情で、周囲を睥睨していた。
たまたま私が以前勤めていた会社のビルに、関西の星野仙一事務所を構えていたので、よく見かけた。
中日、阪神、楽天と球団を移りながら、どの球団でも単なる選手、監督ではなく、経営にも参画する幹部になって行った。「じじい殺し」という異名もあった。
1968年、空前の大豊作のドラフト1位で中日入り。
キャリアSTATS

中日はいい投手を救援で使う伝統があった。板東英二も救援投手だった。星野も先発だけではなく救援でも投げた。
3年目、4年目はほとんど救援投手。
1974年にセーブ制度が導入されると初代のセーブ王に。
先発投手に専念したのは1976年からだった。以後、主として先発投手として投げたが、常に救援でも投げた。
純然たるローテーション投手だったら、もう少し勝ち星は上がったかもしれない。
マウンドでの強気のパフォーマンスから「燃える男」と呼ばれる。早くから幹部候補とみなされたが、引退後、NHKのMCになって人気にもなる。
指導者としては、中日、阪神、楽天でそれぞれ1回リーグ優勝。抜群の監督ではなかったが、チームを立て直す力があった。何よりリーダーシップが抜群だった。
2008年北京五輪での代表監督としての采配の失敗、そして報道陣を𠮟りつけるような高圧的な態度に、私は失望した覚えがある。
いろんな意味で「旧世代」の野球人ではあったが、まだまだ存在感を示してほしい人ではあった。
ショックである。癌の闘病中だったという。
続報、2016年11月にすい臓がんが発覚したとのこと。最後に見かけたときは、すでに闘病中だった。根治が難しい病気だけに、覚悟していたことだろう。
1999~2001年伊藤智仁、全登板成績【先発として安定も、再び暗闇の中へ】
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死因は不明。昨年末に行われた野球殿堂入りを祝うパーティーでは元気な姿を見せていた。
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1968年、空前の大豊作のドラフト1位で中日入り。
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3年目、4年目はほとんど救援投手。
1974年にセーブ制度が導入されると初代のセーブ王に。
先発投手に専念したのは1976年からだった。以後、主として先発投手として投げたが、常に救援でも投げた。
純然たるローテーション投手だったら、もう少し勝ち星は上がったかもしれない。
マウンドでの強気のパフォーマンスから「燃える男」と呼ばれる。早くから幹部候補とみなされたが、引退後、NHKのMCになって人気にもなる。
指導者としては、中日、阪神、楽天でそれぞれ1回リーグ優勝。抜群の監督ではなかったが、チームを立て直す力があった。何よりリーダーシップが抜群だった。
2008年北京五輪での代表監督としての采配の失敗、そして報道陣を𠮟りつけるような高圧的な態度に、私は失望した覚えがある。
いろんな意味で「旧世代」の野球人ではあったが、まだまだ存在感を示してほしい人ではあった。
ショックである。癌の闘病中だったという。
続報、2016年11月にすい臓がんが発覚したとのこと。最後に見かけたときは、すでに闘病中だった。根治が難しい病気だけに、覚悟していたことだろう。
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コメント
コメント一覧
楽天野球団の発表によると、死因は膵臓がんで「2016年7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに膵臓癌であることが判明」とのこと。
膵臓がんと言うと酒呑みがなる病気の印象が強いですが、星野副会長は下戸なので驚き。(煙草は好きだったが…)
宮城県在住のEファンとしては、楽天球団初優勝と初の日本一(それも地元宮城で)を叶えて頂いて感謝、の一言です。
合掌。
ずいぶん前に奥さんを亡くした頃、その憔悴した様子から「この人は長生きしないな」と直感した記憶がありますが、予想よりはかなり長生きされた方かと。
以前から他競技に対する敵意むき出しのコメントをしてましたね。とても視野の狭い、「自分、自分たちさえよければどうでもいい」という人だという印象も受けました。
そういうコメントが、マスコミの本音を代弁するものでもあったため、好意的に報道されていたのがいかにも日本のマスコミだと感じましたが。
一方で、旧世代の野球人らしく、面倒見のよさから部下やマスコミからの人気は高かったですね。
お疲れ様でした。
ご冥福をお祈りします。
中日から阪神に来られたときは、驚きました。発表当日のニュースステーションで、生でインタビューを受けておられましたが、阪神のマークと一緒に星野仙一監督と紹介されたのが信じられなかったです。中日の二軍監督に決まっていた島野さんを連れてきてしまったことにも驚かされました。当時の「野村→星野」という阪神監督のリレーは、日本一には届きませんでしたが、阪神に勝ちへの強い気持ちを植え付けることになったと思います。
中日の監督に就いてからの30年ほどは、常に球界の話題の中心近くにおられました。今、若いころの星野監督のように鉄拳制裁をする監督が出てきても、世間は受け入れないかもしれません。しかし、そんなところも含めた熱さが指示され、結果も出したことで野球ファンを増やした面もあったと思います。広尾さんもおっしゃるように、日本代表監督の時はガッカリさせられましたが。
星野中日の乱闘シーンは、珍プレー集の定番でした。こういった面でも、人気を盛り上げていたと思います。
これからじわじわと寂しくなるのかもしれません。お疲れ様でした。
自分は中日の監督時代が印象的ですが厳しさと強さと優しさを感じる人柄でした。
他のスポーツへの攻撃することもあり嫌われる事もありましたが(そこは大嫌いでした)。
膵臓癌は父の死病だったのでご自身の苦痛や御家族のご苦労、ご心労は相当なものだと思います。
安らかにお眠りください。ご冥福をお祈りします。
生前の殿堂入りは本当に良かったと思います。ご冥福お祈りします。
それだけにショックは大きいです。
本当に安らかにお眠り下さい。
合掌
打撃偏重で大味だったドラゴンズを投手中心の守りのチームに変えたのは、間違いなく星野氏の功績です。守りの野球でもファンを常に引きつけ続けてくれました。
ドラゴンズというチームの変化は、その後の巨人以外のセリーグ各球団にも大きな影響を与えました。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
それぞれの任期でそれぞれ1回リーグ優勝って意味なのかもしれませんが、中日では88年、99年と2回優勝していますよ。
当時を知らない人は、監督として3回の優勝と理解しかねませんので、もう少し平易に書き改めた方が良いかもしれません。