星野仙一という野球人は「昭和の野球」の体現者の一人だった。
星野は父の顔を知らない。母子家庭に育ち、野球で倉敷商業から明治大学に入った。
このあたり、多くの同世代の選手と同様だ。
明治大学では、島岡吉郎監督の指導を受けた。1年先輩の高田繁は島岡から一度も叱られたことのない優等生だったが、星野も殴られることはなかったという。
島岡吉郎は大学野球の名将として野球殿堂入りしているが、野球経験は全くない。応援団長出身で、商売の傍ら野球部の監督になり、秋山登、土井淳、近藤和彦らの選手を育てた。その手腕は高く評価されてはいるが、野球経験がないだけに「精神論」「根性論」に凝り固まっていた。応援団上りだけに上下関係には厳しかった。有識者の中には島岡吉郎の殿堂入りに疑問を呈する人も多い。
当時の大学野球はそういうものではあった。砂押邦信監督の立教大学で排斥運動が起こったように、指導者は高圧的で暴力もいとわなかった。
当時の野球人の中には、大学時代に受けた暴力で、今も障害に苦しんでいる人がいる。そういう世界だった。
子どもの頃、私は近畿大学野球部の寮隣に住んでいたが、野球部員は大学生とはとても思えなかった。寮室にも何度も行ったことがあるが、畳敷きで煙草臭い部屋で、選手たちはマージャン卓を囲んでいた。
星野仙一はそういう「昭和の野球」の濃厚なエキスをもってプロ野球に入った。旺盛な闘争心と勝負への執念で、星野は頭角を現したが、およそスポーツの健全性とは無縁だった。
引退後、星野仙一は経営者や政治家などからも一目置かれる存在になる。それは巨人の対抗馬として中日を強化したからではあったが、同時に「じじい殺し」と言われた世渡りのうまさもあった。このあたり、明治大学時代に培われたものかもしれない。
監督成績

忘れられないのは、1997年6月、MLBから派遣された審判のマイク・ディミューロを恫喝し暴力をふるったことだ。これは非常に恥ずかしい出来事だった。日本野球が野卑で、目先の勝敗にこだわり、フェア精神のかけらもないことを露呈した。
そうした野球人が野球界の大立者になり、リーダー的な立場になっていったのだ。
2008年の北京五輪は、少数民族への弾圧をやめない中国への非難が多く集まった大会だった。また、各国メディアへの統制も厳しかったが、日本代表監督になった星野は、そうした疑問を呈する記者団を一喝した。「俺は野球をやりに来ているんだ!」これには失望した。
田淵幸一、山本浩二をコーチに据えた布陣は「お友達内閣」と言われたが、予選ラウンドは4勝3敗、決勝でも敗退し、4位に終わった。
2013年の楽天初優勝も星野の功績ではあるが、シーズン終盤からポストシーズンにかけて田中将大に過酷な登板を強いた。このことも強く印象に残る。
星野は戦力が充実し、その戦力が星野に従順な場合に限り、力を発揮するが、そうでないときは勝てない監督だった。
そして「プレイヤーファースト」のかけらもない指導者だった。投手としては闘争心にあふれ、面白い存在だったが、指導者としてはいろんな意味で、一時代前の人だったというべきではないか。

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このあたり、多くの同世代の選手と同様だ。
明治大学では、島岡吉郎監督の指導を受けた。1年先輩の高田繁は島岡から一度も叱られたことのない優等生だったが、星野も殴られることはなかったという。
島岡吉郎は大学野球の名将として野球殿堂入りしているが、野球経験は全くない。応援団長出身で、商売の傍ら野球部の監督になり、秋山登、土井淳、近藤和彦らの選手を育てた。その手腕は高く評価されてはいるが、野球経験がないだけに「精神論」「根性論」に凝り固まっていた。応援団上りだけに上下関係には厳しかった。有識者の中には島岡吉郎の殿堂入りに疑問を呈する人も多い。
当時の大学野球はそういうものではあった。砂押邦信監督の立教大学で排斥運動が起こったように、指導者は高圧的で暴力もいとわなかった。
当時の野球人の中には、大学時代に受けた暴力で、今も障害に苦しんでいる人がいる。そういう世界だった。
子どもの頃、私は近畿大学野球部の寮隣に住んでいたが、野球部員は大学生とはとても思えなかった。寮室にも何度も行ったことがあるが、畳敷きで煙草臭い部屋で、選手たちはマージャン卓を囲んでいた。
星野仙一はそういう「昭和の野球」の濃厚なエキスをもってプロ野球に入った。旺盛な闘争心と勝負への執念で、星野は頭角を現したが、およそスポーツの健全性とは無縁だった。
引退後、星野仙一は経営者や政治家などからも一目置かれる存在になる。それは巨人の対抗馬として中日を強化したからではあったが、同時に「じじい殺し」と言われた世渡りのうまさもあった。このあたり、明治大学時代に培われたものかもしれない。
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忘れられないのは、1997年6月、MLBから派遣された審判のマイク・ディミューロを恫喝し暴力をふるったことだ。これは非常に恥ずかしい出来事だった。日本野球が野卑で、目先の勝敗にこだわり、フェア精神のかけらもないことを露呈した。
そうした野球人が野球界の大立者になり、リーダー的な立場になっていったのだ。
2008年の北京五輪は、少数民族への弾圧をやめない中国への非難が多く集まった大会だった。また、各国メディアへの統制も厳しかったが、日本代表監督になった星野は、そうした疑問を呈する記者団を一喝した。「俺は野球をやりに来ているんだ!」これには失望した。
田淵幸一、山本浩二をコーチに据えた布陣は「お友達内閣」と言われたが、予選ラウンドは4勝3敗、決勝でも敗退し、4位に終わった。
2013年の楽天初優勝も星野の功績ではあるが、シーズン終盤からポストシーズンにかけて田中将大に過酷な登板を強いた。このことも強く印象に残る。
星野は戦力が充実し、その戦力が星野に従順な場合に限り、力を発揮するが、そうでないときは勝てない監督だった。
そして「プレイヤーファースト」のかけらもない指導者だった。投手としては闘争心にあふれ、面白い存在だったが、指導者としてはいろんな意味で、一時代前の人だったというべきではないか。

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コメント
コメント一覧
星野がよく「野球のために」と言っていましたが、これは「野球さえよければいい」という意味でした。
北京五輪の時にサッカーや馬術、ヨットなど他競技に対して敵意むき出しの発言をしているのを見て、この人は野球を歪んだ心で愛しているだけでスポーツを愛していないということを強く感じました。
でも、その考えはマスコミの本音とも合致していましたから、決して否定的に報道されることはありませんでした。
あらゆる点で典型的な野球人だったと言えるでしょう。
それにしてもすい臓がん、怖いですね。
落合氏が監督やGMになった理由の一つが、昭和的な星野氏のそれに対する同氏の回答を示すことにあったのではないかと思います。
職人的に監督やGMという仕事を突き詰めても、周りの賛同が得られないと不特定多数と共有できる本当の感動が生まれません。
ジジ殺し含め、老若男女問わず周りの賛同を得るという点で、星野氏に並ぶ指導者はいないと思っております。きっと分かり易いからでしょうね。
最近、大相撲で躾という名目の暴力体質があらわになってしまい、非難されています。
そんな折の星野さんの訃報でした。現代のスポーツが古い体質から訣別するときが迫っていることを暗示しているようにも思えます。
ただぬるま湯に浸りきっていて野村監督の言葉を理解できる選手もそう多くなかった暗黒時代のタイガースをあそこまで引っ張り上げられたのも、そうした星野氏の個性じゃなかったかなという気はしています。
西本はじめとする「昭和の指導者」の流れは星野氏で一つの区切りになるのでしょうね。
星野はそこに日本の学生野球的な縦社会や精神論や排他性を持ち込み、明大島岡監督譲りの強権的なチーム運営で優勝を達成。その手法とキャラクターは日本のマスコミや会社員の共感も獲得。人気と成功の実績はかなりのものだが、プロ野球の方向性としてはこれってどうなのか?とも思いました。
NPBが日米交流の為に招聘したマイク・デュミューロ審判への暴力事件は、無期限謹慎処分にならなかったのが不思議なほどの出来事でしたが、良くも悪くも話題と存在感がある野球人でしたね。
星野仙一氏に心から哀悼の意を表します。
星野仙一については、広尾さんのこのウェブログの見解は的確で、私も賛同いたします。星野仙一氏は、野球殿堂入りにふさわしくないとまでは思いませんが、私もそれほど好きな野球人ではありませんでした。
私は、星野仙一氏は、年を経るに連れて、プロ入りして最初の監督だった水原茂氏の影響が強くなったように思っています。
>星野は戦力が充実し、その戦力が星野に従順な場合に限り、力を発揮するが、そうでないときは勝てない監督だった。
星野仙一氏が大洋ホエールズ・横浜ベイスターズの監督になっていたら、失敗した公算が大きかったと思います。ホエールズ・ベイスターズは自らの体質を外部から来た監督に合わせるようなことは決してしない球団ですから。
人の死に草を生やすような言葉の暴力を簡単にできる貴方の将来はどうでしょうね?