今日もキャンプ地をうろうろ回りながら、五輪のことを書いてきた。少し補足をさせていただく。
結局、今の日本のオリンピック行政には明確な「コンセプト」が存在していないのだと思う。

コンセプト、概念にはいろんな意味があるが「誰のために、何を目的とするのか」という風にとらえたい。国家的な事業としてのオリンピックは「誰のために、何を目的とするのか」。

国家的な事業であるからには「誰のために」には、「国民のために」という言葉が入る。特定の人、アスリートやその家族、スポーツ界の人、政治家などではなく「国民全体の」が来なければならないのが建前だ。

「何を目的にするのか」は、いろいろあるだろうが、「国民のために」であるからには「公益に資する」ことが必要になる。「メダルを取ること」は、果たして「公益に資する」のか。
これは時代によって異なるだろう。

高度経済成長の時代は、「利害が一致する人が多かった」時代でもある。この時代のアスリートは、まさに「国民の代表」であり、彼らが国際舞台で活躍することは、日本人に喜びと勇気を与えた。そしてそれは、意気阻喪していた日本人に自信を取り戻させる一助となった。これは間違いない。1964年の五輪以降、日本は経済発展し、GDP世界2位の経済国になっていくのだ。
スポーツだけでなく、いろいろな分野でエリートが日本を引っ張り、その恩恵が国民全体にいきわたった。トリクルダウン効果もあったのだ。

昭和の時代のオリンピックのコンセプトは「国民のため」に「選手がメダルを取ることを目標とする」で完結していたのだ。

その後、韓国、中国も同様の流れで五輪をきっかけとして、経済発展を遂げ、強国になって行ったのだ。

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しかし、時代は変わったのだ。今、日本は高齢化が進み、貧富の格差も広がっている。子どもの貧困は、先進国でも最悪だ。
そんな中で「選手がメダルを取ること」が、国民全体の利益に資すると言い切れるだろうか。確かに今でも日本人選手がメダルを取ることは、日本人にとって素晴らしいことだ。わたしもそう思う。しかし、それがいまだに五輪の「コンセプト」たり得るか、ということなのだ。

それによって「日本人の優秀性」を世界に知らしめる、というのは、いまだにありだろうか?
日本はすでに十分に海外に知られている。良くも悪くも「こんな国だ」ということを知られている。そこに屋上屋を重ねて「自慢する」ことに意味があるだろうか?

江川紹子さんは、SNSで「『羽生えらい』『小平えらい』であって『日本人えらい』ではない」と言ったが、まさにこのことを言っている。

「日本人の優秀性」を今更喧伝することに「公益」は存在しない。ナショナリズムの過剰な高揚は醜いし、国際社会での摩擦を生むだけだ。
歴史を見ても、ナショナリズムが過剰に高揚する国は、国内に何らかの問題があって、それが解決されない状態にあることが多い。為政者はその問題から目をそらすために「日本人えらい」をことさら言い立てるのだ。
そういう国では五輪は、体制維持のために利用されるのが常である。
メダルを取って嬉しいのは当たり前だが、常にだれかがこれを利用していることを意識すべきだろう。

いろんな意見があるだろうが、「メダルを取ること」は五輪のコンセプトにはならないと思う。

では五輪の目的は何なのか。
そういう表面的なものでない、もっと具体的で、深いコンセプトを国民の総意として創っていく必要があると思う。

ちょっと硬い話で申し訳ないが。


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