日刊スポーツ
毎年、大阪市内で開かれていた近鉄バファローズOB会が、来年1月12日の開催で最後になることが28日、分かった。04年の球団合併後も、近鉄本社の支援もあり、近鉄単独のOB会として開催を続けていた。だが新たな加入者が見込めないことから、区切りを迎えることになった。
近鉄という会社は、かつて所有したプロ野球に極めて冷淡だ。記念館のようなものも作っていないし、オリックス・バファローズと名前は残しているが、資本はとっくに引き上げている。
中興の佐伯 勇のような「経営者」がほとんどおらず、サラリーマンばかりで会社を運営しているのだろう。
2004年、最後の大阪近鉄バファローズの戦績

61勝70敗2分 勝率.466 5位だった。シーズン後半には球界再編騒ぎが起こって、野球どころではなくなっていた。
近鉄と言えば外国人打者という印象だが、最後の近鉄の中軸は、磯部公一、中村紀洋、北川博敏と日本人打者だった。ただし、3人とも30歳を超えていた。
先日、磯部さんと少し話をしたが、彼は今からスポーツライターを志し、自分で文章を書き始めている。
投手陣はバーン、パウエル、岩隈が規定投球回数に達したが、岩隈が15勝で最多勝。ゴールデングラブも獲得。
しかし救援投手にシーズン投資て優秀な成績を上げた投手はいなかった。近藤一樹が好投している。
ヤクルトの坂口、近藤と巨人に入る岩隈がまだ現役でいるのに、OB会をやめるというのは、関係者が
「やめたかった」からだろう。
オリックスという球団が、アイデンティティがはっきりせず、経営改革が進むパ・リーグでただ一つ取り残されているのは、さかのぼれば14年前、ファンの悲しみを無視して、無責任な合併をしたことに端を発するだろう。
近鉄グループにとってバファローズを持ったことは「汚点」か何かになっているのだろう。私は近鉄沿線に住んでいるが、この会社が「三流」のままなのは、電鉄、そして企業の社会的な存在意義を認識していないからだと思う。
日生球場の跡地にはこんなマークが残るだけ。藤井寺はこの人形があるだけ。


多くの人の心の中に、近鉄バファローズは生き続けると思う。
広島総合・広島市民・マツダS・シーズン最多本塁打打者/1950~1986、2007~2018
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2004年、最後の大阪近鉄バファローズの戦績

61勝70敗2分 勝率.466 5位だった。シーズン後半には球界再編騒ぎが起こって、野球どころではなくなっていた。
近鉄と言えば外国人打者という印象だが、最後の近鉄の中軸は、磯部公一、中村紀洋、北川博敏と日本人打者だった。ただし、3人とも30歳を超えていた。
先日、磯部さんと少し話をしたが、彼は今からスポーツライターを志し、自分で文章を書き始めている。
投手陣はバーン、パウエル、岩隈が規定投球回数に達したが、岩隈が15勝で最多勝。ゴールデングラブも獲得。
しかし救援投手にシーズン投資て優秀な成績を上げた投手はいなかった。近藤一樹が好投している。
ヤクルトの坂口、近藤と巨人に入る岩隈がまだ現役でいるのに、OB会をやめるというのは、関係者が
「やめたかった」からだろう。
オリックスという球団が、アイデンティティがはっきりせず、経営改革が進むパ・リーグでただ一つ取り残されているのは、さかのぼれば14年前、ファンの悲しみを無視して、無責任な合併をしたことに端を発するだろう。
近鉄グループにとってバファローズを持ったことは「汚点」か何かになっているのだろう。私は近鉄沿線に住んでいるが、この会社が「三流」のままなのは、電鉄、そして企業の社会的な存在意義を認識していないからだと思う。
日生球場の跡地にはこんなマークが残るだけ。藤井寺はこの人形があるだけ。


多くの人の心の中に、近鉄バファローズは生き続けると思う。
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コメント
コメント一覧
父から千葉繁さんのことを教えてもらった記憶があります。
ユニフォームがかっこいいものに変わり、別当監督になり、チーム名にSがついたのはその直後の1962年だったそうです。
我がライオンズも移籍時に球団名以外は歴史を残さないような動きがあり、愚かな姿勢を大変腹立たしく思ったものです。
悲しいことに、応援するチームの歴史を勉強しようとはしない人が多い日本のファン気質からすれば、経験者が消えていくにつれ、片隅に追いやられていく伝説/歴史ではあるんでしょうが。
元BuファンだったEファンが今思うのは…。
本拠地球場が戦前に建てられた3万人入るがナイター設備がない藤井寺球場とナイター設備があるが2万人入らない日生球場を二つ持っていたことが失敗ではないか。
プロ野球が2リーグ分立した昭和25年から10年はまだ各球団とも黎明期でフランチャイズ制が確立しなかったし、戦後復興という時代もあったのでまだ分かりましたが、昭和40年以降も変えなかったのは間違いでした。
せめてこの時期に本拠地を沿線の奈良か京都に移転した上で、ナイター設備と室内練習場付きの3万人収容の新球場を沿線の駅からすぐに建設か、逆に球場建設後に新駅を設置するなどしておけば…と今になって思います。
プロ野球チームが無い四国・北陸・信越・東北・北海道の学校の生徒が京都奈良に修学旅行に来た時に、彼らをターゲットにして野球観戦で集客しよう、という発想がこの時代無かった、というのが時代の悲劇というしかない。
ただ近鉄の幹部は大阪がダメなら名古屋か三重に移転と言うと中日が反対したので断念、というのを本で読んだ記憶がある。
西本幸雄監督が本拠地球場を花園ラグビー場の隣に新設、を佐伯オーナーに進言したら「いくら金がかかる」と一蹴された話も思い出した。
花園ラグビー場も2015年からは東大阪市が運営に変わった。
志摩スペイン村だけか…。
本当に面白いチームでしたね
MLBチームの興盛により野球が儲かるビジネスであると思われ出したあの時期に球団を手放した近鉄の経営レベルは然もありなんです。
しかし選手やファン、プロ野球の大好きな人々にとってより洗練されたオーナーに変わっていくことは良いことだと思います。
OBである野茂さんも仰っていましたがチームを消滅させたっていうのは寂しい限りですね・・・
球場使用料が高くなり、自社の電車が通らないなど悪い条件が重なったのは、最終的に致命傷になりましたね。
子会社のメデイアートが粉飾決済で整理されましたが、近鉄グループそのものの経営に問題があったと思います。