腹の底に響く太鼓の音が、まだ余韻になっている。応援席のど真ん中で野球観戦をしたのは、強烈な経験だった。
日本のプロ野球の応援を「文化」とする見方がある。主に応援団の人が主張している。
「文化」とは第一義的には、ある組織、コミュニティ固有の「振る舞い」ということだ。そうであるならば、プロ野球の応援団固有の「振る舞い」として、応援は「文化」だといえるだろう。
しかし第二義的な「文化」とは、その振る舞いが、社会的に価値があるものとみなされ、それを共有することを社会全体が承認したもののことだ。「文化財」は、まさにそういう「文化」の所産だ。
プロ野球の応援は、応援団にとっては存在理由そのものだ。そして周辺に熱狂的な支持者がいる。その点では「文化」と言えなくもないが、球場に来ているファンの間では、その評価は分かれる。だから第二義的な意味での「文化」と断定することはできないだろう。
スポーツを観戦者が応援する風景は、世界各国で見られる。しかしそのスタイルは多様だ。日本のように鉦や太鼓、ラッパまで使って応援するスタイルは、かなり珍しい。そして、不特定多数ではなく、専門の「応援団」が応援をリードするスタイルも独自だといえよう。

野球の応援は大学野球に端を発した。戦後、高校野球の発展とともに応援は派手になり、それが昭和40年代にプロ野球に伝搬した。
今では、プロ野球は11球団に球団公認の応援団があり、143試合すべてですさまじい応援をしている。台湾や韓国にも似たような応援団があるが、あちらは球団が応援スタッフを雇用している。また選手ごとに応援歌があるのは、日本だけだ。手が込んでいるのだ。

球団に登録された応援団は、ホームは皆勤する人が多い。そして「一緒に応援するのが楽しい」という観客も誘引するから、応援団は球団にとってみれば、超ヘビーユーザーであり、消費リーダーでもある。
だから、応援団は球団にとって大切な顧客ではある。しかし、ファンの中には応援団に批判的な層も少なからず存在している。球団は応援団を尊重しつつ、そうでない顧客にも気を使ってマーケティングをしている。
そういう意味では半ば「公認」半ば「非公認」というアンビバレンツな存在であろう。

プロ野球の応援団のノリは、日本の伝統的な「祭り」に近い。若いあんちゃんが法被を羽織って大きな音を立てて踊る。そのパフォーマンスだけを取り出せば、どこかのお祭りと言ってもよい。応援だけをどこかのホール、あるいは神社やお寺でやれば、確かにそれは第二義的な「文化」として認められてもよいかもしれない。
しかし、応援団はその大音量のパフォーマンスを、試合の真っ最中に、断続的に続ける。試合に集中したいファンには、耳障りだ。一昨日、私は相手の攻撃中に応援団が何をしているのか中止したが、多くはスマホに見入っていたり、トイレに立ったりして相手の選手は見ていなかった。7年ぶりのMLB球団との対戦だが、彼らはそのことには興味がないようだった。
また、この試合はエキシビションであり、勝敗は重要ではないが「絶対勝つぞ」と声を上げていた。打者が登場すれば常に「ホームラン」「ヒット」を要求していた。要するにステレオタイプで応援してる感じだった。
日本の「応援」は、一人で何かを主張するのは苦手だが、集団にまとまれば、異様な力を発揮する「日本人」の特性に根差している。「みんなと一緒に何かをすること」が大好きな日本人の習性が応援団を作ったといえよう。日本よりも野球の歴史が古いアメリカで「応援団」ができないのは、個人主義的なアメリカ人には合わないということだろう。

私は、やはり「応援団」を尊重すべき文化とは認識できない。応援団はもはや野球界から排除できない存在ではあるが、当人は、「自分たちを迷惑に思っているファン、静かに試合が見たいと思っているファン」がいること。そして、彼らも野球ファンであることを常に認識すべきだろう。
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「文化」とは第一義的には、ある組織、コミュニティ固有の「振る舞い」ということだ。そうであるならば、プロ野球の応援団固有の「振る舞い」として、応援は「文化」だといえるだろう。
しかし第二義的な「文化」とは、その振る舞いが、社会的に価値があるものとみなされ、それを共有することを社会全体が承認したもののことだ。「文化財」は、まさにそういう「文化」の所産だ。
プロ野球の応援は、応援団にとっては存在理由そのものだ。そして周辺に熱狂的な支持者がいる。その点では「文化」と言えなくもないが、球場に来ているファンの間では、その評価は分かれる。だから第二義的な意味での「文化」と断定することはできないだろう。
スポーツを観戦者が応援する風景は、世界各国で見られる。しかしそのスタイルは多様だ。日本のように鉦や太鼓、ラッパまで使って応援するスタイルは、かなり珍しい。そして、不特定多数ではなく、専門の「応援団」が応援をリードするスタイルも独自だといえよう。

野球の応援は大学野球に端を発した。戦後、高校野球の発展とともに応援は派手になり、それが昭和40年代にプロ野球に伝搬した。
今では、プロ野球は11球団に球団公認の応援団があり、143試合すべてですさまじい応援をしている。台湾や韓国にも似たような応援団があるが、あちらは球団が応援スタッフを雇用している。また選手ごとに応援歌があるのは、日本だけだ。手が込んでいるのだ。

球団に登録された応援団は、ホームは皆勤する人が多い。そして「一緒に応援するのが楽しい」という観客も誘引するから、応援団は球団にとってみれば、超ヘビーユーザーであり、消費リーダーでもある。
だから、応援団は球団にとって大切な顧客ではある。しかし、ファンの中には応援団に批判的な層も少なからず存在している。球団は応援団を尊重しつつ、そうでない顧客にも気を使ってマーケティングをしている。
そういう意味では半ば「公認」半ば「非公認」というアンビバレンツな存在であろう。

プロ野球の応援団のノリは、日本の伝統的な「祭り」に近い。若いあんちゃんが法被を羽織って大きな音を立てて踊る。そのパフォーマンスだけを取り出せば、どこかのお祭りと言ってもよい。応援だけをどこかのホール、あるいは神社やお寺でやれば、確かにそれは第二義的な「文化」として認められてもよいかもしれない。
しかし、応援団はその大音量のパフォーマンスを、試合の真っ最中に、断続的に続ける。試合に集中したいファンには、耳障りだ。一昨日、私は相手の攻撃中に応援団が何をしているのか中止したが、多くはスマホに見入っていたり、トイレに立ったりして相手の選手は見ていなかった。7年ぶりのMLB球団との対戦だが、彼らはそのことには興味がないようだった。
また、この試合はエキシビションであり、勝敗は重要ではないが「絶対勝つぞ」と声を上げていた。打者が登場すれば常に「ホームラン」「ヒット」を要求していた。要するにステレオタイプで応援してる感じだった。
日本の「応援」は、一人で何かを主張するのは苦手だが、集団にまとまれば、異様な力を発揮する「日本人」の特性に根差している。「みんなと一緒に何かをすること」が大好きな日本人の習性が応援団を作ったといえよう。日本よりも野球の歴史が古いアメリカで「応援団」ができないのは、個人主義的なアメリカ人には合わないということだろう。

私は、やはり「応援団」を尊重すべき文化とは認識できない。応援団はもはや野球界から排除できない存在ではあるが、当人は、「自分たちを迷惑に思っているファン、静かに試合が見たいと思っているファン」がいること。そして、彼らも野球ファンであることを常に認識すべきだろう。
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コメント
コメント一覧
応援団はいませんが、内野でも味方攻撃時はほぼほぼ皆起立しますし。
のんびり見られるのはオープン戦かファームの試合になりますか。
のんびり見られる席がないと言う点では、Jリーグやサッカー日本代表戦に近いのかもしれません。
謎の元郡民さんがおっしゃるようにJは応援しながら見ることになるので、アウェイの上の方の席がいいです。Jのホームタウンに住むようになって初めて観戦したときは、野球の観戦ぐせが付いていたせいで度肝を抜かれました。このままずっと椅子の上に立っているの? でも、味方のダメなプレーにはブーイングするし、ちゃんとゲームは見ている。応援のための応援という感じでもなかったです。ビールは一切飲む時間なかったけど。。。
ただ、「文化」という単語の意味が、そもそも食い違っているっぽいです。
一例として社会学事典を開くと、5つ以上の定義が示されていますので、国語辞典の如く気軽に引用することができない(引用するだけで文字数制限に引っかかりそう!)のがもどかしいですが。
社会学事典を典拠としたのは、野球やサッカーの応援行為そのものの研究は社会学的切り口によるものが多いためです。
彼らの用語において「文化」と言った場合は、一般的に人が人であるが故に形成される営みの一切を指します。
生理学的現象である排泄でさえも、その方法が時代や地域によって異なることを巡っては「文化」という切り口が成立します。
これは議論を進めるうえでの定義でしかないので、人の起こす営みである以上、彼らにしてみれば「文化」なのです。
もちろん、「いわゆる『ハイ・カルチャー』や、それに類するものとは言えない」という主張は成り立ちます。
というよりも、そういうふうに言った方が早いですね。
そして、この言い方に関しては、社会学的に応援を研究している人々からも、一定の理解を得られるものと思います。
あと一点、以前から気になっていたことですが、「特別応援許可規程で管理される私設応援団」と、「彼らの先導に従って応援する観客」とを混同されていませんか?
特別応援許可規程で「応援団方式の応援」を認められている私設応援団の構成員は、1試合につきせいぜい十数名にすぎません(平日のデーゲームだと、試合開始時には4~5人なんてこともあります)。
古い記事でやりとりをした際に、文脈上明らかに「私設応援団」以外の観客を指して、特別応援許可規程の管理下にあるかのようなレスポンスをされておりましたので。
(正) 平日のナイターだと、試合開始時には4~5人……
謹んで訂正いたします。
「文化」の定義を教えていただいてありがとうございます。
私が言いたいのは、あたかも「応援文化」を「日本文化」や「伝統文化」と同列のように振り回して、尊重すべきものであるかのように吹聴するのは、無教養の極みでちゃんちゃらおかしいということです。
文化人類学的に、あるいは社会学的に「応援」は興味深い研究対象かと思いますが、だからといって「日本文化」の延長線上にある重要なもののように思うのは、あほらしい勘違いであります。私は「応援」の文化的側面には全く興味がありません。
それから、私設応援団と一般の応援は違うとのご教示ですが、この間現場で座ってみて、紐くくられた中にいる応援団をリーダーとして、その周辺の外野席の連中が騒いでいるという図式を再確認しました。プロ野球で猖獗を極めている「応援」は、この2種類の人たちが一体となって起こしています。そういう意味で、分割して評する意味はないと思います。
個人的な好みで言えば、全部なくなってほしいです。うるさいだけでなく、あたかも野球にとって不可欠な存在のようにふるまっている。野暮で下品で鼻持ちならない。
これも文化、の違いというんでしょうか…。
↓
ガム、ひまわりの種、ツバ、タンが散乱 「文化」の違いでは片付けられないメジャーの汚ベンチ
2019年3月19日 16時30分 東スポWeb
【外国人選手こぼれ話 広瀬真徳】
私がうなずいたのが記事中のこの一文
>実際、メジャー関係者や選手にこの愚行について聞いたことがある。答えはみな一様に「メジャーの文化だから」のひと言だった。特にツバやタン、ひまわりの種の殻を目前のベンチ床に飛ばす行為については「何が悪いことなのか。誰にも迷惑はかけていないだろ」と逆ギレする主力選手もいたほど。これでは何年たってもこの問題は改善されない。
>「害を与えないからいい」ではない。これはエチケットであり、メジャー選手の品格が問われる。子供たちもメジャーを見る今、ベンチを汚す行為が「文化」というのであれば、せめて日本開催時ぐらいは異国の清潔感が保たれたベンチを見習ってもらいたい。
youtubeで見ると…
78年のS-Bシリーズでは聞こえるのはせいぜい十人程度の応援団員が鳴らす笛・鉦・太鼓くらい。
79年のC-Buシリーズから私設応援団のトランペットによる集団化した応援が始まったと感じる。
81年のG-F、82年のL-Dからは完全に現在の形になっている。(それでも応援歌やコンバットマーチは選手別には厳密にはなっていないように聞こえるが)
すいませんが、これ以上議論を楽しむ気はありませんので、入ってこないでください。どうでもいいので。
しかし、「世界各国」のサッカーのサポーターの下品さ、うるささに比べれば日本の野球の応援なんてマシな方だと思いますけどね。
うるさい、じゃないんですよ。
野球と関係がないことで騒ぐな、なんですよ。
野次は、内容によりますが、素晴らしいのもあります。
僕も日本の応援団の野球の本質を無視した騒音と自分達のノリの押し付けは嫌いですが、もしアメリカで鳴り物応援の文化があり日本で無かったとしたらアメリカは自由で情熱的でそれに比べ日本のファンは大人しくて野球の楽しみ方を知らないと昭和に海外のロックバンドのライブを座りながら拍手してシラけさせてた様な事例と同列に語られてたかもしれません
迷惑行為でしかない路上の落書きからもバスキアやバンクシーなどの天才アーティストも生まれて一種文化になっていますし、迷惑行為だからと全否定するのも可哀想かなと思ってしまいます
もっとも野球の応援団はアートや文化などの言葉とは対極の位置な存在の気もしますが…
西武やロッテの跳び跳ねる応援は大嫌いです
キモいです