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「彼とは同じチームになったことはないし、話をした記憶すらない。しかし、私はイチローが好きではない。彼の仕草や態度、物言いを見たりしていると、『俺は人とは違うんだ。特別なんだ』と思っているように感じられるからだ」

野村克也は努力の人だ。長嶋茂雄、王貞治、張本勲などはアマチュア時代から注目される選手であり、高校あるいは大学で、すでに目を引く存在だった。
しかし野村は全くの無名校の出身だった。本人はテストで南海にもぐりこんだといっているが、鶴岡一人は高校の教師から手紙をもらって野村を見て、テスト前からとるつもりでいたという。いずれにしても、最下層の選手として入団し、1956年春のハワイ遠征で鶴岡の目に留まり、正捕手松井の故障もあって、捕手の座を手にし、そこから大打者への道をたどった。



しかしながら野村克也は性狷介であり、鶴岡一人と不仲になる。昔の野球人らしく礼儀作法や上下関係に極めてうるさく、派閥のボスになるタイプだった。
選手を数多く育成したといわれるが、その育成法は「上意下達」であり、先に答えを与える古い教え方だった。そして選手を自分の型にはめようとした。いうことを聞く選手は引き立てるが、そうでない選手は「だめだ」とみなしてしまう。

そういう「仰ぎ見る老師」のようなところが、老人の経営者に受け入れられ、「野村本」は売れるとなっているが、イチローのようなタイプの選手は苦手だろう。表面的に「従順なふり」でもしてくれないと、野村は選手を指導できない。
野村克也の「野球」にないのは「お客さんを喜ばす」という発想だ。「勝つこと」意外には考えていないのだ。

イチローとの接点は少ないが、1996年のオールスターの松井秀喜の打席で、全パの仰木彬監督がイチローを投手としてマウンドに送った時に、全セの野村監督が、松井の代打に高津臣吾を送ったシーンが極めて象徴的だろう。

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仰木彬は野村克也と同世代、同期で、同じように公立高校からパの球団に入った。強い時期の西鉄の花形内野手ではあったが、引退後は下積みが長く、監督になるまで21年もかかった。
野村が「人を使う」指導者だとすれば、仰木は「人を活かす」監督だっただろう。

オリックス監督に就任した年に、イチローの才能を見出し(新井宏昌、あるいは張本勲の進言があったとされる)が、彼を鈴木一朗からイチローに改名させて、破天荒な選手に育てた。
それまで土井正三という、野村克也と似たタイプの指揮官に評価されていなかったイチローは、仰木彬にいろいろな拘束を解かれ、自由に野球ができるようになったことで、才能を開花させたのだ。

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野村は、変化球に苦も無く対応できたイチローを評価し、「天才」と呼んでいるが、率直に言って野村克也の下にいたら、イチローはここまで偉大な選手にはならなかったのではないか。


2018年鈴木博志、全登板成績

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