ポストにこんな記事が載っている
恩師・野村克也さんの指導に反発し続けた門田博光氏の思い

野村は現役後期しか知らないが、門田は1970年の入団以来知っているし、75年くらいからは球場で見ていた。

ポストの写真でも少しわかるが、野村の方が門田より少し大きいのだ。昭和の時代、176㎝の野村は「大型」の部類に属していた。しかし門田は170㎝だから、当時としても大きくはなかった。
奈良に住んでいて、近鉄特急で大阪球場に通う姿をよく見かけた。野村が車で球場入りするのとは対照的だった。

やる気なさそうに右打席に入り、力の抜けた構えからホームランを打った野村とは対照的に、門田は左耳の後ろあたりにグリップが来るようにバットを構える。投手が動作を始めるとバットはぴたりと止まり、投球を待つのだ。そして打つ瞬間に右足を上げて、素晴らしいフルスイングでボールを右翼席に運ぶのだ。
野村はバットを少し余らせていたが、門田は思い切り長く持って旋回させていた。

円月打法といえば、野村や門田の大先輩の杉山光平だが、私には門田博光がそういうイメージだった。
2人の成績の重なり。

Nomu-Kado


門田は野村が監督になった年に入団した。
野村はおそらくすぐに、門田が自分のライバルになりうる存在であることに気が付いただろう。

2年目に門田が打点王になったことに、監督野村は喜んだだろうが、選手野村はライバル登場に色めき立ったと思う。

スポーツ新聞では門田と野村の不仲が何度も載った。藤原満や桜井輝秀などと違って野村の子分になりそうな雰囲気はなかったし、門田が成績を挙げれば野村が4番に座る必然性が薄れてしまう。

野村が南海を追われたときに門田は29歳だったが、そこから全盛期が始まるのだ。これも象徴的なことだ。

門田にとって野村は好ましい上司ではなかっただろうが、恩讐を超えて回顧の言葉を発したのは麗しい。


2019年E.エスコバー、全登板成績

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