没落するチームを高卒2年目の投手が一人で支えていたという印象だ。
1970年代、ライオンズの投手陣

1969年、箕島からドラフト1位で入団した東尾修が、稲尾和久の引退、池永正明の「黒い霧」疑惑による追放で、投手陣がいなくなる中で、孤軍奮闘していた。
先発だけでなく救援でも投げた。134勝155敗と負け越しているが、彼こそはライオンズ中興の功労者と言ってよい。


大昭和製紙から1972年にドラフト外で入団した加藤初は、1年目に17勝、4年で45勝したが1976年に不可解なトレードで巨人へ。巨人との裏工作があったとされる。これが伏線となって、江川卓の「空白の一日」につながったという説もある。


阪急の4本柱の一人だった石井茂雄も、6年間そこそこ活躍した。
サブマリンの栁田豊は、近鉄に移籍してから花開く。
変則左腕の永射保の名前も見える。長谷川晶一さんの本によると、当時のライオンズは極貧で、永射はオフには身分を隠して自衛隊でアルバイトをしていて、優秀だったために入隊を勧誘されたという。


松沼兄弟、森繁和など西武になってから入団した投手の名前も見える。
2018・19年髙橋遥人、全登板成績
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阪急の4本柱の一人だった石井茂雄も、6年間そこそこ活躍した。
サブマリンの栁田豊は、近鉄に移籍してから花開く。
変則左腕の永射保の名前も見える。長谷川晶一さんの本によると、当時のライオンズは極貧で、永射はオフには身分を隠して自衛隊でアルバイトをしていて、優秀だったために入隊を勧誘されたという。
松沼兄弟、森繁和など西武になってから入団した投手の名前も見える。
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コメント
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いやーこの10年間、顔ぶれみるといろいろ思い出します。
池永追放や加藤初が持っていかれたときの絶望感、ドラフトでの江川のコメントにくやしい思いをしたなどよみがえります。
後の所沢での黄金時代があってこそでしょうが、黒い霧以降のこの時代を変わらずファンだったことへの誇りのようなものがあります。
長谷川法世「ぼくの西鉄ライオンズ」のような昭和32年からのライオンズファンですが、東尾引退と、観戦環境のひどさで、ここ30年はテレビ観戦になってしまってます。
前後10年の黄金期と比べてみるとあり得ない暗黒の70年代でした。
加藤初の移籍に裏事情があったのは知りませんでした。
交換要員で玉井とにライオンズに移籍した関本の記録が載っていないのは1軍登板記録がなかったのでしょうか。
100イニング以上の投手に限定しています。松沼弟は、あえて出しましたが。
資金難だったライオンズから加藤初の譲渡に、巨人サイドは、2投手+バックマネーを出したようです。
以後、裏の関係ができ、江川事件の時は「空白の1日」にするために、巨人が圧力をかけてライオンズの側から「江川の交渉権がなくなった」ことを発表させています。べた記事が出ています。
このときはクラウンから西武への譲渡への承認も絡んでいたようです。
ありがとうございます。
100イニング以上だったんですね。
所沢以降の新人や移籍組に松沼弟が入れないと逆にスッキりしないので納得です。
加藤初が移籍1年目からノーヒットゲームや活躍するのを見て「釣り合わないトレード」と思った記憶があります。
最近では清武の乱で暴露されたように裏はあるとは思うんですが、ファンがアンフェアに思うルール破りは今後のためにも起らないことを願いたいです。