野球ファンなら誰しもが野手、それも内野手の背番号だと思うだろうが、いるのである。
背番号「3」投手、歴次シーズン成績

草創期の1936年には3人の背番号「3」がマウンドに上がった。
桜井正三は関学から名古屋に入った左腕だが、1試合だけ投げて退団。そのあと名古屋で「3」をつけた松浦一義はシアトル生まれの日系選手。名古屋軍の主戦投手になるが2年で退団。
石田光彦は戦前の阪急のエース、投げるたびに球の出所が代わる変則投法で知られた。

終戦後にデビューした大打者、大下弘は背番号「3」の代表選手だが、1946,47年にマウンドに上がった。
巨人で長嶋茂雄の前の背番号「3」だった千葉茂も1試合だけ投げている。
さらに巨人のエース藤本英雄は1シーズンだけ中部日本でプレーしたがこのときだけ「3」をつけた。
背番号「1」を付けた大阪のエース、梶岡忠義はその後「3」になった。

大洋のエース平松政次は1年目だけ「3」。尊敬する長嶋茂雄にあやかったという。

上田卓三は原貢監督率いる三池工のエースとして甲子園の優勝投手に。南海時代は「11」だったが阪神に入団して「3」をつけた。技巧派の左腕だった。

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大洋のエース平松政次は1年目だけ「3」。尊敬する長嶋茂雄にあやかったという。
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