プレジデントオンライン
「ファンの皆様に感謝」定型コメントばかりのオリンピアンに元ラグビー日本代表が感じた強烈な違和感の正体

元ラグビー選手のスポーツ教育学者が痛烈な評論をしている。

オリンピックなど大規模なスポーツイベントは、アスリートのためではなく、企業や人々が何らかの利得を得るために行われている。

今回のオリンピックは、新型コロナ禍の最中に行われた。なぜこんな時期に強行されたか。この記事で自民党の河村建夫元官房長官は「東京五輪がなければ国民の不満がわれわれ政権に向く」と語っている。日本の新型コロナ禍は、安倍政権の失政によって深刻なものになったが、オリンピックの強行は、そうした批判をそらすために行われた。結果的に五輪の強行は菅政権の支持浮揚にはつながらなかったが、これは典型的な「スポーツウォッシング」だとしている。

このことば「マネーロンダリング」に近い語感だが、端的に言えばスポーツイベントによる国や社会の「気分の高揚」を権力者が利用しようとするものだ。

平尾氏は
「平たくいえばスポーツは舐められている」と鋭く指摘している。

その陰で巨大イベントを強行するために、多くの物事が犠牲になる。権力者は否定するが「新型コロナ禍にもかかわらず強行された五輪によって起こった社会の混乱や医療のひっ迫」もその犠牲ではあろう。

要するにスポーツは利用されているのだ。本来、アスリートはこうした事態に、社会の一員として「異議申し立て」せめて「不快感」を表明すべきだが「だんまり」を決め込んでいる。
イベントによる余得にあずかったからかもしれないし、もともと「上の人には逆らわない」という性質を有しているからかもしれない。

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しかし平尾氏は
「スポーツは観る者を魅了する、社会をエンパワーメントできる、感動や勇気を『与えられる』とまで思っているのなら、その影響力をなぜパフォーマンスに限定したのか。もう一歩踏み込んで、社会に対するメッセージを発しようという気にはならなかったのだろうか」
と言っている。

スポーツウオッシングに利用されても、そのイベントで多くの人が迷惑を被っても「自分たちはスポーツをすることが仕事であり、使命」と、そのことに耳をふさいでスポーツに専念することは、許されていいのか、と言っている。
平尾氏はこのようなかたちで、スポーツが権力に利用される状況が続くと、その価値が暴落すると警告を発している。

東京五輪に関連しては、池江璃花子に対し「五輪に反対しないのか」とSNSで発信されたことが、大きな話題となった。五輪推進派からも反対派からも「池江は関係がない」と言う声が上がった。私もそういう意見だったが、もう少し広い視野で考えれば、そうではなかったかもしれない。

東京五輪の主人公が本当にアスリートだと言うのなら、池江をはじめとするアスリートは自分の意見を明確に発信すべきなのだ。それをせず「難しいことは偉い人に任せて、僕たちはスポーツに徹します」という姿勢を続けることは、今後は厳しくなるのではないか。

日本では一般人でさえも「物事を深く考えず、流される」人が多いから、すぐには難しいかもしれないが、アスリートは、政治や世の中について明確な意見を持つべきだ。


1965年及川宣士、全登板成績

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