ひそやかに思うことは、我々はずいぶん長いこと「暴力」をコミュニケーション手段の一つとして肯定してきたのではないかと言うことだ。
夏目漱石の「坊ちゃん」ほど愛読された小説はないと思う。私も小学校時代、馬場のぼるの挿絵のついたジュニア版で初めて読んで、すぐに大人のバージョンでも読んで以来のつきあいで「坊ちゃん」のシーンはあらかた頭に浮かべることができる。
愛媛県の松山には良く行くが、坊ちゃん列車よりも、三津浜港であるとか、お城下の庭園であるとか、そういうところを見ると「ぷうと云って汽船がとまると」とか「盆栽展」とかのシーンを思い出す。
だれもが知っているが「坊ちゃん」は、主人公の坊ちゃんと盟友の山嵐が、校長の赤シャツやその取り巻きの野太鼓をさんざんに殴りつけて中等学校を辞めてエンディングになる。
あのシーンがなくて、赤シャツ、野太鼓と坊ちゃんたちが和解するとか、坊ちゃんとマドンナが結ばれるとか、坊ちゃんが校長に出世するとかだったら、あの小説は誰も読まなかっただろう。
嫌な奴らをさんざんに打擲するからこそ、坊ちゃんは永遠の名作になったわけだ。いわば「暴力」がカタストロフィになったわけで。
「坊ちゃん」では、暴力はカタストロフィだったが、昭和戦後になっても暴力は時によっては肯定的に受け止められてきた。
やくざ映画ではさんざんに痛めつけられた主人公が、最後は長ドスを下げて敵に乗り込み、悪人たちを殺しまくる。これ「坊ちゃん」の同工異曲である。
「巨人の星」の星一徹は、何かと言っては息子の飛雄馬を殴った。殴られた飛雄馬が家の壁板まで吹っ飛ぶこともあった。
寺内貫太郎は、倅の西城秀樹に組み付いて投げ飛ばしていた。
多くの青春ドラマでは、殴られることで自分の「非」に気が付いて、人生をやり直したりした。
要するに「口で言ってもわからない奴には、拳でわからせる」は、長い間「教育の一手段」として認められていたのだ。「愛の鞭」と言うやつだ。
しかしながら「暴力の容認」は、一方で「愛の鞭」の美名のもとに、陰湿な「いじめ」「しごき」「リンチ」などを生み続けてきた。
そしてその境目はよくわからない。殴ったほうは「愛の鞭」、殴られた方は「いじめ」と思うようなケースはたくさんあっただろうし、殴ることが常態化し、単なるマウンティング、上下関係の確認行為になったこともあっただろう。

「暴力」を肯定するのは、結果的に「加害者の言い分をうのみにする」ことになる。「状況によっては殴られた方が悪い場合もある」と規定することでもある。
しかし「暴力」は、相手の肉体や精神を傷つける。場合によっては「死」に至りかねない。そして本来「理非」で決めるべき物事を「腕力の強さ」で決めるのは、公正公平な道理を毀損することにつながりかねない。端的に言えば野蛮だ。
今の世の中は「どちらに非があるかにかかわらず、暴力は絶対にふるわない」ことにしようという決め事ができているのだ。
「あいつはこんなことをしたから、殴られても仕方がない」という理屈は、いまでは通用しない。
秀岳館の生徒が「僕たちが悪かったから暴力を振るわれた」と言っているのは、今の世のルールからは完全にアウトなのだ。
そして非常に残念な状況だが、今のロシアのウクライナへの侵攻も、同様の理屈で否定されるべきなのだ。

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だれもが知っているが「坊ちゃん」は、主人公の坊ちゃんと盟友の山嵐が、校長の赤シャツやその取り巻きの野太鼓をさんざんに殴りつけて中等学校を辞めてエンディングになる。
あのシーンがなくて、赤シャツ、野太鼓と坊ちゃんたちが和解するとか、坊ちゃんとマドンナが結ばれるとか、坊ちゃんが校長に出世するとかだったら、あの小説は誰も読まなかっただろう。
嫌な奴らをさんざんに打擲するからこそ、坊ちゃんは永遠の名作になったわけだ。いわば「暴力」がカタストロフィになったわけで。
「坊ちゃん」では、暴力はカタストロフィだったが、昭和戦後になっても暴力は時によっては肯定的に受け止められてきた。
やくざ映画ではさんざんに痛めつけられた主人公が、最後は長ドスを下げて敵に乗り込み、悪人たちを殺しまくる。これ「坊ちゃん」の同工異曲である。
「巨人の星」の星一徹は、何かと言っては息子の飛雄馬を殴った。殴られた飛雄馬が家の壁板まで吹っ飛ぶこともあった。
寺内貫太郎は、倅の西城秀樹に組み付いて投げ飛ばしていた。
多くの青春ドラマでは、殴られることで自分の「非」に気が付いて、人生をやり直したりした。
要するに「口で言ってもわからない奴には、拳でわからせる」は、長い間「教育の一手段」として認められていたのだ。「愛の鞭」と言うやつだ。
しかしながら「暴力の容認」は、一方で「愛の鞭」の美名のもとに、陰湿な「いじめ」「しごき」「リンチ」などを生み続けてきた。
そしてその境目はよくわからない。殴ったほうは「愛の鞭」、殴られた方は「いじめ」と思うようなケースはたくさんあっただろうし、殴ることが常態化し、単なるマウンティング、上下関係の確認行為になったこともあっただろう。

「暴力」を肯定するのは、結果的に「加害者の言い分をうのみにする」ことになる。「状況によっては殴られた方が悪い場合もある」と規定することでもある。
しかし「暴力」は、相手の肉体や精神を傷つける。場合によっては「死」に至りかねない。そして本来「理非」で決めるべき物事を「腕力の強さ」で決めるのは、公正公平な道理を毀損することにつながりかねない。端的に言えば野蛮だ。
今の世の中は「どちらに非があるかにかかわらず、暴力は絶対にふるわない」ことにしようという決め事ができているのだ。
「あいつはこんなことをしたから、殴られても仕方がない」という理屈は、いまでは通用しない。
秀岳館の生徒が「僕たちが悪かったから暴力を振るわれた」と言っているのは、今の世のルールからは完全にアウトなのだ。
そして非常に残念な状況だが、今のロシアのウクライナへの侵攻も、同様の理屈で否定されるべきなのだ。

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