大相撲は、遅くとも17世紀末には興行形態が固まり、18世紀半ばには今に続く番付が出来上がった。何度かふれているが、現存する最古の江戸大相撲の東大関(最上位)は1757(宝暦7)年10月場所の雪見山堅太夫だ。以後、今年の横綱照ノ富士まで、連綿とランキング表たる「番付」が続いてきた。
およそ世界のスポーツで、250年以上も同じ基本ルールで続いてきた競技は、大相撲以外にないだろう。

大相撲は、神社修復の勧進(寄付、チャリティ)行事と言う建前で始まり、幕府の許可を得ていた。今の番付の中央に大書される「蒙御免」はその名残だ。
当然のことながら、この当時、世界にも日本にも「スポーツ」と言う概念はなかった。むしろ大相撲は芸能のカテゴリーで、幕末ごろには歌舞伎役者と花形力士を好一対として描いた錦絵がたくさん描かれた。
当時は、いわゆる八百長、忖度なども普通にあったが、明治期になって西洋流の合理主義が入ってきて、大相撲は「競技」としての体裁を確立することになる。名誉称号だった「横綱」が最高位のランクになったのも明治期だ。

今日、たまたま大阪の勧進相撲の発祥跡地の前を通った。

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補足するならば昭和初期まで、相撲は江戸東京だけでなく、大阪、京都、名古屋などに別の組織があり、別の番付を作って相撲興行をしていた。京都、名古屋がなくなり、最後は大阪相撲が東京に吸収合併されて今の体制になった。三保ケ関、小野川、境川、朝日山などの親方名跡は大阪相撲からきている。

明治の大横綱初代梅ケ谷、常陸山は大相撲の近代化に尽力した。特に常陸山の出羽の海は、これまで「からしみそ、沢庵、飯」だった力士の食生活を見直して、総合栄養食である「ちゃんこ料理」を考案し、力士の健康面は大幅に改善された。

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戦後になって、日本社会に「スポーツ」の概念が本格的に定着するとともに、大相撲も「4本柱の廃止」「土俵の大型化」などスポーツとしての体裁が整備されていった。
1958年に準本場所などがなくなり、年6場所制となってからは、大相撲は「人気スポーツの一つ」として日本社会に認知されるようになる。この年は長嶋茂雄が巨人にデビューした年であり、日本のプロスポーツにとってはエポックメイキングな年だった。

しかしながら大相撲の「基本」である「ランキング表=番付を基本にした秩序」は、全く揺らいでいない。
昭和戦前、大相撲の改革を訴えて袂を分かった天竜一派は、髷を切るとともにボクシングのようなランキング表を作って興行をしたが、お客を集めることは全くできなかった。

日本のファンは単に「格闘技」としての相撲を愛好したのではなく、番付、髷、化粧まわし、土俵入り、部屋制度、ちゃんこ料理などの旧来の慣習も含めて大相撲を愛好したのだ。大相撲の本場所や巡業の独特の雰囲気、空気感も含めて相撲を楽しむ素地があり、その上に「スポーツとしての相撲」が乗っかっているのだ。

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今の相撲界で進んでいることは「番付による秩序」の破壊だ。単に格闘技としてみるなら毎場所「誰が優勝するかわからない」状態は面白いかもしれないが、横綱、大関=グランドチャンピオン、チャンピオンというランキングが有名無実になり、フラットな競技会になってしまえば、大相撲がこれまで紡いできた「物語」は、途切れてしまう。
それでもいいという人もいるだろうが、そうなれば大相撲を形作ってきた「舞台装置」「風習」「文化」なども「なくてもいい」と言うことになりかねない。

これまでの大相撲は傑出した指導者の登場で、様々な危機を乗り越えてきたが、今のハザードは「決定的な問題」が起こっていなくて、なんとなく「おかしな空気」が漂っていると言う状態なので、非常にたちが悪い。
今年までは観客動員の減少は「コロナ」のせいにできるが、来年以降、慢性病のように大相撲は病み続けるのではないかと言う危機感を抱いている。


NOWAR


1982・83年松沼博久、全登板成績

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