12月28日に放映された、NHKの「笑いの正体」と言う番組は、圧巻だった。三村マサカズ、博多大吉、後藤輝基、小峠英二、銀シャリ橋本、ハリセンボン春菜、オズワルド伊藤ら「ツッコミ芸人」が、自らの「芸」「技術」について語るのだ。
私は昭和の時代の漫才師をたくさん知っている。個人的に話もしたが、彼らは自分の「芸」について具体的に語ることはほとんどなかった。
なぜなら昔の漫才師は、漫才作家の台本通りに漫才をしていたからだ。漫才作家は、「ぼけ、ツッコミ」というキャラクターに当て込んで台本を書いていた。漫才師はその台本通りに漫才を演じていた。
もちろん「間」や「テンポ」を工夫していたし、セリフを自分のものに置き換えてはいた。しかし当時の芸人は「このタイミングでなぜこんなツッコミをするのか?」と聞かれても「台本に書いてあるから」としか言えなかった。
漫才師が自分で台本を考え、自分の言葉で演じるようになったのは、ダウンタウンくらいからだろう。彼らが出始めのころ、藤本義一が主宰する「笑の会」に所属する若手作家が台本を提供していたように記憶する。若手作家たちとダウンタウンについて議論をした記憶もあるが、ダウンタウンが台本で漫才をしていたのは香川登志緒に評価されてデビューしたごく初期のころだけだったと思う。
新しい世代の漫才師は「師匠」を持たず、自分の力だけで世渡りをするようになる。漫才も自分で考え、自分の言葉で人を笑わそうとするようになる。芸人が自分の「芸」「技術」について語り始めたのは、それからだろう。そして昭和の時代の漫才とは次元が違うレベルへと進化していったのだ。
漫才作家は「構成作家」と名前を変え、芸人のブレインとしてネタを拡げる役割を担った。
「笑いの正体」でツッコミ芸人たちは、極めて精緻な言葉で、自分たちの「芸」を語った。
博多大吉は
「“とにかくツッコミがダメだ”って言われてたので。華丸はいいけど、とにかくツッコミが弱い、弱いって言われてて」
しかし
「矢作くんのツッコミを見た時に“これ、ありなんだ”って。分かりやすく言うと、突っ込まない。そこから遠慮なくいただきましたね」と語る。
まさにアスリートのように、技術論を語るのだ。

そういえばアスリートも昔は言葉を持っていなかった。自らのフォームなどについては多少語ったが、細かい技術論はそれほどなかった。王貞治や金田正一が自分のフォームについて詳細に語ることはなかった。
しかし今のトップアスリートは、自分の体の動きについて詳細に語ることができる。細かな動きも、その時の自分の「感覚」も。最近は、回転数や回転軸、軌道などのデータも交えて。
それは彼らも「人に言われてしている」のではなく、自分で自らのフォームを作っているからだ。自分の身体を知悉して、自分の判断で進化させている。アナリストなどの助言を受けるにしても、すべて主語は「自分」だ。
だから、自分の身体についてだれよりもよく知っているし、それを具体的に語ることができる。
上の人間の言うことに唯々諾々と従うようなアスリートは、成功することができない。それは芸人も同じなのだろう。
自分のこと、自分のやっていることを能弁に語る人が、カテゴリーのトップに立っている。
今はそういう時代なのだ。


1982・83年松沼博久、全登板成績
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なぜなら昔の漫才師は、漫才作家の台本通りに漫才をしていたからだ。漫才作家は、「ぼけ、ツッコミ」というキャラクターに当て込んで台本を書いていた。漫才師はその台本通りに漫才を演じていた。
もちろん「間」や「テンポ」を工夫していたし、セリフを自分のものに置き換えてはいた。しかし当時の芸人は「このタイミングでなぜこんなツッコミをするのか?」と聞かれても「台本に書いてあるから」としか言えなかった。
漫才師が自分で台本を考え、自分の言葉で演じるようになったのは、ダウンタウンくらいからだろう。彼らが出始めのころ、藤本義一が主宰する「笑の会」に所属する若手作家が台本を提供していたように記憶する。若手作家たちとダウンタウンについて議論をした記憶もあるが、ダウンタウンが台本で漫才をしていたのは香川登志緒に評価されてデビューしたごく初期のころだけだったと思う。
新しい世代の漫才師は「師匠」を持たず、自分の力だけで世渡りをするようになる。漫才も自分で考え、自分の言葉で人を笑わそうとするようになる。芸人が自分の「芸」「技術」について語り始めたのは、それからだろう。そして昭和の時代の漫才とは次元が違うレベルへと進化していったのだ。
漫才作家は「構成作家」と名前を変え、芸人のブレインとしてネタを拡げる役割を担った。
「笑いの正体」でツッコミ芸人たちは、極めて精緻な言葉で、自分たちの「芸」を語った。
博多大吉は
「“とにかくツッコミがダメだ”って言われてたので。華丸はいいけど、とにかくツッコミが弱い、弱いって言われてて」
しかし
「矢作くんのツッコミを見た時に“これ、ありなんだ”って。分かりやすく言うと、突っ込まない。そこから遠慮なくいただきましたね」と語る。
まさにアスリートのように、技術論を語るのだ。

そういえばアスリートも昔は言葉を持っていなかった。自らのフォームなどについては多少語ったが、細かい技術論はそれほどなかった。王貞治や金田正一が自分のフォームについて詳細に語ることはなかった。
しかし今のトップアスリートは、自分の体の動きについて詳細に語ることができる。細かな動きも、その時の自分の「感覚」も。最近は、回転数や回転軸、軌道などのデータも交えて。
それは彼らも「人に言われてしている」のではなく、自分で自らのフォームを作っているからだ。自分の身体を知悉して、自分の判断で進化させている。アナリストなどの助言を受けるにしても、すべて主語は「自分」だ。
だから、自分の身体についてだれよりもよく知っているし、それを具体的に語ることができる。
上の人間の言うことに唯々諾々と従うようなアスリートは、成功することができない。それは芸人も同じなのだろう。
自分のこと、自分のやっていることを能弁に語る人が、カテゴリーのトップに立っている。
今はそういう時代なのだ。


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コメント一覧
三遊亭圓丈師真打に昇進して「実験落語会」を開いてからはやはり変わりました。
噺家は台本を自分で書いて(一部書かずに熟成させる噺かもいますが)自分の言葉で高座を努めます。今では新作派の噺家は殆どがそうなりました。ただ、優れた新作は作者以外の噺家も許可を得て演じるようになりました。そこが漫才とは違いますね。
個人的にですが新作落語に比べて漫才はネタの消費が非常に早いと思います。ネタを熟成させる間が少ないと思います。
新作落語は繰り返し高座に掛けられ熟成して行きますが今の特に若手の漫才のネタは少し使い捨てのような気もするのです。
落語は「何度も聞いて微妙な味わいの違いを楽しむ」芸ですね。その点で歌舞伎や能楽に近い部分がある。これに対し漫才は「常に新しいものに触れて驚きたい」というファンに向けて発信されています。落語=ストック、漫才=フローと言っても良いかもしれません。
こんなの書いています。
http://xs931199.xsrv.jp/hanashinotsuredure-all/