辞書によれば「文化」とは「複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系のこと」だと言う。
この言葉に従えば、ある特定のグループが行う活動はすべて「文化」ということになる。
プロ野球の応援も、特定の人々が行う独特の踊りや応援歌などが「文化」であるのは、間違いない。
生態学の世界では、人間以外の生き物にも、特定のグループにだけ見られる「特徴ある行動」を「文化」と呼ぶことがある。幸島のニホンザルが芋を海水で洗って食べるのも「文化」だとされているし、ある種のカラスは棲む場所によって鳴く声が違うが、これも「文化」だと言われている。
プロ野球応援団の「文化」は、ニュアンス的にはニホンザルやカラスの「文化」とほぼ同じである。
しかし応援団の人々が「俺らの応援は文化だ」というのは「サルやカラスと一緒だ」と言っているのではない。
「文化財」とか「伝統文化」とか「文化勲章」とかに使われる「立派なもの」「尊重すべきもの」と言うニュアンスで「文化」と言っているのだ。
つまり「俺たちは立派なことをしている」「尊重すべきことをしている」と主張しているのだ。
本当にそうなのだろうか?
あまり知られていないが、日本には「野球文化學會」と言う学会がある。私もそのメンバーだが、この会では明治期に野球が日本に到来して以来の各地の歴史、MLBが人気を博する中で生まれた文学や芸術などについて研究、発表をしている。
今年の正月には、野球文化學會での慶應義塾大池井優名誉教授の「野球150年」の講演をNumber Webで紹介した。
しかし「プロ野球の応援」についての研究は寡聞にして知らない。野球文化學會では「応援」を文化とは認めていないようだ。
一つには「プロ野球の応援」の歴史が浅いこと。どこで区切るかは議論があるだろうが、今の応援スタイルができてたかだか20年、文化として評価するのは早すぎるという感じか。
もう一つには「自発的に起こった」と言うよりは球団側のマーケティングに乗って行っているとみられること。つまりファッション、消費に類するものだとみることもできるからではないか。
さらに言えば「社会全体が認知している」かどうか、と言う点も疑念が残る。自分たちは立派なことをしていると思っているが、そうは思っていない人もいる。たとえは悪いが暴走族やチーマーなどもある種の「文化」だが、社会的認知はない。応援団も、社会全体が認めている、と断言することはできない。

そもそも「文化」であるかどうかは、自分たちで決めるものではない。「俺たちは文化だ」といくら主張しても、社会が是認しなければ「ええもん」と言うニュアンスの「文化」足り得ない。
こういう話題ですぐに想起するのは、石田純一だ。彼は不倫が発覚した時に「不倫は文化だ」と言った。それはサルやカラスと同レベルだと認めたわけではなく「知的で格好のいい行為だ」と主張したのだ。石田純一が生きている限り、一生この言葉であげつらわれ、嘲笑されるだろうが「野球の応援は文化だ」という応援団自身の主張も、そういうニュアンスがある。
もちろん伝統文化筆頭たる「歌舞伎」も京都、四条河原で行われた怪しげな男女による「かぶき踊り」が発祥だ。数百年をかけて不良の踊りが「文化」に昇華したのだ。
だから100年以上この応援が続けば、リーダーが「無形文化財」になる可能性もあるが、今は時期尚早だろう。
プロ野球の応援は「そんな大層なものではない」少なくとも今は。
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1960~62年柿本実、全登板成績
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生態学の世界では、人間以外の生き物にも、特定のグループにだけ見られる「特徴ある行動」を「文化」と呼ぶことがある。幸島のニホンザルが芋を海水で洗って食べるのも「文化」だとされているし、ある種のカラスは棲む場所によって鳴く声が違うが、これも「文化」だと言われている。
プロ野球応援団の「文化」は、ニュアンス的にはニホンザルやカラスの「文化」とほぼ同じである。
しかし応援団の人々が「俺らの応援は文化だ」というのは「サルやカラスと一緒だ」と言っているのではない。
「文化財」とか「伝統文化」とか「文化勲章」とかに使われる「立派なもの」「尊重すべきもの」と言うニュアンスで「文化」と言っているのだ。
つまり「俺たちは立派なことをしている」「尊重すべきことをしている」と主張しているのだ。
本当にそうなのだろうか?
あまり知られていないが、日本には「野球文化學會」と言う学会がある。私もそのメンバーだが、この会では明治期に野球が日本に到来して以来の各地の歴史、MLBが人気を博する中で生まれた文学や芸術などについて研究、発表をしている。
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しかし「プロ野球の応援」についての研究は寡聞にして知らない。野球文化學會では「応援」を文化とは認めていないようだ。
一つには「プロ野球の応援」の歴史が浅いこと。どこで区切るかは議論があるだろうが、今の応援スタイルができてたかだか20年、文化として評価するのは早すぎるという感じか。
もう一つには「自発的に起こった」と言うよりは球団側のマーケティングに乗って行っているとみられること。つまりファッション、消費に類するものだとみることもできるからではないか。
さらに言えば「社会全体が認知している」かどうか、と言う点も疑念が残る。自分たちは立派なことをしていると思っているが、そうは思っていない人もいる。たとえは悪いが暴走族やチーマーなどもある種の「文化」だが、社会的認知はない。応援団も、社会全体が認めている、と断言することはできない。

そもそも「文化」であるかどうかは、自分たちで決めるものではない。「俺たちは文化だ」といくら主張しても、社会が是認しなければ「ええもん」と言うニュアンスの「文化」足り得ない。
こういう話題ですぐに想起するのは、石田純一だ。彼は不倫が発覚した時に「不倫は文化だ」と言った。それはサルやカラスと同レベルだと認めたわけではなく「知的で格好のいい行為だ」と主張したのだ。石田純一が生きている限り、一生この言葉であげつらわれ、嘲笑されるだろうが「野球の応援は文化だ」という応援団自身の主張も、そういうニュアンスがある。
もちろん伝統文化筆頭たる「歌舞伎」も京都、四条河原で行われた怪しげな男女による「かぶき踊り」が発祥だ。数百年をかけて不良の踊りが「文化」に昇華したのだ。
だから100年以上この応援が続けば、リーダーが「無形文化財」になる可能性もあるが、今は時期尚早だろう。
プロ野球の応援は「そんな大層なものではない」少なくとも今は。
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コメント
コメント一覧
ファッションもそうですけれど、シンプルで伝統的で粋なファッションは文化として今も残っていますが10数年レベルで絶滅したパンチパーマとかの髪型と同じであの応援というのは流行りレベルで文化と呼べるものではないですね。
ここ数日、大相撲では奇声に似た声援が問題になってます。
立会直前の大声での声援のせいで力士が力を発揮できなかったのではないかと。
同様にバッターボックスに入ったバッターはその時は静かにしてほしいと感じてる可能性もあります。
もしそうであれば、選手が声を上げることにより応援団のより良い応援の仕方というものが創り出せるのではないかと思いますが。
こちらはどうなんでしょうか?
恐らく「一時のはやり」になると思います。
>選手の力になってるのかどうかが全てではないかと思います。
違うよ。そんなもの計測できないし、エビデンスにならない。
私は応援団の存在は「我慢する」と言っている。でも、球場に来ている人が全員、北朝鮮の「民族の祭典」みたいな騒ぎを喜んでいるのではない、と言うことは知っておいてほしいと言っている。
応援団は私に言わせれば「必要悪」です。
実際、野球の試合中に馬鹿騒ぎする集団は、本当の意味で野球が好きなのではなくて、相手チームや打たれた投手三振した打者を侮辱するということに価値を感じているように思われます。あるいは野球観戦を妨害することで、観戦を邪魔されて迷惑を被る人の姿を見て愉しむことが半ば目的になっているようにもとれますね。
そういった集団が野球という競技を利用して迷惑行為をすることで野球全体の印象を下げているので、声を出す応援が一日も早く全面禁止にならないか、心待ちにしてしまいます。
Jリーグは「応援による試合参加」を前提として成立しています。だからお客をファンではなくサポーター、つまりステークホルダーとみなしています。それこそ文化が違うと言えるでしょう。
私はJリーグの思想を尊敬していますが、ピッチで観戦したいとは思っていません。何度か行って辟易したので。
それとこれとは別の話です。
まさしく御意です。
1998年に福岡へ転勤、ドーム近くの百道浜の社宅に住んでいた私から見ると、当時の外野の応援はまだ微笑ましいと思えるレベルでした。
翌年1999年に優勝するころから一気に「応援ダンス」が流行り、インプレー中でも目の前で大型フラッグを振り回され、ビール片手にスコアをつけていた私は、内野への「撤退」を強いられました。
チームが強くなるということは、よくも悪くもファンの裾野が広がるのですね。
その後、内野でもメガホン持参で、後ろから私の列の座席を叩くファンが増えました(笑)。
賑やかな応援も、ファン拡大には必要(悪)なのでしょうが。
いつも、いい記事をありがとうございます。
スポーツにおいて応援はアスリートファーストが基本だと思いますが野球は違うということですか?
そうならば応援団は必要悪とか達観するより変化を求めるべきだと思いますけど。
観戦する立場は違えど選手のベストパフォーマンスが見たいのは同じでしょう。
選手が喜んでいるかどうかの「評価」なんかできないと言っている。チームが推奨している「応援」について、選手が否定することはできない。
アスリートファーストはこの議論に関係ない。大雑把なコメントは、これ以上しないでほしい。
あそこまで熱く応援できることには一定の敬意は表しますが、そうしない人たちを見下したり、嫌なら来るなと排除しようとする一部の連中を見るのは、正直うんざりします。
Jリーグの方が「サポーター」と自認してチームに貢献してると(勝手に)考えてるる分、その傾向が強く感じます。あくまで私見ですが。
応援したいファンと静かに見たいファンがいるのと同じように
オレの登場曲でジャンプして!と
自ら応援スタイルを引っ提げた山崎みたいなのもいるわけですし
「みんながオレを応援してる〜」というのを活力にする選手も
「うるさくて集中できんなぁ」な選手も絶対にいますから
だから「選手がどう感じているか」はプロ野球応援の是非の判断材料にはならないよね。
契機は90年代のロッテではないでしょうかね。
あのスタイルを各球団が多かれ少なかれ真似て、応援団を球団公認のコンテンツにし、パ・リーグなんかでは良くも悪くも人気拡大にも寄与したと思うのですが、やはり今のスタイルは好きになれません。
日本式の応援で一番イヤなのは「守備側を応援しない」ことですね。無論守備時にもトランペット吹けということではなく、いつぞやの中日での「頑張れ松坂!」みたいな現象が自然に起きる事こそ感動的なのですが。あのシーン、敵応援団のトランペットは間違いなく邪魔でしかなかったです。
まあ日本スタイルが好きと人もいて、需要はあるので仕方ないですが。
その通りです。
あ、う〜んさんにレスつければよかったですね
札幌なんか、それこそいつからか自然発生的に
3ボールになったら守備側が拍手してますね
ただ、それも自然発生してから数年、半強制チックになってるので
自然発生したものが半強制になることそのものが文化なのかも。。。
それは思いました。今日の日本戦も、ランナーを背負った大谷やダルビッシュに自然に拍手がわくのはいいと思いましたが、なんか毎回やることになってる?って思わなくもなかったです。
ある程度はそんなもんでしょうが、みんな人がやってることを真似するのが好きなんでしょうね。そうすると最初の意図とは別にのべつまくなしにやることになっちゃうのでしょう。
そうならないように、好き嫌いを超えた客観的な研究が行われることをお祈りします。それに基づいての批判なら改善への方向性も見えてくることでしょうし。
野球文化學會が「野球応援」を研究対象にしていない理由は、すでに述べました。
「文化」として研究対象にするには、時間的に浅く、歴史的な評価もできていないことから、研究対象になっていません。
このコメントを見る限り
>「野球文化學會ってたいそうな名前なのにその程度のものか」
と言えるほどの学殖があるようには思えません。
研究対象になるかどうかなど、それこそ研究してみないとわからないでしょう。学会ですよね。定期大会とかで、そういう発表をする人は一人もいないのですか? そこでの議論があってこそ、時期尚早かどうかの判断がつくというものでしょう。
違うって、野球の応援団は、原宿のファッションとか、若者の流行語などと同様「社会学」分野の研究テーマで、まだ「文化」の範疇にはなっていない。
人間の「文化」としての研究は「歴史的な検証」とか「広範な評論」とか、評価を下すべき議論ができるまでの「蓄積」ができてから本格的に始まる。
20年ではそれは無理。