一緒に歩いていても誰も振り向かない師匠ではあった。1932年生まれだから生きていれば来年92歳。
身長は180㎝くらいあっただろうか?細身で、ペンネームは青井竿竹。高座に上がると「エチオピヤの煙突掃除が上がりまして」と言っていた。
酒は一滴も飲まなかったが、皮膚は真っ黒だった。おそらく肝臓をいためていたのだろう。最後も肝硬変で死んだが、若いうちに無茶をしたのではないだろうか。

寝屋川だったか四条畷だったかの地主のせがれで、珍しく立命館大学に通っていた。この世代では大東文化大に行った桂米朝と文紅だけだろう。

20歳くらいの年に、私がはじめて口をきくようになった噺家だった。大阪シナリオ学校の講師で、授業の後、飲み屋に行ったのが最初だ。法善寺横丁をこの師匠とぶらぶら歩いていた時に「夢みたいや」と思った気持ちを今も覚えている。私の大学の先輩でもあり、かわいがってもらった。

師匠は四代目桂文團治。米朝の師匠の四代目桂米團治とは同系統だが、戦後はあまり高座に上がらず、文紅に話を教えただけ。ごっつい体で「ゴジラ」と呼ばれたという。音源はいくつか持っているが、私は知らない。

およそ文紅ほど地味な噺家はいなかった。おそらくはあがり症でもあり、早口で口跡もわるかった。くしゃくしゃと話すので、客席に伝わりにくく、笑い声はほとんど上がらなかった。
しかし、この師匠しか演じないネタもいくつかあった。大盗賊の鬼薊清吉が家族を捨てて逃亡する悲劇を描いた『鬼薊清吉』はその代表で、父親が鬼薊を諫止するシーンは真に迫っていた。

ただ、文才のある人で、青井竿竹の名でラジオやテレビの台本作家として活躍。また桂文我と一緒に「文文」と名乗ってラジオの番組をやっていた。

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仲間内を笑わせる名人で、楽屋でいろんな洒落言葉を考えては、若手の噺家を笑わせていた。後輩からは慕われていたと思う。
1984年、初代桂春団治の50回忌の法要が一心寺で行われた。文紅は桂枝雀と並んで座っていた。私はま後ろにいたが、文紅は何事か面白いことを枝雀に囁いたようで、枝雀は笑いが止まらなくなった。施主の三代目桂春団治がじろっと睨んだのを覚えている。

50代半ばから、まったく仕事がなくなったようで、広告会社に就職してコピーライターになった私に「広告文案の仕事はないか」と言ってきた。しかしバブルの気配が濃厚になる時勢で、文紅に合うような仕事は、私には思いつかなかった。

それから数年して、大阪に本社がある大企業にプレゼンするために、御堂筋沿いの大きなビルに入ったら、エレベーターホールに警備員の制服を着た桂文紅がいた。
スーツ姿で部下と一緒にいた私は、見てはならないものを見た気がしたが、師匠は優しい顔をして「今、こんなんやってるねん、元気か?」と言った。悲しい気持ちがした。

72歳は早い気もした。葬式は昔の噺家が集まった。みんな売れないままに年をとっていて懐かしかった。

出囃子は「お兼晒し」師匠には似合わない可憐な節回しの曲だが、東京の柳家花緑も同じ出囃子を使っているので、数年前にインタビューをしたときに「文紅師匠から譲られたものか」と聞いたが「そういう師匠がいたと聞いたことがありますが、お目にかかったことはありません」と言った。

これも寂しい気持ちがしたが、落語家の人生とはこういうものかもしれない。

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