「根性」はもともと「性根」と同義語だった。つまり自分の心の持ちよう、気持ちのあり方。だった。
「性根が座っている」「性根が曲がっている」という言葉は「根性が座っている」「根性が曲がっている」と言い換えても意味が変わらない。キャラクターとか

しかし「根性」という言葉が単独で使われると、意味が少し変わってくる。物事に対して一生懸命に取り組むときの「心根」「モチベーション」、さらには「忍耐強さ」みたいなイメージが加わってくる。

「根性」というこ言葉は高度経済成長期の後期に当たる1964年の、東京オリンピックで女子バレーを率いて金メダルを獲得した大松博文が、新しい意味を付加したといわれている。猛練習に耐えて何が何でも勝利をつかむ「強いメンタル」のようなニュアンスだ。
大松自身が過酷な軍隊生活を経験し、軍隊的なハードトレーニングを女子選手に強いたが「それに耐えて」勝ち抜くメンタルを「根性」と言ったわけだ。

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大松自身は「あくまで主体的に頑張る気持ちであり、人に強制されるものではない」としていたようだが、そういう部分は伝わらず「苦しいことにひたすら耐えること」を「根性」と呼ぶようになった。
1968年に大ブームになったアニメ「巨人の星」の主題歌で
「思い込んだら試練の道を、行くが男のど根性」と言ったことで、そういうイメージがさらに定着した。
「根性焼き」という卑劣なリンチがある。強者が弱者の腕や手にタバコの火を押し付けるものだ。それに耐えるのが「根性」だというのだ。

本来、刻苦勉励するのは「自分のため」であり、そうすることで何らかの目標が「成就」するものだったが「根性」という言葉の意味が定着して以降「目上の人の言うことに盲従して、ひたすら耐えることで道が開ける」ようなことを「根性」というようになった。

今では、「根性」とは、深く意味も考えずに上からの命令に従って、どこまででも耐えるような日本人特有のメンタルのことを言うようになった。

そしてスポーツは「根性をつける」ためにやるものであり、指導者は技術以上に「根性」を鍛えることが大事だと思うようになった。

高度経済成長期以降、とにかく上の言うことを聞いて、どんなことでも耐える、これが立派な人間になる道だという「信仰」が半世紀以上続いたのだ。

日本経済が停滞したのは、経済の中核に「ド根性人間」が塊でいたことが大きいのではないか。
そしてスポーツ界でも「根性」が宿痾のようにわだかまり、世界との間に大差が開いたのだ。

目的がはっきりしなくても「根性」が出せる日本人という民族の不気味さ、不可解さを今一度、かみしめるべきだろう。

スポーツ界から「根性」を一掃すべき時が来ている。


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